【泣ける短編】祖父の靴に隠されたメモ|商店街の修理店で受け継がれた灯

幻想的な靴屋の街角 家族の話

祖父が亡くなった夜、私は商店街の店先で、片方だけの子ども靴を磨いていた。

黒い革は白く擦れ、つま先には不格好な縫い目が残っている。

祖父はその靴を見るたび、

「これは、お前が初めて直した靴だ」

と言った。

私は毎回、笑って否定した。

「違うよ。そんなこと、覚えてない」

近ごろの祖父は、昨日預かった靴を忘れ、常連客の名前を取り違えた。

だから、その話も老いた頭が作った記憶だと思っていた。

人は、誰かの記憶が欠け始めると、自分の記憶だけは完全だと思い込む。

なかなか傲慢な生き物である。

     *

商店街の外れにある「松本靴店」は、祖父が五十年守った店だった。

六畳ほどの作業場に、椅子が二つ。

壁には革紐、靴底、錆びた金槌。

夕方になると、裸電球の橙色が、窓の傷まで照らした。

私は高校卒業後、町の靴メーカーに勤めた。

だが工場が閉じ、十年前、何者にもなれない顔で戻ってきた。

祖父は事情を訊かず、作業台の半分を空けた。

「機械で作った靴も、最後は人の足が履く」

それが歓迎の言葉だった。

私は新しい接着剤と道具を使い、祖父より早く、きれいに直した。

けれど祖父は仕上がった靴を裏返し、

「まだ急いどる」

と言った。

靴に急ぐも遅いもあるものか。

私は、古い職人の負け惜しみだと思っていた。

     *

祖父の物忘れが増えたのは、三年前からだった。

修理代を二度請求し、左右の靴を別の箱へ入れた。

私は失敗を謝って回り、とうとう祖父から金槌を取り上げた。

「もう休んでいいよ」

なるべく優しく言ったつもりだった。

祖父は、例の子ども靴を撫でながら訊いた。

「この店の灯は、誰がつける」

「私がつけるよ」

「そうか」

それから祖父は店の奥に座り、私の仕事を見るだけになった。

昨日は忘れるのに、客の歩き方だけは覚えていた。

「あの人は右の踵が減る」

「この子は左足をかばっとる」

私は、それも昔の癖が口から出ているだけだと思った。

     *

ある雨の日、靴底の剝がれた少年が、母親と店へ来た。

「明日、遠足なんです。今日中には無理でしょうか」

作業台には、先に預かった靴が並んでいた。

私は首を振った。

「順番がありますから」

少年は濡れた靴を抱え、下を向いた。

すると祖父が、奥の椅子から立ち上がった。

「先にこれをやれ」

「無理だよ」

「この子は、明日歩くんだ」

私は腹を立てた。

「じいちゃんは、もう仕事のことが分からないんだよ」

祖父は何も言わなかった。

母親と少年が帰ったあとも、裸電球の下で靴を見つめていた。

私は先に店を出た。

翌朝、作業台には少年の靴が置かれていた。

曲がった縫い目で、何度も糸を重ねてあった。

その横で祖父が倒れていた。

意識は戻らず、三日後に亡くなった。

少年の母親へ靴を渡すと、彼女は縫い目を指でなぞった。

「昨日の夜、おじいさんが電話をくれたんです。朝には間に合わせるから、と」

私は、ありがとうとも、すみませんとも言えなかった。

     *

葬儀のあと、店を閉めるつもりで作業場を片づけた。

商店街は半分以上、シャッターが下りている。

私一人が灯をつけても、誰が来るのだろう。

引き出しの奥から、片方だけの子ども靴が出てきた。

捨てようとして中敷きを外すと、靴底との間に折り畳まれた紙があった。

上半分は、しっかりした昔の祖父の字だった。

「直人、九歳。

同級生の健太が、穴のあいた靴をからかわれて泣いていた。

直人は小遣いを持ってきて、直してくれと言った。

金はいらんと言うと、ただで直したら健太が下を向く、と怒った。

針を持たせた。

指を二度刺したが、最後まで縫った。

これが、あの子の最初の仕事」

雨の校舎裏が、急に蘇った。

濡れた靴下を隠していた健太。

祖父の大きな手に支えられ、針を通した私。

片方だけ残っているのは、数年後に健太が履き潰し、記念に祖父へ渡したからだった。

忘れていたのは、祖父ではなかった。

私だった。

紙の下半分には、最近の震える字が続いていた。

「最近のことは、抜けていく。

だが、靴を持つと、その人がどんな顔で来たか思い出す。

靴を直すのは、革をつなぐことではない。

もう歩けないと思った人へ、明日も歩けると返す仕事だ。

直人は昔、それを知っていた。

忘れても、また思い出せばいい」

最後に、一行だけあった。

「店の灯は、客のためだけではない。帰ってくる職人のためにも、つけておくものだ」

私は作業台へ額をつけて泣いた。

祖父が店を守っていたのだと思っていた。

本当は、何者にもなれず戻った私が、もう一度歩き出せるよう、灯を残してくれていた。

     *

翌朝、私は閉店の紙を剝がした。

最初の客は、遠足を終えたあの少年だった。

泥だらけの靴を差し出し、

「また直せますか」

と訊いた。

祖父の曲がった縫い目は、切れていなかった。

「直せるよ」

私は答えた。

「明日も履けるようにする」

夕方、商店街の街灯が一つずつともった。

私は店の裸電球をつけた。

橙色の灯が、古い靴と新しい靴を同じように照らした。

作業台の引き出しには、祖父のメモがある。

その隣には、片方だけの子ども靴。

祖父から私へ。

私から、これから歩く誰かへ。

靴底へ針を通すたび、小さな灯が次へ渡っていく。

今夜も店は開いている。

歩くことを諦めかけた誰かと、帰ってきた私自身のために。

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