〈最後の夜、一本だけ乗らないか〉
弟へ送るその一行を、私は三十七分も見つめていた。
送信ボタンというものは、押すだけなら子どもにもできる。四十八歳の兄には、なかなか難しかった。
営業所は改装のため、翌朝から三か月閉鎖される。車は郊外の仮営業所へ移り、古い休憩室も、煙草の匂いが染みた配車台も、今夜でいったん空になる。
東京のホテル本部で旅行手配をしている弟が、研修で帰郷していることは知っていた。最後の日くらい、私が何をしてきたのか見てほしかった。
返事は十分後に来た。
〈零時四十分。中央ホテルから駅前バスターミナルまで〉
客のような文面だった。だから私も、客として迎えることにした。
助手席には、書き込みだらけの道路地図を置いた。角は擦り切れ、雨に濡れたページは波打っている。カーナビなら目の前で光っているが、地図には機械の知らないことが書いてあった。
赤い線は工事を避ける道、青い丸は夜間でも使えるトイレ、黒い三角は大雨で水のたまる場所。
青い文字のいくつかは、弟の字だった。
私が運転手になったばかりのころ、地元で家電配送をしていた弟が書いてくれたものだ。
〈七時半、通学路〉
〈ここは冬に凍る〉
〈病院裏口、車椅子乗降可〉
一度、弟が取引先の客を紹介しようとしたことがある。私は「身内から客を回されるほど困っていない」と断った。ずいぶん立派なことを言ったものだ。その晩の売上は、同僚の半分だった。
それでも、この地図を頼りに道を覚え、十八年が過ぎた。
午後八時、雨が強くなった。
ワイパーが、ぎい、ぎい、とガラスをこする。駅前の照明は濡れた路面で細長く揺れ、赤信号も青信号も、溶ければ同じ色に見えた。
最初の客は、買い物袋を膝に抱えた老婦人だった。
「なるべく揺れん道でお願いします」
私は地図の黒い三角を避け、舗装の新しい川沿いを走った。料金は少しだけ高くなったが、降りるとき、婦人は「今日は腰が楽やった」と言った。
次は酔った会社員。三人目は熱を出した子どもを抱く父親だった。深夜入口へ回り、庇の下ぎりぎりに車を寄せた。
地図の青い文字が、室内灯の下で浮いた。
弟がこの仕事を恥じていると思うようになったのは、七年前のことだ。
弟の結婚披露宴で、司会者は私を「地元で運輸関係のお仕事をされているお兄様」と紹介した。タクシー運転手という六文字だけが、きれいに隠されていた。
帰り際、私は弟に言った。
「そんなに恥ずかしいなら、兄だということも隠せ」
「話を勝手に決めるな」
「決めたのはお前だろ」
私は祝儀より大きな顔で怒り、そのまま帰った。以来、正月に会っても天気の話しかしない。家族は血がつながっているぶん、他人より上手に傷を狙える。
零時四十分、中央ホテルの車寄せに弟が立っていた。午前一時半発、東京行きの夜行バスに乗るのだという。
私は後部ドアを開けた。
「バスターミナルまでですね、お客様」
「そういうの、面倒くさい」
「こちらは仕事なので」
弟は濡れた傘を畳み、後部座席へ乗った。車内に雨とホテルの石鹸の匂いが入ってきた。
大通りの地下道へ向かうと、地図の黒い三角が目に入った。雨量が多い日は冠水しやすい。私は手前で曲がった。
「遠回りじゃないか」と弟が言った。
「今夜はこっちが早い」
二分後、無線から地下道の通行止めが流れた。
弟は何も言わなかった。バックミラーの中で、少しだけ座り直した。
バスターミナルに着いたのは、午前一時八分。料金メーターを止める小さな音で、この営業所での最後の仕事は終わった。
弟が財布を出す前に、私は助手席の地図を取った。
「これ、お前に返す」
「俺のじゃない」
「お前の字がある」
地図を差し出したまま、私は言った。
「それから、先に謝る。お前が仕事を恥じていると決めつけた。聞きもしなかった。悪かった」
正しさという長年の荷物を下ろすと、身軽になるより先に、ひどく頼りなくなった。怒りも持ち続ければ、杖くらいの役には立つらしい。
弟は地図を受け取り、濡れて硬くなった角を親指でなぞった。
「披露宴で職業をぼかしたのは、俺だ。でも恥ずかしかったのは兄ちゃんじゃない。故郷を出た俺が、地元に残った兄ちゃんを説明するのが嫌だった」
「大して違わんだろ」
「違う」
弟はそこで初めて私を見た。
「地元へ出張する宿泊客や同僚に、会社と車番を教えてた。名前は出さなかった。兄ちゃん、身内から客を回されたら怒るだろ」
雪の日に空港から乗せた老夫婦。雨の夜、薬を切らした旅行客。車椅子で病院へ通った男性。弟が日時を挙げるたび、顔が一つずつ浮かんだ。
「それも勝手に決めただろ」
「兄ちゃんに似たんだよ」
許したわけではなかった。弟も、許された顔はしていなかった。
「来月、飯でも食うか」と私が言った。
「何日」
「十二日」
「十三日なら」
「じゃあ十三日」
弟は地図を鞄へ入れた。バスターミナルの屋根を雨が細かく叩いていた。
ぎい、ぎい、とワイパーが動く。
助手席は空になったが、不思議と、帰り道を見失う気はしなかった。




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