父が死んだ翌朝、海は、こちらを馬鹿にするように凪いでいた。
私は港へ向かう軽トラックの中で、古いラジオをつけた。
夜明け前の地域番組では、漁師のために風向きと波の高さが読み上げられる。
父は船を降りてからも、毎朝この放送を聴いていた。
海へ出ない男が波の数字だけを数えている。
私はそれを、臆病者の未練だと思っていた。
番組の終わりに、女性司会者が言った。
「昨日、漁協から訃報が届きました。今日は、長く投稿をくださった“岬の古時計”さんの、最後のお便りを紹介します」
私はアクセルから足を離した。
父の家には、岬の形をした古い置時計があった。
*
父と最後に漁へ出たのは、五年前だった。
沖で急に風が変わり、船が大きく傾いた。
私は絡んだ網を切ろうとした。
父は私の腕をつかみ、
「網に触るな。お前は舵だけ見ろ」
と怒鳴った。
港へ戻ったあと、父は漁師仲間の前で言った。
「お前に海は向かん」
皆が聞いていた。
私は、殴られたほうがましだと思った。
翌日、父の船を降りた。
別の船主に頭を下げ、雇われ漁師になった。
父は一か月後、母と二人で買った船を売った。
私には何の相談もなかった。
私は、父が船と一緒に息子まで見限ったのだと思った。
それから父とは、天気の話しかしなくなった。
父は早朝になると、
「今日は南風が強い」
「沖へ出すぎるな」
と電話をかけてきた。
私は、
「自分はもう漁師じゃないだろ」
と言って切った。
心配というものは、受け取る側が傷ついていると、命令に聞こえる。
*
ラジオから、紙を開く音がした。
「この手紙は、ご本人から『自分が死んだあと、凪いだ朝に読んでほしい』と預かっていました」
司会者が読み始めた。
「五年前、私は一人息子を船から降ろしました。
海に向かないと言いました。
あれは嘘です。
向かなかったのは息子ではなく、私の船でした」
私は路肩へ車を止めた。
「嵐の日、操舵装置が一度きかなくなりました。
港で調べると、船底にも深い亀裂がありました。
修理する金はありませんでした。
息子に話せば、借金をしてでも直すでしょう。
だから嫌われることにしました。
臆病者と思われても、息子を沈む船へ乗せるよりはよかった」
フロントガラスの向こうに、灰色の海が見えた。
あの日、父は網を守ったのではなかった。
私の手を舵から離させまいとしていたのだ。
「船を売ってから、息子の船が出る朝は岬へ行きました。
赤い灯りが沖で見えなくなるまで立っていました。
帰る時刻にはラジオをつけ、事故の知らせがないことを確かめました。
息子は、私が自分を信じなかったと思っているでしょう。
違います。
信じていたから、手放しました」
司会者の声が少し震えた。
「親は、子どもの船に乗れなくなったあと、どこから見守ればよいのでしょう。
私は岬に立ちました。
病気で歩けなくなってからは、ラジオの前に座りました。
息子の船が帰った夜だけ、よく眠れました。
もし、この文をあの子が聞いていたら、伝えたい。
海に向かないと言ったことを、謝りたい。
お前が海にいることを、私は誰より誇りに思っていた」
最後に、父らしい短い一文が読まれた。
「今日も出すぎるな。帰ってこい」
そこで天気予報の音楽が流れた。
私はハンドルへ額をつけた。
父は荒れた日に読めば、私が泣いて操船を誤ると考えたのだろう。
死んだあとまで、心配の仕方が不器用だった。
*
その夜、父の家を片づけた。
台所の棚に、銀色の小さなラジオがあった。
選局は地域放送に合ったままだった。
その下から、放送局へ送った投稿文の控えが何十通も出てきた。
「今日は息子の船が大漁旗を上げて帰った」
「漁協で、若い者へ網の直し方を教えていた」
「腰を痛めたようだ。無理をしなければよいが」
父は私の知らないところで、私のことばかり書いていた。
最後の便箋には、放送された文章のあとに、読まれなかった一行があった。
「見守るだけでは足りなかった。生きているうちに、誇りだと言えばよかった」
私はラジオを抱いて泣いた。
言えばよかったのは、私も同じだった。
電話を切らずに、一度くらい、
「分かった。気をつける」
と答えればよかった。
*
春から、私は十八歳の青年を船に乗せるようになった。
失敗するとすぐ謝る、昔の私によく似た男だった。
ある朝、沖が荒れる予報だったので、私は出港をやめた。
青年は悔しそうに言った。
「俺を信用していないんですか」
私は危うく、
「お前に海は向かん」
と言いそうになった。
喉まで出た父の言葉を、飲み込んだ。
「信用しているから、今日は出ない」
私は船室のラジオをつけた。
南西の風、波二メートル。
青年は黙ってうなずいた。
港の向こうで、岬の灯りが朝日に消えていった。
誰かを見守るというのは、そばに置き続けることではないのかもしれない。
ときには船を手放し、遠くから帰りを待つことなのだ。
けれど、父さん。
私はあなたより、少しだけ上手にやってみる。
心配していることも、信じていることも、今度は言葉にする。
ラジオの雑音の向こうで、波の音がした。
私は岬へ向かって、小さく言った。
「分かったよ。今日も帰ってくる」




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