【感動する泣ける話】写真館スタッフの私が、母の写真の裏の言葉で知った愛情

夕暮れの静かな商店街 家族の話

商店街というものは、昼よりも夕方のほうが本当の顔を見せる気がする。

八百屋の濡れた床。

魚屋の氷の溶ける音。

時計屋のショーケースに残る薄い指紋。

写真館のガラスに映る、客のいなくなった通りの色。

そういうものが、店じまいの気配といっしょに、少しずつ静かになる。

私はその静かさが好きだった。

賑やかなものは、どうも信用しきれない。

笑顔だってそうだ。

笑っている顔ほど、あとで見返すと、どこか無理をしていたことがわかる。

私は商店街の端にある写真館で働いている。

カメラマンではない。

受付をして、台紙を整えて、古い写真の汚れを落とし、証明写真の前髪を直す。

遺影にする写真を探しに来た人の横で、どれがいちばんその人らしいか、一緒に考えることもある。

写真館というのは、思い出を残す場所だと人は言うけれど、本当は少し違うのかもしれない。

残るのは、思い出そのものではなく、それに触れた人のためらいだ。

肩を寄せるのが照れくさかった夫婦の距離。

笑って、と言われて笑った子どもの目の固さ。

泣くのをこらえたまま遺影を選ぶ娘さんの指先。

そういうものが、紙の上にこっそり残る。

私はそういうものを見るのが、少し得意だった。

いや、得意というのは少し格好をつけすぎだろう。

大きなことができないぶん、小さな違和感にはよく気づく、というだけだ。

母は、この写真館の向かいで喫茶店をやっていた。

やっていた、というのは、もうその店がないからだ。

母が死んで、店も閉めた。

喫茶店は商店街によくある小さな店だった。

モーニングのゆで卵が少し固くて、コーヒーは少し濃い。

常連が同じ席に座って、同じような世間話をして、母は同じように笑っていた。

愛想のいい人だった。

誰にでもやさしくて、誰とでも喋れて、気が利いて、よく働いた。

そして私は、そういう母が少し苦手だった。

母は忙しかった。

朝は早く、夜は遅い。

運動会には来られないこともあったし、授業参観も途中から顔を出すだけの日が多かった。

そのくせ弁当は欠かさず作ったし、制服のボタンはいつのまにか直されていたし、私が熱を出せば店を閉めてでもそばにいた。

世話はしてくれる。

でも、私がほしいものは、たぶん世話ではなかった。

もっとわかりやすい、子どもじみた言葉だった。

かわいいとか、偉いとか、よくやったとか、そういう露骨な言葉を、私はずっと待っていたのだと思う。

母はあまり言わない人だった。

商売人のくせに、肝心なことほど口にしなかった。

だから私は長いこと、母は私より店のほうが大事なのだと思っていた。

思春期というのは、ずいぶん怠惰なくせに、被害者意識だけはまめに働く。

私は母の不在ばかり数えた。

来られなかった日。

遅れた日。

忘れた日。

そのかわり、弁当箱の隅の卵焼きが私の好みにだけ少し甘かったことや、試験の日の朝だけ味噌汁に卵が落としてあったことや、帰りの遅い私のために鍋を弱火にかけて待っていたことは、ちゃんと見なかった。

見ないほうが、拗ねていられるからである。

写真に興味を持ったのは、小学生のころだった。

写真館のご主人が、古いフィルムカメラを一本だめにしてしまうくらいなら、と私に貸してくれたのだ。

私は人を撮るのが苦手だった。

商店街の夕方とか、雨のあとの路地とか、喫茶店の窓際のコップとか、そういうものばかり撮った。

母はそれを見て、「暗いの好きねえ」と笑った。

笑っただけで、やめろとも、上手だとも言わなかった。

ただ、現像代だけは黙って払った。

高校の文化祭のとき、私が撮ったモノクロ写真を、母は喫茶店の壁に勝手に飾ったことがある。

雨上がりの商店街の裏道と、閉店後のパン屋の裏口を撮っただけの、地味で暗い写真だった。

私は恥ずかしくて、「こんなの飾らないで」と怒った。

母は「あら、いいじゃない」と笑って、そのままにした。

客に褒められたことも、私にはほとんど言わなかった。

私はそれを、興味がないからだと思っていた。

今になると、あの人はたぶん、褒めるのが下手だったのだ。

あるいは、褒めれば私が逃げると知っていたのかもしれない。

高校を出て、私は一度街を離れた。

写真の勉強がしたいと言って、専門学校に行った。

けれど長くは続かなかった。

才能がなかった、というより、才能のある人間が眩しすぎて、そこに並ぶ自分の薄さに耐えられなかったのだと思う。

結局、私は中途半端なまま地元へ戻った。

母は駅まで迎えにも来なかった。

帰ってきた私を見て、「そう」とだけ言った。

その「そう」が、私はひどく嫌だった。

もっとがっかりしてくれてもいいし、怒ってくれてもよかった。

そのほうが、まだ自分が何かの対象になっている気がしたからだ。

けれど母は、私の荷物を見て、「おなかすいてる」とだけ言った。

私はその夜、ひどく刺々しい返事をした。

覚えている。

「どうせ私なんて、店番より役に立たないでしょ」

母は少し黙って、それから「そんなこと言ってない」と言った。

その言い方がまた、腹の立つほど静かだった。

私はますます腹を立てた。

言わなくても伝わる、みたいな顔をする人が、私は昔から苦手だったのだ。

そのあと、私は商店街の写真館で働きはじめた。

向かいに母の喫茶店があるのに、ろくに顔も合わせなかった。

朝、こちらが店を開けるころ、向こうはもうモーニングの湯気を出している。

夕方、こちらが閉店準備をすると、母は伝票をまとめている。

そんな距離で何年もいたくせに、私はろくに母と話さなかった。

話せば、また子どもみたいに拗ねる気がしたからだ。

母はときどき、写真館のガラス越しにこちらを見て、小さく手を挙げた。

私はそれに気づかないふりをすることが多かった。

照れくさいのもあったし、どこかでまだ、試すような気持ちがあったのだと思う。

呼び止めてくれたら振り向くのに、という、ずいぶん卑怯な待ち方である。

母が倒れたのは、春の終わりだった。

雨の降りそうな曇り空の日で、私は七五三の前撮りの台紙を棚へ戻していた。

向かいの喫茶店が、昼になってもシャッターを半分しか開けていないのを、私は見ていた。

おかしいと思ったのに、忙しさにかまけて、そのままにした。

あとで後悔することの多くは、たいてい、その「おかしい」を見過ごしたところから始まる。

母は店の奥で倒れていた。

発見が遅かった。

病院へ運ばれて、そのままだった。

私は泣いた。

泣いたが、それは母が死んだことそのものよりも、もっと濁った涙だった。

見過ごしたこと。

間に合わなかったこと。

最後までちゃんと話せなかったこと。

そういうものが、みんな一緒に喉へつかえた。

葬儀が終わってしばらくして、私は母の店の片づけをした。

カップ、皿、角砂糖の瓶、使いかけの伝票、豆の袋、古いマッチ箱。

人がいなくなったあとの店は、不思議なくらい物が多かった。

生きているときは、あんなにきびきび働いていた人なのに、いなくなると物ばかりが居座って見える。

カウンターの下の引き出しに、古い写真の束があった。

輪ゴムが茶色く劣化していて、持ち上げるだけで切れた。

商店街の夏祭り。

私の入学式。

閉店後の喫茶店。

若いころの母。

まだ元気だった祖父。

それから、見覚えのある一枚。

喫茶店の前で、私が立っている。

高校生くらいだろうか。

制服のスカートが少し長くて、ひどく不機嫌そうな顔をしている。

隣に母がいた。

母は笑っていない。

こちらを見てもいない。

少し離れた場所に立つ私を、横目で見ているような顔だった。

思い出した。

あれは、私が専門学校へ行く前の春だ。

写真館のご主人が、「記念に一枚撮るか」と言って、店の前で撮ってくれたのだ。

私はそのとき、母と喧嘩をしていた。

「店みたいに、同じ場所で年取るだけの人生は嫌」

ひどいことを言った。

若い人間は、逃げたいとき、なぜあんなにも正しそうな言葉を使うのだろう。

写真を裏返すと、鉛筆で小さな字が書いてあった。

『この子は、人の顔を見る仕事をする気がする』

私はしばらく、その字の意味がわからなかった。

母の字だった。

丸くて、少し右上がりの、見慣れた字。

『この子は、人の顔を見る仕事をする気がする』

たったそれだけだった。

上手だ、とも。
向いている、とも。
誇らしい、とも書いていない。

なのに、その一文は、私が今まで聞きたかったどんな言葉より、深く刺さった。

母は知っていたのだ。

私が写真の才能に自信を持てなかったことを。

人をうまく撮れないくせに、写真の中の表情ばかり見ていたことを。

笑っている顔より、笑い終わったあとの顔に目が行くことを。

風景よりも、人の残した気配ばかり撮っていたことを。

知っていて、黙っていたのだ。

その黙り方が、急にわかった気がした。

母は私を見ていなかったのではない。

見ていたことを、言葉にするのが遅い人だったのだ。

あるいは、言ってしまうと軽くなる気がして、あえて言わなかったのかもしれない。

商店街の人には、そういうところがある。

「がんばってるね」と正面から言う代わりに、コロッケを一つ多く包む。

「好きだよ」と言う代わりに、帰り道の電気をつけておく。

母も、その種類の人だったのだろう。

私は写真を持ったまま、店の床に座り込んだ。

泣くつもりなどなかったのに、勝手に涙が出た。

遅い、と思った。

何もかも遅い。

生きているうちに見せてくれればよかったのに、と一瞬は思った。

けれど、その「遅い」は、たぶん母のせいだけではなかった。

私だって、見ようとしなかったのだ。

母がコーヒーカップの取っ手を、私の左手に持ちやすい向きで置いていたことも。

写真館の帰りが遅い日には、喫茶店のシャッターを少しだけ開けて待っていたことも。

私が撮った商店街の写真を、閉店後に一人で何度も見返していたことも。

たぶん、ずっと。

その夜、私はその写真を写真館へ持っていった。

もう閉店後で、店主がレンズを拭いていた。

私が写真を差し出すと、店主は一目見て、「ああ」と言った。

「それ、お母さん、預けようとしてたやつだ」

「預ける?」

「もしあんたが本当に写真の仕事を始めたら、そのとき渡してくれって」

私は息を止めた。

「どうして渡してくれなかったんですか」

責めるつもりではなかったのに、少し責めるような声になった。

店主は困ったように笑った。

「始めたばっかりのころは、まだ早い気がしたんだろ。お母さんも、ちゃんと続いたら、って言ってたよ」

ちゃんと続いたら。

いかにも母らしい。

褒めるにしても、少し意地が悪い。

でもたぶん、それは信用でもあったのだ。

続くと思っていたのだ。

私が、写真の近くにいることを。

私はその場で、声もなく泣いた。

店主は何も言わず、古い丸椅子を寄せてくれた。

そういう商店街のやさしさは、いつも少し無愛想で、だから助かる。

夜の通りはもう暗く、向かいの喫茶店のガラスには、こちらの灯りだけが映っていた。

私は写真の裏の言葉の下へ、ボールペンで小さく書き足した。

『見ていてくれて、ありがとう』

それだけだった。

ごめん、でもよかったかもしれない。

好きだった、でもよかったかもしれない。

でも私にとって、いちばん遅くて、いちばん本当だったのは、その感謝だった。

翌朝、私は写真館を開ける前に、母の喫茶店の前に立った。

シャッターは閉まっていた。

植木鉢の土は少し乾いていて、看板の文字は雨に褪せていた。

商店街はまだ半分眠っていて、パン屋だけが明かりをつけていた。

私はポケットの中の写真に触れた。

遅い感謝というのは、過去へ返す言葉ではないのかもしれない。

間に合わなかったぶん、これから触れるものを、少しだけ丁寧に扱うためにあるのだろう。

人の顔も。

言いそびれた気持ちも。

夕方の商店街の、少し老いた沈黙も。

写真館の鍵を開けると、朝の光が床へ四角く落ちた。

私はいつものようにカウンターを拭き、背景紙のしわを直し、予約表を開いた。

それから、母の写真をレジの下の引き出しへそっとしまった。

見えないところに置いておくのが、いちばん母らしい気がした。

私はこれからも、たぶん何度も遅れるのだろう。

気づくのも、謝るのも、感謝するのも。

あまり出来のいい娘ではないから、そう簡単には治らない。

それでも、あの写真の裏の短い言葉があるかぎり、私はたぶん大丈夫だと思う。

母が黙って見ていたぶんまで、今度は私が、ちゃんと見る。

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