泣ける話

終点までのあいだ

山あいの町の朝は、平地より少し遅れて明るくなる。  谷の底へ光が落ちてくるまでに、いくつもの屋根と木々の影をくぐるからだろう。  そのせいか、町全体が目を覚ますのにも、少し時間がかかる。  味噌屋の煙突から白い湯気がのぼり、郵便局の前に赤いバイクが出て、川沿いの道にだけ先に日が差す。
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雨だれの行き先

雨の夜の路地は、昼より少しだけ本音に近い。  人通りが減るからかもしれないし、アスファルトが濡れて、町の灯りを余計に映してしまうせいかもしれない。  昼間なら見過ごせるものが、夜の雨の中では、妙にくっきり浮かぶ。
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鍵の鳴る部屋

昼間は子どもの声や買い物袋のこすれる音で、どうにか人間の顔をしているくせに、陽が傾くころには、廊下も階段も、いっせいに古びた骨みたいな色になる。  私はその感じが、少し苦手で、少し好きだった。  苦手なのは、自分まで古くなった気がするからで、好きなのは、古いものには古いものなりのやさしさがあると、最近ようやく思いはじめたからだ。
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うすい紙の向こう側

病院という場所は、いつ行っても、どこか朝に似ている。  夜勤明けの薄い頭でそう思うのだから、たぶん本当なのだろう。  まだ何も決まっていないような白い顔をしているくせに、そこではもう、いくつもの生死や、諦めや、持ち直しかけた希望が、勝手に始...
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湯気のむこうの字

団地の朝は早い。  まだ空が白みきらないうちから、どこかの玄関が開いて、新聞受けの金具が小さく鳴る。  階段を下りる足音、遠くで目を覚ます給湯器の低い唸り、ベランダで干されたままの洗濯物が、夜の湿り気を含んでかすかに揺れる気配。  新しい街...
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灯の下の秒針

商店街の時計は、どれも少しずつ違う時刻を指している。  それが私は、子どものころから好きだった。  正しい時刻はひとつしかないはずなのに、この通りでは、八百屋の壁時計が三分進み、薬局の古い振り子時計が二分遅れ、うちの店先の丸時計だけが、きっちり正午を打つ。
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雨の路地で、母の声を拾い直した

雨の路地というものは、どうしてあんなに、人の言えなかったことに似ているのだろうと思います。晴れた昼間なら、ただの抜け道にすぎない細い道が、雨の夜になると急に、胸の奥のやわらかいところへ通じているみたいに見える。濡れたアスファルトにネオンがにじみ、排水溝へ吸いこまれていく水が、誰かのため息みたいに細く鳴る。私はそういう夜に、よく思い出すのです。
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弁当箱の底に、父の本音があった

工場の朝は、季節に関係なく、いつも少し鉄の匂いがします。夜のあいだ止まっていた機械が、始業のベルのあとで一つずつ目を覚ましていくと、空気の中に油と熱と金属の気配が混じるのです。人間の声は、その音の前ではずいぶん小さいものです。誰かが「おはよう」と言っても、プレス機の唸りに半分さらわれてしまう。そのくせ、怒鳴り声や舌打ちだけは、妙にはっきり耳に残る。私はそういう場所で働いています。
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遅れて届いた、祖母のありがとう

山あいの町というのは、夕方が早いのです。四時を過ぎると、もう光の脚が短くなって、坂道の端から順に影が伸びてくる。屋根の上で冷えた風がひとつ鳴ると、町は急に口数を減らします。私はその町で、郵便配達員をしています。
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名札を見れば、こわくなかった

老人ホームという場所は、静かなようでいて、実は一日じゅう、誰かの時間と誰かの時間がぶつかり合っています。朝はとくにそうです。起床介助の声。車椅子のブレーキが鳴る音。食堂へ向かうゆっくりした足音。夜勤者から日勤者への申し送り。