YOSUKE NOGUCHI

泣ける話

白い布の乾くころ

別れた人の名前は、口に出さないほうが長持ちする。そう思って、私は三年も黙っていた。名前にしてしまうと、その人がまたこちらへ歩いてきそうで嫌だったのだ。クリーニング店で働いて八年になる。商店街の端にある、ガラス戸の古い店だ。ワイシャツの糊の匂い。
泣ける話

【泣ける短編小説】タクシー運転手と元上司、12年越しの誤解|同じ頁の名前

「同じ行に、お前と俺の名前がある」黒田さんは、埃をかぶった修理台帳を私の胸へ押しつけた。午前五時十二分。坂の下に止めた私のタクシーでは、メーターの緑色の数字だけが律儀に光っていた。六時には、この古い整備工場兼営業所の解体が始まる。昨夜、配車室へ黒田さんから私を指名する電話があった。会社は七年前に車庫を平地へ移し、最後の工場長だった黒田さんも翌年退職して町を離れた。解体業者から連絡を受け、今朝だけ戻ったらしい。
家族の話

【泣ける短編小説】時計修理職人の父と故郷を離れる息子|パンが焼けるまで

「返品」息子はそう言って、私の作った置き時計を食堂の丸テーブルに置いた。真鍮の角は潰れ、裏蓋には小麦粉が入り込んでいる。十年前、二十歳になった息子へ、古い目覚まし時計を組み直して贈ったものだ。「ずいぶん丁寧に使ったものだな」「時計は、粉を食...
泣ける話

夜明け前の声

父は、私を一度も褒めなかった。いや、正しく言えば、褒められたことに私が気づかなかったのかもしれない。けれど少なくとも、若いころの私は、息子というものはもっと分かりやすく認められるべきだと思っていた。肩を叩くとか、でかしたと笑うとか、せめて一言、ようやったと言うとか。そういう形があるものだと、勝手に信じていたのだ。
泣ける話

光の残り方

祖母は、笑うのが下手な人だった。いや、違うな。笑うのが下手だったのではなく、笑っているところを、私がちゃんと見ようとしなかったのだと思う。写真館で働くようになって六年になる。駅前から少し離れた古い商店街のはずれにある、小さな写真館だ。
泣ける話

靴修理職人が見つけた居場所|過去の失敗が反転する泣ける短編小説

安井先生へ。お預けしていた写真を、最後の展示に戻していただけませんか」朝、共同工房の端末に届いた連絡は、別人宛てだった。私は安井ではない。靴修理職人の安西である。一字違いなど小さなものだが、人間一人を別人にするには十分だった。添付された古い写真には、体育館の舞台で踊る少女が写っていた。足元には、赤いリボンのついた白い靴。
泣ける話

印影ののこる家

叔母のことを、私は長いあいだ嫌いだと思っていた。思っていた、というより、そう決めてしまっていたのだと思う。人は一度だれかを「こういう人間だ」と箱に入れてしまうと、そのあと相手がどんな顔をしても、箱の外へ出してやるのが面倒になる。私はそういう怠慢を、わりに几帳面な顔でやる人間だった。役所に勤めて十二年になる。
泣ける話

つぎの停留所

母が死んだと聞かされたとき、私はハンドルを握っていた。正確に言えば、「危ないかもしれない」と聞かされたのだが、人はそういうとき、耳に入った言葉を勝手にいちばん悪い形へ変える。私はその瞬間、もう母を失った気でいた。終点まで、あと七つ停留所があった。私はバスを止めるわけにいかなかった。
家族の話

【感動する話】大人向け短編「捨てなかった食卓」

感動する話を読みたい大人へ。離婚から七年後、元妻に呼び出された男が、古い食卓に残された夫婦の時間と向き合うオリジナル短編です。仕事や家事に追われていると、自分の気持ちを確かめる時間さえ失ってしまいます。今回お届けするのは、別れた夫婦が古い食卓を運ぶ、静かな感動短編です。元に戻ることだけが、和解ではありません。大人になったからこそ分かる、終わった関係の中にも残る温かさを描きました。
泣ける話

血のつながらない娘との和解|傘修理職人の泣ける短編小説

「この部屋、まだ鉛筆の匂いがする」梓は、子ども部屋の戸口に立っていた。紺色のコートの肩で、雪が小さな水滴に変わっていた。東京へ出てから四年、一度も帰ってこなかった。妻から、家を引き払う前に荷物を片づけるよう言われたらしい。妻は新居で荷物を受け取っており、梓が今日戻ることを、私にだけ知らせていなかった。