【泣ける短編】閉店する時計店で父と息子が腕時計を直した夜

時が動き出す青い時計店 家族の話

「返品できますか」

十一年ぶりに店へ入ってきた息子は、私の顔を見ずにそう言った。

差し出された腕時計は、銀色のケースに細い傷が何本も走っていた。

高校を卒業した春、私が店の棚から選んだ時計だった。

革のベルトだけが新しくなっている。

壊れた物より、使い続けられた物のほうが、修理屋には始末が悪い。

どこが悪いのか、持ち主の癖まで考えなければならないからだ。

ガラス戸には「明日をもちまして閉店いたします」と貼ってある。

商店街の建て替えで、店を明け渡すことになった。

私は三か月前、自分で判を押した。

誰のせいにもできない閉店だった。

「明日の朝、六時十五分の電車なんだ」

息子は言った。

「新しい職場が遠い」

「どこへ行く」

「聞いてどうする」

昔から、こいつは質問に答えない。

私も昔から、答えない相手に腹を立てる。

親子というのは、直らない時計の部品を同じ箱に入れておくようなものだ。

時計を裏返すと、竜頭の根元が折れていた。

部品さえあれば直る。

ただ、その部品はもう製造されていない。

「修理代は千二百円だ」

私は値札を見るふりをして言った。

息子は財布から千円札を三枚出し、カウンターへきっちり揃えた。

「三千円で頼む」

「多い」

「急ぎだから」

「親子からは取れん」

そう言った途端、息子の口元が固くなった。

札を財布に戻し、時計を掴もうとした。

「じゃあ、ほかへ持っていく」

私は反射的に、その手首を押さえた。

大した力ではない。

もう、息子を引き留められるほどの力は残っていない。

「直す」

「ただなら、いらない」

「なぜだ」

「父さんは、ただで直すと、そのあとまで直そうとするからだ」

息子は私の手を外した。

「仕事も、住む場所も、何を食べるかも。壊れてないところまで、全部」

私は何も言えなかった。

十一年前、息子が大阪へ行くと言った夜を思い出した。

私は店を継がないのかと聞いた。

息子は継がないと言った。

それだけの話だったのに、私は「金のかかる夢なら、自分で払え」と言った。

息子は翌朝、置き手紙も残さずに出ていった。

私も追わなかった。

店を開ける時間だったからだ。

人間は、時計屋になると、時刻を理由にして逃げられる。

息子は「七時に戻る」と言い残し、店を出た。

私は時計を作業台へ置いた。

部品箱を一段ずつ開けた。

同じ型の竜頭は見つからない。

最後に残ったのは、ショーケースの奥にある展示品だった。

息子に渡した時計と同じ型で、閉店まで売れなかった一本。

私は何年も、あれを売れ残りだと思っていた。

けれど、いまは店が始まったころの、最後の目印のように見えた。

掛け時計が九時を打った。

私は展示品を取り出した。

細いねじを外し、竜頭を抜く。

秒針は止まった。

店の中が、急に広くなった気がした。

修理布に油を含ませ、息子の時計を拭いた。

小学生のころ、あいつはこの布で店のガラスを磨いた。

拭き残しばかりで、私は何度もやり直させた。

そのくせ、夕方になると、缶ジュースを一本だけ買ってやった。

優しくしたつもりでいた。

安い父親だった。

午前四時、竜頭が噛み合った。

巻き上げると、秒針が一度、二度、三度と動いた。

乾いた音だった。

小さな虫が、夜の箱の中で羽をこするような音だった。

私は領収書を一枚抜いた。

宛名の欄を前にして、また手が止まった。

「荒井浩二様」と書けば、客になる。

「浩二」と書けば、私はまた父親のつもりになる。

しばらく考えてから、私は前者を書いた。

朝六時、息子が戻ってきた。

眠っていない顔だった。

私も似たようなものだろう。

直った腕時計を差し出すと、息子はすぐには受け取らなかった。

文字盤の上で、秒針が真っ直ぐ進んでいる。

「千二百円」

私は言った。

息子は千円札一枚と、百円玉二枚を出した。

私はそれを受け取った。

百円玉は、夜明け前の金属みたいに冷たかった。

領収書を渡すと、息子は宛名を見て、小さく息を吐いた。

「客になれた」

「うるさい」

「ずっと、これが嫌だった」

息子は腕時計を手首に巻いた。

「父さんに頼ると、また子ども扱いされる気がしていた」

私は作業台の引き出しを開けた。

そこには、三か月前に家へ運んだ小さな修理台の住所を書いた名刺がある。

閉店後は、頼まれた物だけ直すつもりで作ったものだった。

誰にも渡していない名刺だった。

私は一枚を息子へ差し出した。

「次はここへ送れ」

息子は受け取らなかった。

「修理代、先に入れていいか」

「千二百円でいい」

「細かいな」

「時計屋だからな」

息子は笑った。

十一年ぶりに聞く笑い声だった。

電車の時間が近づくと、息子は戸口で振り返った。

「閉店の日、手伝うよ」

私は店の灯りを一つ消した。

それでも作業台の灯りだけは残した。

「遅れるな」

息子は腕時計を見た。

「もう遅れない」

秒針の音は、閉じる店の中で、いつもより少しだけ大きく聞こえた。

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