終電が出たあとの駅には、人の体温だけが置き去りにされる。
改札の外には、さっきまで誰かを待っていた人の足跡が残り、ホームのベンチには、眠れなかった背中の形がうっすら沈んでいる。
私は警備員の制服を着て、誰もいない構内を歩く。
鍵束が腰で鳴る。
この音を、私はあまり好きではなかった。
何かを守っているようで、本当は何ひとつ守れなかった男の音に聞こえるからである。
その夜、終電の少し前に、小さな男の子が改札の横で泣いていた。
母親とはぐれたらしい。
私はしゃがんで、声をかけた。
「大丈夫。ここにいれば、ちゃんと会えるから」
男の子は涙で濡れた顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんと」
そう答えながら、私はなぜか胸が痛んだ。
昔の私も、同じ場所で泣いたことがある。
小学校三年の冬だった。
父が家を出て、母は泣かない顔を覚えた。
私は母を困らせたくなくて、困らせたかった。
その両方が混ざって、家を飛び出した。
行く場所などなかった。
ただ駅へ行き、改札の前で泣いていた。
その時、母が息を切らして走ってきた。
叱られると思った。
けれど母は、私の前にしゃがみ、こう言った。
「海、見に行こうか」
冬の海は暗かった。
風ばかり強く、波は白い歯のように砕けていた。
母は私の手を握り、ポケットの中で切符を折れないように大事に持っていた。
その帰り道、母は言った。
「帰る場所がある人は、どこまで行っても大丈夫」
私はその意味が分からなかった。
今でも、分かっているふりをしているだけかもしれない。
男の子の母親は、十分ほどして見つかった。
若い母親は何度も頭を下げ、男の子を抱きしめた。
私は「お気をつけて」とだけ言った。
二人が改札を出ていく背中を見送りながら、母のことを思った。
母と最後にまともに話したのは、三か月前だった。
「夜の駅なんて、体に悪いでしょう。いつまでそんな仕事を続けるの」
電話口の母は、そう言った。
私はその言葉を、軽蔑だと思った。
警備員という仕事を恥じているのだと思った。
「そんな仕事で悪かったな」
私は乱暴に言い返した。
母は少し黙った。
その沈黙がまた、私には嫌だった。
母は何か言いかけたが、私は聞かなかった。
電話を切った。
切ってから、すぐに後悔した。
けれど、こちらからかけ直すほど、私は素直な息子ではなかった。
母は昔から、心配を叱る形でしか出せない人だった。
私は昔から、それを責められていると勘違いする子どもだった。
親子というのは、長く一緒にいるくせに、どうしてこうも通じないのだろう。
終電後、私は一番線の巡回に出た。
ホームの端で風が新聞紙を転がしていた。
ベンチの下をのぞくと、小さな紺色の巾着が落ちていた。
拾い上げると、中で紙のようなものが、かさりと鳴った。
落とし物は、駅務室横の保管箱へ入れる決まりになっている。
私は机に戻り、落とし物タグを出した。
拾得場所、一番線ベンチ下。
時刻、午前零時四十二分。
品名、巾着袋。
そこまで書いて、手が止まった。
巾着の端に、見覚えのある縫い目があった。
少し曲がった白い糸。
子どもの頃、母が私の給食袋に縫ったものと同じだった。
嫌な予感がした。
人は、幸せな予感には鈍いくせに、不幸な予感だけは、犬のように鼻が利く。
私は巾着を開けた。
中には、一枚の古い切符が入っていた。
今ではほとんど見かけない、厚紙の硬い切符だった。
行き先は、あの日、母と行った海辺の町。
小さな穴が空いた、使用済みの切符。
その瞬間、駅務室の蛍光灯が少し遠くなった。
母が、これをまだ持っていた。
あの冬の日から、ずっと。
巾着の奥には、もう一枚、古い落とし物タグが入っていた。
角が折れ、紐が毛羽立っている。
表には、母の字でこう書いてあった。
拾ったもの、息子の帰る道。
持ち主、まだ迷っている人。
私は息を止めた。
裏返すと、細い字が続いていた。
裕司へ。
この切符は、お母さんがずっと持っていました。
あの日、あなたが駅で泣いていた時、本当は私も泣きたかった。
でも、母親が先に泣いたら、あなたが帰ってこられなくなる気がしました。
だから海へ行きました。
何も解決していないのに、波を見せました。
ごめんね。
あなたは昔から、まじめすぎる子でした。
誰かの言葉を、全部、自分を責める声に変えてしまう子でした。
この前、夜の駅の仕事をやめなさいと言ったのは、恥ずかしかったからではありません。
あなたが寒いホームを一人で歩いていると思うと、胸が痛かったからです。
でも、言い方を間違えました。
お母さんはいつもそうです。
祈っているつもりで、あなたを傷つけてしまう。
この切符を、いつかあなたに返そうと思っていました。
あなたがどこかへ行きたくなった時、思い出してほしかった。
帰る場所は、立派な家のことではありません。
誰かが、あなたの無事を祈っている場所のことです。
夜の駅で、誰かが無事に帰れるように見守っているあなたを、お母さんは誇りに思っています。
どうか、自分を粗末にしないでください。
終電が行ったあとも、朝は来ます。
必ず来ます。
私はタグを持ったまま、駅務室の椅子に座り込んだ。
泣くな、と思った。
勤務中だ。
警備員だ。
泣いてどうする。
そう思えば思うほど、喉の奥から小さな音が漏れた。
私は、母に軽蔑されたのではなかった。
母は、私を心配していただけだった。
そんな当たり前のことを、私は三か月も憎んでいた。
母の祈りを、私は叱責として受け取った。
母の不器用な愛を、自分の傷に都合よく変えてしまった。
なんという息子だろう。
巾着は、母がこの駅に来た時に落としたものだった。
駅員に聞くと、夕方、年配の女性が一番線のベンチにしばらく座っていたという。
私を見かけたが、声をかけずに帰ったらしい。
「お仕事中だから」と、そう言っていたそうだ。
母は、私に会いに来ていた。
けれど、声をかけられなかった。
いや、声をかけられなかったのは、私も同じだった。
翌朝、勤務を終えてから、私は母の病室へ行った。
母は先週倒れ、今は白い部屋で眠る時間が増えていた。
窓際の花瓶には、薄い黄色の花が挿してあった。
私はベッドのそばに座り、巾着を置いた。
そして、古い切符を母の手のそばに置いた。
「母さん」
声にすると、情けないほど震えた。
「俺、まだ迷ってるよ」
母は眠っていた。
「でも、ちゃんと帰るから」
私は切符を見つめた。
もう使えない切符だった。
どこへも行けない。
改札を通ることも、海へ連れて行くこともできない。
けれど、その切符は確かに、私をここへ連れてきた。
母の指先が、ほんの少し動いた。
切符の端に触れた。
それが偶然だったのか、返事だったのか、私は知らない。
知らないままでいいと思った。
その日の夜も、私は駅に立った。
終電が出たあと、ホームにはいつもの風が吹いていた。
私は一番線のベンチの下をのぞき、改札を確認し、閉じた売店の前を通った。
誰もいない駅で、胸の内ポケットに入れた落とし物タグに触れた。
拾ったもの、息子の帰る道。
持ち主、まだ迷っている人。
私はまだ、立派な人間ではない。
母にやさしい言葉を返せなかった。
謝ることも、感謝することも、いつも遅い。
けれど、終電後の駅に立っていると、少しだけ分かることがある。
帰る人を待つ場所には、祈りが残る。
足音が消えたホームにも、誰かの無事を願った気配が残る。
母の祈りも、きっとそうだった。
見えないだけで、ずっと私のそばにあった。
午前四時半。
東の空が少し白くなる。
私はホームの端で帽子を取り、誰もいない線路に向かって小さく頭を下げた。
母さん。
今日も、誰かが無事に帰れますように。
そして、俺も。
いつかちゃんと、あなたのところへ帰れますように。
始発を知らせるアナウンスが、遠くで流れた。
私は帽子をかぶり直し、改札へ向かった。
古い切符はもう使えない。
けれど、帰る道は、まだなくなっていなかった。




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