最後の給食と曲がったスプーン|疎遠な兄との和解を描く感動短編

曲がったスプーンの夕暮れ 家族の話

「兄さん、見に来ないか。最後くらい」

そう電話で言ったとき、私は右手で曲がったスプーンを握っていた。柄の途中がくの字に折れ、食べ物をすくえば少しだけ左へこぼす、役立たずのスプーンである。兄と私のようだ、などと考えてから、自分の比喩の安っぽさに嫌気がさした。

兄はしばらく黙り、「仕事中だろ」と言った。

「だから見てほしいんだ」

返事はなかった。ただ、切れる直前に、小さく咳をする音がした。

市立あおば小学校の調理室は、改装のため翌日から半年間閉じられる。その間、給食は隣町のセンターから運ばれる。二十二年ここで鍋を振った私にとっては、半年でも立派な別れだった。

私は校長に頼んで、給食を出し終えたあとの見学許可を取っていた。来訪者名簿の兄の欄だけが、朝から空白だった。

最後の献立は、鶏肉と根菜のカレー、海藻サラダ、牛乳、りんご。

朝六時、換気扇が低く唸り始めた。包丁がまな板を叩き、百八十人分の玉ねぎが甘い匂いを立てる。蒸気で眼鏡が曇るたび、私は誰にも気づかれぬよう、見学窓を見た。

兄はいない。

むろん、来るはずがない。兄は昔から、私の仕事を人に言いたがらなかった。

十年前、親戚の食事会で職業を聞かれた私より先に、兄は「学校に勤めている」と答えた。調理員、という肝心な三文字を飲み込んだ。その帰り、私は兄を責めた。

「給食のおばちゃんじゃ、恥ずかしいか」

「そんな言い方はしてない」

「言わなかったことが答えだろ」

兄は何か言いかけたが、私は聞かなかった。それから正月の連絡さえ、短い文字だけになった。人は傷つくと、耳まで自分の所有物だと思うらしい。閉じるのも自由だと。

十時四十分、カレー釜の底で木べらが、ごり、と鳴った。焦げる寸前の音だった。私は慌てて火を弱めた。

「今日は上の空ですね」

隣でサラダを和えていた佐伯さんが笑った。彼女は三年前、勤めていた店が閉まり、この調理室へ来た。

昼十二時二十分。食缶が各教室へ運ばれると、調理室には急に大きな空白ができた。やがて廊下から、スプーンと皿の触れ合う細かな音が雨のように降ってきた。

返ってきた食缶は、どれも軽かった。一年二組の食缶には、折り紙の裏へ鉛筆で「さいごのカレー、ぜんぶたべた」と書いた紙が貼られていた。私はすぐに剥がし、ポケットへ入れた。人に見せるには、少し目が熱すぎた。

そのとき、佐伯さんが見学窓を指した。

「あの方、もしかしてお兄さんですか」

紺色の作業着を着た兄が、曇ったガラス越しに釜を眺めていた。

「知ってるの」

「私、この仕事をあの方に教えてもらったんです。工場の労組で再就職相談を手伝っておられて。食べた人の顔が見えなくても、空の食缶が返事をしてくれる仕事だって」

それは、私が兄に一度だけ話した言葉だった。

兄は手を上げるでも、笑うでもない。その不器用さだけは昔のままだった。

私は最後の食缶を洗った。床に湯を流し、排水溝を磨き、火元を二度確かめた。時計の針は午後三時五十八分。ここでの最後の仕事が終わるまで、あと二分だった。

兄は廊下で待っていた。

私はロッカーから曲がったスプーンを取り出した。子どものころ、固いアイスを二人で奪い合って曲げたものだ。母に叱られたとき、兄は自分一人でやったと言った。私は知っていたのに黙っていた。それもまた、長いこと忘れたふりをしていた。

「これ、返す」

兄の手にスプーンを押しつけた。

「それから、先に謝る。あのとき話を聞かなかった。兄さんが恥じていると決めつけた。悪かった」

口にした途端、十年分の正しさが、濡れた布巾のように重くなった。謝れば楽になるなど、あれは謝られる側の作った迷信だ。こちらは、自分を守ってきた鎧を一枚、床へ置くことになる。

兄は曲がった柄を親指で撫でた。

「俺も悪かった。学校に勤めてる、じゃなくて、給食を作ってるって言えばよかった」

「どうして言わなかった」

「お前、兄貴の口利きで仕事を取ったと思われるのが、いちばん嫌いだろ。だから誰に勧めるときも、お前の名前は出さなかった」

佐伯さんだけではないらしい。兄は相談に来た人たちに、休みが少ないことも、暑さも、腰の痛みも隠さず、そのうえでこの仕事を勧めてきたという。

「自慢していた、とは言わない」と兄は言った。

「そこは言えよ」

「嘘になる」

私は笑い、少し腹も立った。兄も笑ったが、十年は消えなかった。消えないほうが正しい気もした。

兄はスプーンを胸ポケットに差した。先が斜めに飛び出していた。

「来月、飯でも食うか」

「兄さんのおごりなら」

「割り勘だ」

「じゃあ、考えておく」

そう言いながら、私は予定表に来月の第二土曜と入れた。兄は覗き込み、第三土曜にしろと言った。

調理室の灯りを消すと、磨いた釜に残っていた夕方の光も消えた。それでも廊下には、兄の胸ポケットで、曲がったスプーンがボタンへ触れる音がした。

からん。からん。

完全に許した音ではない。

けれど、次の食事まで途切れずに続くには、それで十分だった。

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