離婚を考える夫婦の再出発|片方の手袋を返す夜【感動短編】

真夜中のバス停と片方の手袋 家族の話

「今夜、あの子たちの卒業式をやってくれないか」

 班長は、段ボールいっぱいの紙の花を私に押しつけた。

 私は町外れのバス会社が共同配送を請け負う倉庫で、夜行バスから降ろされる小口荷物を仕分けている。

 昼と夜の間で持ち主を待つ鞄や小包は、いくら眺めても何も語らない。

 人間もそれくらい行儀よく黙ってくれればよいのに、と私はよく思う。

 卒業するのは、夕方の仕分けを手伝ってきた通信制高校の三人だった。

 荷札の読み方も、重い箱を腰で持ち上げることも、三人に教えたのは私だった。

 明日から来なくなる彼らのため、使っていないバスの洗車場に長机を置き、紙の花を飾るのだという。

「私、こういうのに向いて見えますか」

「別れには詳しそうだ」

 班長は冗談のつもりだったのだろう。

 私は笑い、胸の奥でだけ少し腹を立てた。

 夫の亮介とは、離婚するかどうかを話し始めて三か月になる。

 醤油が切れたとか、風呂を先に使うとか、そういう会話はする。

 来年どこに住むのかとなると、二人とも急に、口の利けない立派な大人になった。

 亮介は今夜零時のバスで町を出る。

 隣県のパン工房で働くことになり、しばらく別に暮らすことだけは決まっていた。

 別居という文字を見るたび、私は答案に赤い罰点をつけられた気がした。

 結婚を続けられない人間は、人生のどこかで計算を間違えたのだと思っていたのである。

 作業着のポケットには、紺色の毛糸の手袋が片方だけ入っていた。

 六年前、東京の物流センターへ研修に出る夜、亮介から借りたものだ。

 もう片方は研修先で失くし、残った一枚を返せないまま持ち歩いてきた。

 役に立たない片方だけを返すのは、壊れた結婚を見せつけるようで嫌だった。

 それでも今夜こそ、直接手渡すつもりだった。

 車庫の向かいにあるパン屋で最初の窯が開き、焼きたてのパンの匂いが流れてきた。

 亮介は長くそこで働いていたから、夜明け前に帰る彼の上着も同じ匂いがした。

 今夜が、亮介の最後の窯だった。

 私は紙の花を一つ、ホチキスで潰した。

 六年前の研修は、私が初めて自分から望んだ仕事だった。

 零時のバスに乗る私を、亮介は見送りに来なかった。

 電話もなかった。

 私は三か月で研修を辞め、この倉庫へ戻った。

 戻った理由はいくつもあったが、寂しかったという一番みっともない理由だけは、夫にも話さなかった。

 愛情がなかったから、あの人は来なかったのだ。

 そう決めてしまえば、期待せずに済んだ。

 午後十時、三人の卒業式が始まった。

 積み上げたパレットを演台にし、班長が修了証を読み上げた。

 向かいのパン屋から届いた丸パンを配ると、洗剤と油の匂いがする洗車場が、少しだけ朝の食卓のようになった。

 丸パンの一つは底が少し焦げていて、失敗したパンを自分の分へ紛れ込ませる亮介の癖を思い出した。

 三人のうち、遠方の自動車整備学校へ進む航平が、式のあとも一人残った。

「川瀬さん、俺、ここに残ったほうがいいですかね」

 彼は紙コップを両手で包み、床を見ていた。

「母ちゃん一人だし、学校でやれるかも分からないし」

「川瀬さんが残れって言うなら、学校を断ろうと思っています」

 私は、残ればいい、と言いかけた。

 航平は手際がよく、夜勤の者たちはみな助かっていたし、私も彼がいなくなるのは寂しかった。

 ここなら失敗しない、と言えば、彼は安心したかもしれない。

 けれど、その安心が彼の次の機会を閉じることも、私は知っていた。

「行っておいで」

 私は紙コップを握ったまま言った。

「駄目だったら、戻ってくればいい」

 航平が顔を上げた。

 そのとき、六年前のバス乗り場に立つ自分が見えた。

 もし亮介が来て、行かないでくれと言ったなら、私はたぶん切符を捨てていた。

 そして行かなかったことまで、いつか彼のせいにしただろう。

 あの人も、いまの私と同じ言葉をのみ込んだのではないか。

 許したわけではなかった。

 ただ、憎しみの置き場所が少しずれた。

 時計は十一時四十七分だった。

 私は紙の花を片づけず、車庫の乗り場へ走った。

 亮介は零時発のバスの前で、小さな鞄を足元に置いていた。

 コートから、焼きたてのパンの匂いがした。

「これ、返す」

 私は片方の手袋を差し出した。

 亮介は受け取らず、私の手のひらを見た。

「まだ持っていたのか」

「返すのも失敗したと思われそうで」

「お前は、何でも失敗にするな」

 腹の立つ言い方まで、懐かしかった。

「あの夜、どうして来なかったの」

 亮介はバスの時計を見てから、鼻の横を指でこすった。

「行ったら、行くなと言っていた」

 それだけだった。

「言えば、お前は研修を断っただろ」

「それでも、来てほしかった」

「うん」

 私は今夜、泣かないと決めていた。

 別れる人の前で泣くのは、まだ愛されたいと頼むようで卑しい気がしたからだ。

 けれど涙は、私の品位など一度も相談してくれない。

 手袋へ大粒の雫が落ちた。

 亮介はそれを受け取り、ポケットへしまった。

 抱きしめも、謝りもしなかった。

 私も、許すとは言わなかった。

 零時の電子音が鳴り、バスの扉が閉じた。

 卒業式とは、別れに失敗という名前をつけないための、小さな儀式なのかもしれなかった。

 バスが暗い国道へ消えたあと、向かいのパン屋から二度目の窯の匂いが流れてきた。

 作業場へ戻ると、携帯電話が一度だけ震えた。

 亮介から、短い言葉が届いていた。

〈行ってきます〉

 別れの挨拶にも、帰る約束にも読めた。

 私はどちらに読むかを決めなかった。

 私は返事を書かず、潰れた紙の花を開き直した。

 皺は残ったが、花の形には戻った。

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