病院の床は、朝いちばんによく光る。
夜のあいだに積もった人の疲れや、不安や、ため息のようなものを、私はモップで少しずつ拭き取っていく。
白い廊下に蛍光灯の光が伸びる。
その上を、看護師の靴が通る。
車椅子の細い車輪が通る。
点滴台を押す患者さんの、迷うような足が通る。
私は清掃員だった。
胸には、青い縁の名札をつけている。
「清掃スタッフ 佐伯悠真」
それを見るたび、私は少しだけ背中を丸めた。
誰かに笑われたことなど、一度もない。
むしろ看護師さんたちは、「いつもありがとうございます」と言ってくれる。
けれど私は、その言葉を素直に受け取れなかった。
ありがたい仕事だと、頭では分かっている。
誰かがやらなければ、病院は清潔ではいられない。
清潔でなければ、人は安心して治療を受けることもできない。
それでも私は、自分の名札を見るたび、どこかで言い訳を探していた。
本当は、もっと違う場所にいるはずだった。
もっと胸を張れる仕事に就いているはずだった。
そんな、みっともない考えが、雑巾のしぼり水みたいに心の底に溜まっていた。
祖父が入院してきたのは、十一月の終わりだった。
母から電話があった。
「おじいちゃん、肺の具合が悪くてね。しばらく検査入院になるって」
病院名を聞いた瞬間、私は黙った。
私の働いている病院だった。
しかも、病室は東棟の三階。
私の担当区域だった。
よりによって、である。
祖父に会いたくなかったわけではない。
けれど、会うのが怖かった。
祖父は昔、商店街の端で小さな金物屋をしていた。
店の名前は「佐伯金物店」。
古いトタン屋根の店で、入口には釘やネジの箱が並び、奥には祖父がいつも座っていた。
油の匂いと、鉄の匂いと、古い木の棚の匂い。
子どもの頃の私は、その匂いが好きだった。
祖父は無口な人だったが、仕事には厳しかった。
曲がった釘を見つけると、すぐに分ける。
錆びた道具は売り物にしない。
お客さんがいなくても、朝には必ず店先を掃く。
「人が見とらん時ほど、仕事は顔に出る」
祖父はよくそう言った。
私はその言葉を、子どもの頃は立派な言葉だと思って聞いていた。
けれど大人になってからは、少し重かった。
私は、胸を張れるような人生を歩けなかったからだ。
専門学校を中退し、いくつか仕事を変えた。
工場も続かなかった。
配送の仕事も腰を痛めて辞めた。
ようやく病院の清掃の仕事に落ち着いた。
落ち着いた、というより、ここに流れ着いたのだと思っていた。
そんな私を、祖父に見られたくなかった。
「悠真か」
初めて声をかけられたのは、祖父が入院して三日目の朝だった。
私は廊下の端を拭いていた。
病室の入口から、細い声がした。
振り向くと、祖父がベッドの上で半身を起こしていた。
頬がこけ、肩も小さくなっていた。
けれど目だけは、金物屋にいた頃と同じだった。
逃げられない目だった。
「……じいちゃん」
私はモップの柄を握り直した。
祖父の視線が、私の胸元に落ちた。
名札だった。
「ここで働いとるんか」
「うん」
「そうか」
それだけだった。
祖父はそれ以上、何も言わなかった。
褒めもしなかった。
驚きもしなかった。
ただ、窓の方を向いて、小さく咳をした。
その沈黙を、私は勝手に裁きのように受け取った。
ああ、失望したのだ。
金物屋の孫が、何者にもなれず、病院の廊下を拭いている。
祖父はきっと、そう思ったのだ。
もちろん、祖父はそんなことを一言も言っていない。
それでも私は、祖父の沈黙を、自分に都合の悪い形に変えてしまった。
人間は、自分を責める材料だけは、いくらでも拾ってくる。
私はそういうことだけ、昔から器用だった。
それから私は、祖父の病室に入らなくなった。
担当区域なのだから、本当は清掃に入らなければならない。
けれど私は同僚の田中さんに頭を下げて、祖父の部屋だけ替わってもらった。
「身内だと気まずいですよね」
田中さんはそう言って笑ってくれた。
私は「すみません」と頭を下げた。
嘘ではなかった。
気まずかった。
けれど本当は、それだけではなかった。
私は祖父に、見損なわれたくなかった。
もう見られているのに、まだ見られないふりをした。
数日後、祖父の病室の前に紙袋が置かれていた。
清掃道具を片づけていた私に、看護師さんが声をかけた。
「佐伯さん、これ、おじいさまからです」
紙袋の中には、黒飴が入っていた。
昔、祖父の店番を手伝うと、一日一つだけもらえた飴だった。
黒くて、丸くて、少し苦い。
子どもの私は、その飴をもらうために、ネジの箱を並べたり、店先を掃いたりした。
紙袋の中には、小さなメモも入っていた。
「悠真へ。忙しいだろう。無理するな」
たったそれだけの文字だった。
私はそのメモを見たとき、胸がつまった。
けれど、同時に腹も立った。
なぜ、そんなふうに優しくするのだろう。
私が避けていることに気づいているのだろうか。
気づいていて、それでも責めないつもりなのだろうか。
責められた方が、まだ楽だった。
「何をしているんだ」と言われた方が、謝ることができた。
けれど祖父は、何も言わずに黒飴を寄こした。
その気遣いが、私の情けなさをいっそう照らした。
私はメモを制服のポケットに入れた。
黒飴は、休憩室の引き出しにしまった。
食べなかった。
食べたら、負けるような気がした。
何に負けるのか、自分でも分からなかった。
たぶん私は、祖父の優しさに負けたくなかったのだ。
そういう負け方をするのが、いちばん怖かった。
それから二日後、私は病室の前で祖父とすれ違った。
祖父は看護師さんに付き添われ、ゆっくり廊下を歩いていた。
リハビリのための歩行だった。
点滴台を押しながら、一歩ずつ進んでいた。
私はとっさに、モップを持ったまま壁際に寄った。
祖父が私を見る。
私は目をそらした。
すると祖父が、少し笑った。
「廊下、きれいやな」
何気ない一言だった。
けれど私は、それを皮肉だと思った。
「……仕事ですから」
私は冷たく言った。
言ってすぐ、しまったと思った。
祖父は少しだけ目を細めた。
「そうか」
また、それだけだった。
看護師さんが祖父を支え、二人はゆっくり廊下の奥へ進んでいった。
私はその背中を見ていた。
祖父の歩幅は、昔よりずっと小さかった。
金物屋の店先で、重い工具箱を軽々と運んでいた人と、同じ人には見えなかった。
その夜、休憩室で黒飴の袋を取り出した。
食べようと思った。
だが、結局食べなかった。
私はどこまでも意地の悪い孫だった。
祖父の容態が急に悪くなったのは、その翌日の夜だった。
私は夜勤明けで、更衣室にいた。
廊下の向こうがざわついた。
看護師たちの足音が重なり、誰かが医師を呼んでいた。
嫌な予感というものは、なぜあんなに正確なのだろう。
私は名札をつけたまま走った。
東棟三階。
祖父の病室。
入口の前で、一瞬足が止まった。
今さらどんな顔で入ればいい。
そう思った。
けれど、そんなことを考えている時間はもうなかった。
病室に入ると、祖父は酸素マスクをつけて眠っていた。
機械の音が、規則正しく鳴っている。
祖父の胸が小さく上下していた。
ベッドの横の棚に、古い手帳が置かれていた。
黒い表紙の手帳。
祖父が金物屋で仕入れを書き込んでいた手帳だった。
ページの端は擦り切れ、角は丸くなっている。
看護師さんが小さな声で言った。
「昨日から、お孫さんに渡してほしいって、何度もおっしゃっていました」
私は手帳を開いた。
中に、一枚のメモが挟まっていた。
祖父の字は、昔よりずっと震えていた。
それでも、祖父の字だった。
悠真へ。
この病院は、朝になると廊下がよう光る。
わしは入院してから、それを見るのが好きになった。
夜中に眠れん時も、朝になって廊下がきれいになっとると、今日も大丈夫かもしれんと思える。
患者はな、病気だけで弱るんじゃない。
汚れた床を見ても、弱る。
暗い廊下を見ても、弱る。
反対に、きれいな床を見るだけで、少しだけ息がしやすくなる。
お前が拭いた床を、いろんな人が歩いとる。
痛い人も、泣いた人も、家族を待つ人も、家族を見送る人も。
その人らが転ばずに歩けるように、お前は朝から床を拭いとる。
立派な仕事や。
わしはお前の名札を見た時、うれしかった。
佐伯悠真と書いてあったからや。
逃げずに名前をつけて働いとると思った。
わしは、うまく言えんかった。
昔からそうや。
褒める言葉は、口から出る前に錆びてしまう。
金物屋のくせに、いちばん大事な言葉を手入れしてこなかった。
黒飴を置いたのは、褒めたかったからや。
子どもの頃のお前は、店先を掃いたあと、わしの顔をちらっと見た。
「上手にできた」と言ってほしかったんやろう。
わしは、分かっていたのに、いつも飴だけ渡した。
すまん。
今も同じことをしてしまった。
廊下を拭くお前を見て、ほんとうは言いたかった。
ようやっとる。
胸を張れ。
けれど言葉にできんかった。
お前が目をそらしたのは、わしが黙っていたせいやな。
悪かった。
けれど、これだけは覚えておいてくれ。
人に見えにくい仕事ほど、人を支えとる。
お前はこの病院で、たくさんの人を見守っとる。
わしも、その一人や。
元気になったら、またお前の拭いた廊下を歩く。
その時は、ちゃんと声に出して呼ばせてくれ。
清掃スタッフの佐伯悠真さん。
ありがとう。
そこまで読んで、文字が見えなくなった。
私は泣いていた。
声を出して泣くことはできなかった。
病室だから。
夜だから。
祖父が眠っているから。
だから私は、手帳を胸に抱えたまま、肩だけを震わせた。
私が恥じていた名札を、祖父は誇りに思っていた。
私が避けていた沈黙の中で、祖父はずっと、言葉を探してくれていた。
私が皮肉だと思った「廊下、きれいやな」は、祖父なりの精一杯の褒め言葉だったのだ。
なんということだろう。
私は、やさしさを受け取る力さえ失っていた。
人の気遣いを、自分を責める刃物に変えていた。
祖父が差し出した黒飴を、私は勝手に苦くしていた。
「じいちゃん」
私はベッドのそばに座った。
祖父の手を握った。
昔、工具箱を持っていた大きな手は、紙のように軽くなっていた。
油の匂いはしなかった。
消毒液と、乾いた布団の匂いがした。
「ごめん」
それしか言えなかった。
何度も言った。
ごめん。
ごめん、じいちゃん。
祖父のまぶたは動かなかった。
けれど、指先がほんの少しだけ、私の手を握り返した気がした。
本当だったのか、私の願いだったのか、今でも分からない。
祖父は、その夜を越えた。
けれど前のように話すことはなかった。
三日後の朝、祖父は静かに息を引き取った。
その朝、私は出勤していなかった。
病室に着いた時、祖父はもう眠るような顔をしていた。
窓の外には、薄い冬の光があった。
私は棚の上に、黒飴を一つ置いた。
休憩室の引き出しにしまっていた、あの飴だった。
結局、最後まで食べられなかった飴。
けれどその時、ようやく分かった。
祖父は飴を食べてほしかったのではない。
受け取ってほしかったのだ。
言えなかった言葉を。
不器用な誇りを。
黙ったままの愛情を。
葬儀の日、私は喪服の内ポケットに名札を入れて行った。
場違いだとは思った。
けれど、どうしても持って行きたかった。
祖父にもう一度、見せたかった。
棺の中の祖父は、金物屋の主人ではなく、ただ静かに眠る老人の顔をしていた。
私は祖父のそばに、黒飴を一つ置いた。
そして、小さな声で言った。
「清掃スタッフの佐伯悠真です」
誰にも聞こえないくらいの声だった。
けれど、祖父には届いたような気がした。
それから私は、病院の清掃を続けている。
何かが劇的に変わったわけではない。
給料が上がったわけでもない。
誰かに表彰されたわけでもない。
朝は早いし、腰は痛いし、汚れた場所を見れば、今でも少しため息が出る。
けれど、名札を見るたびに背中を丸めることはなくなった。
東棟三階の廊下を拭く時、私は少しだけ丁寧になる。
祖父が歩いた廊下。
祖父が見てくれた廊下。
そして、今も誰かが不安な足で歩いていく廊下。
ある朝、退院するおばあさんが、私に頭を下げた。
「いつもきれいにしてくれて、ありがとうね」
私は少し驚いて、それから胸元の名札に手を触れた。
「いえ。お気をつけて」
そう言うと、おばあさんは笑って、ゆっくり歩いていった。
その背中を見送りながら、私は祖父のメモを思い出した。
人に見えにくい仕事ほど、人を支えとる。
私はまだ、立派な人間ではない。
相変わらず卑屈で、情けなくて、言葉を間違える。
受け取るべき優しさを、また疑ってしまう日もある。
それでも朝になると、私はモップを持つ。
廊下の端から端まで、ゆっくり拭く。
床に光が戻ってくる。
その光の上を、今日も誰かが歩いていく。
私はその人たちの名前を知らない。
その人たちも、私の名前をすぐに忘れるだろう。
それでいい。
胸の名札だけが、静かに揺れている。
清掃スタッフ 佐伯悠真。
祖父が最後に呼ぼうとしてくれた名前。
私はその名札を指で直し、背筋を伸ばす。
そして心の中で、祖父に言う。
じいちゃん。
今日も、ちゃんとやっています。
返事はない。
けれど、磨いた床の上に朝の光がすっと伸びると、祖父がどこかで黙ってうなずいているような気がする。
見守るというのは、きっとそういうことなのだ。
声を荒げず、手を引かず、答えを押しつけず。
ただ、その人が自分の足で歩けるように、遠くから光を置いておくこと。
私は今日も、その光の下を、モップを押して歩いている。




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