【泣ける短編】父の手紙と止まった腕時計|時計店で受け継がれた家族の時間

月夜の時計店と幻想的な町並み 家族の話

父が亡くなった朝も、店じゅうの時計は動いていた。

壁の振り子時計。

柱に掛けた鳩時計。

ガラスケースに並ぶ目覚まし時計。

何十もの針が、父の死など知らぬ顔で、少しずつ先へ進んでいた。

止まっていたのは、店先の大時計だけだった。

七時十分。

近所の人が父を発見した時刻と、同じだった。

私は脚立に上り、大時計の裏蓋を開けた。

父の遺体が、奥の作業台に横たわっている間に。

薄情なのではない。

時計店の人間は、誰かの時間が止まった日にも、ほかの人の時計を動かさなければならない。

父が、そう教えた。

     *

商店街の中央にある「立花時計店」は、父が四十年守ってきた店だった。

正午になると、壁の時計が一斉に鳴った。

幼い私は、時計たちが自分こそ正しいと言い争っているのだと思っていた。

母は笑った。

「少しくらい違っても、同じお昼にたどり着くのよ」

母が亡くなったのは、私が十七歳の冬だった。

病院へ運ばれた日の夕方、母が使っていた銀色の腕時計も止まった。

六時四十二分。

母の死亡時刻と同じだった。

私は偶然だと思った。

父は腕時計を黒い箱へ納め、鍵のかかる引き出しにしまった。

それから二十七年間、その時計に誰も触れなかった。

     *

私は東京の時計学校へ進み、修理会社へ入った。

海外製の複雑な機械式時計も任されるようになった。

しかし父から褒められたことはない。

電話をすれば、

「仕事はあるのか」

「飯は食っているか」

それだけだった。

十年前、父が心臓を悪くしたと聞き、私は商店街へ戻った。

店を継ぐつもりだった。

父は、私が直した時計を必ず分解し直した。

「油が多い」

「ネジを締めすぎだ」

「針ばかり見るな。音を聞け」

私は四十を過ぎていた。

それでも父の前では、いつまでも半人前だった。

父の手は震え始めていた。

小さなネジを落とすことも増えた。

それなのに、作業台を譲ろうとはしなかった。

ある夜、私は引き出しから母の腕時計を出した。

ゼンマイを巻いても、針は六時四十二分から動かなかった。

「私が直すよ」

父は時計を奪い取った。

「触るな」

「もう直せる」

「お前には、まだ早い」

その一言で、長く積もっていたものが崩れた。

「いつまで子ども扱いするんだ」

父は黒い箱を抱えたまま黙っていた。

「東京で何年修理してきたと思ってる。父さんより難しい時計だって直してきた」

「そういう話じゃない」

「では、どういう話なんだよ」

父は答えなかった。

私はその沈黙を、技術への侮辱だと思った。

親子というものは不思議である。

他人なら聞き返せる一言を、何年も聞き返さず、丁寧に恨みへ育てる。

     *

父は、作業台に座ったまま亡くなっていた。

左手には母の腕時計。

右手の下には、小さな封筒があった。

表には、

「店を継ぐ者へ」

と書かれていた。

私の名前ではなかった。

最後まで息子として認めなかったのかと思い、少し笑った。

まったく父らしい、と。

葬儀が終わった夜、私は一人で封を切った。

「この時計は、母さんが死んだ時刻に止まったのではない。

病院から帰った夜、俺が針を六時四十二分に戻して止めた」

私は便箋から目を上げた。

店の時計が、それぞれ違う音で時を刻んでいた。

「母さんのいない時間が進むのが怖かった。

時計を動かせば、母さんを置いて先へ行くような気がした。

だから、あの時刻に閉じ込めた」

父の字は、途中から震えていた。

「お前が直すと言ったとき、腕を疑ったのではない。

お前なら動かしてしまうと思った。

だから渡せなかった。

『お前にはまだ早い』と言ったが、違う。

早くなかったのは俺だ。

お前はもう、俺より良い職人になっていた」

涙が便箋へ落ちた。

私は慌てて袖で拭いた。

紙を汚せば、また父に叱られる気がした。

「お前が帰ってきてから、店を譲ろうと何度も思った。

だが、店を渡せば、父親でいられなくなる気がした。

母さんの時計まで渡せば、俺に残るものがなくなる気がした。

親は子どもの成長を喜ぶものらしい。

俺は喜びながら、寂しがっていた。

言い方を間違えた。すまなかった」

最後の一枚には、こう書かれていた。

「時計屋は、過ぎた時間を戻す仕事ではない。

止まった人が、また先へ進めるようにする仕事だ。

この時計を動かしてほしい。

店は継がなくてもいい。

ただ、誰かの止まった時間を預かったら、急がず、その人の音を聞いてやってくれ」

余白に、小さく付け足されていた。

「母さんも、待ちくたびれているだろう」

私は作業台へ顔を伏せた。

父の前では、子どものころから泣かないようにしていた。

その夜、初めて、父の息子として声を上げて泣いた。

     *

腕時計の裏蓋を開けると、修理はほとんど終わっていた。

父は亡くなる前、自分で針を動かそうとしていたのだ。

新しい部品が組まれ、油も差してある。

残っていたのは、小さなネジを一本締めることだけだった。

父が力尽きたのか。

私へ残したのか。

もう確かめることはできない。

私はネジを締め、ゼンマイを巻いた。

時計を耳元へ近づける。

一度。

二度。

かすかな音がした。

銀色の秒針が震え、六時四十二分を越えた。

母が亡くなってから二十七年ぶりに。

時間が母を連れ去ったのではなかった。

父と私は、母を一人にするのが怖くて、そこに立ち止まっていただけなのだ。

     *

春、商店街に新しいパン屋ができた。

閉まった店も多いが、朝になると焼きたての匂いが通りを流れる。

私は今も時計店を続けている。

ある日、小学生の女の子が、壊れた腕時計を持ってきた。

亡くなった祖母のものだという。

「直したら、おばあちゃんとの時間が消えませんか」

女の子は訊いた。

私は左手の銀色の腕時計を見せた。

針は、静かに先へ進んでいた。

「消えないよ」

私は答えた。

「大切な人と一緒に、これからの時間を歩くんだ」

女の子の時計は、急がずに直した。

ネジを締める前に、何度も音を聞いた。

修理が終わり、秒針が動き出すと、女の子は時計を胸へ抱いた。

店の外では、夕方の商店街に一つずつ灯りがともっていた。

私は店先の大時計を見上げる。

父が亡くなった朝、七時十分で止まった時計は、今も正しい時刻を刻んでいる。

母の腕時計も、私の手首で動いている。

父から私へ。

私から、止まった時間を抱えて店へ来る誰かへ。

時計の音は小さい。

けれど耳を澄ませば、過ぎた人の声と、これから生きる人の足音が、同じ機械の中で重なって聞こえる。

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