【感動する泣ける短編】祖母の眼鏡と手帳が遺した、小さな希望の物語

早朝の美容院の風景 家族の話

商店街の朝は、まだ誰のものでもない顔をしている。

魚屋の店先には銀色の鱗がひとつふたつ光り、八百屋は泥のついた大根を並べながら、小さなくしゃみをする。

古い薬局のガラス戸には、夜の湿り気がまだ薄く残っていて、その向こうで店主の老人が白衣の袖をまくっている。

その通りの真ん中あたりで、私は美容室をやっている。

美容室、といっても、洒落た言い方が少し気恥ずかしい。

鏡が三枚、椅子が二脚、洗面台はひとつ。

木目の色も少し剥げ、壁紙も隅が浮いている。

名前は「みつき美容室」。

祖母の名前そのままの、古い店だ。

子どものころ、私はこの店の床に落ちた髪の毛を箒で集めるのが好きだった。

黒、茶、白、たまに少し赤い染料のついたものまで混ざっていて、人の一日が細く切り落とされているみたいだった。

祖母はいつも、丸い銀縁の眼鏡をかけていた。

その眼鏡が私は少し苦手だった。

レンズの向こうで細くなる目は優しいのに、何でも見抜いていそうで落ち着かなかったのだ。

宿題をさぼったことも、友達に意地悪を言ったことも、東京の美容学校を受けるふりをして本当は怖くて仕方がなかったことも、あの眼鏡の前では隠しきれない気がした。

もっとも、見抜かれていたのは、たぶん事実より、私の弱さのほうだったのだろうけれど。

私は東京の美容室で七年働いて、地元へ戻ってきた。

戻ってきた、という言い方がいちばん無難だからそう言うが、ほんとうは逃げ帰ってきたのである。

同期は店長候補だの雑誌掲載だのと景気のいい言葉の中を走っていたのに、私は指名も思うほど増えず、流行の色名ばかり増えて、肝心の自分の輪郭はますます曖昧になった。

都会は、人を育てる場所であると同時に、人の弱さを見えやすくする場所でもある。

私は毎晩、終電の窓に映る自分の顔を見て、このまま何者にもなれないのではないかと思っていた。

だから地元に帰ると決めたときも、「商店街で店を継ぐなんていい話だね」と言われるたび、胸の奥では、いい話なんかじゃない、と小さく毒づいていた。

負けて帰ることに、物語らしい名前をつけられるのが、たまらなく嫌だった。

祖母は駅まで迎えに来なかった。

あとから思えば、あの人らしい。

大げさな歓迎をする人ではなかった。

私が大きなキャリーケースを引いて店に入ると、祖母はパーマ液の棚の前で振り向いて、

「戻ってきたの」

と言った。

たったそれだけだった。

おかえり、でもない。

大変だったね、でもない。

私はその簡素さに、ひどく苛立った。

やはり祖母は、私の負け方を見抜いているのだと思ったからだ。

けれど祖母は、それ以上何も言わず、いつものように湯を沸かして、お茶を入れた。

その湯気の中で、銀縁の眼鏡だけが静かに曇った。

それから私は店に立つようになった。

祖母はもう鋏を持たなかったが、椅子の奥に座って、客の名前や癖を私に教えた。

「山口さんは右の耳の上が跳ねるから、少し長めに」

「伊藤さんは世間話が長いけど、染めの放置の間に言わせておけばいい」

「寺尾さんは、前髪を切りすぎると怒る」

そんなことを、古びた黒い手帳をめくりながら教えた。

その手帳はいつも祖母のエプロンのポケットに入っていた。

革は擦り切れ、角は丸くなり、紙は指の脂を吸って少し柔らかくなっていた。

予約の時間、仕入れの数、商店街の寄り合い、客の誕生日、誰それの孫が就職したことまで、細かい字でびっしり書いてある。

私はそれを見るたび、息苦しくなった。

美容師はもっと自由な仕事だと思っていたからだ。

感性とか、抜け感とか、そういう言葉のほうが似合うはずなのに、祖母の店では、髪型の前にまず暮らしがあり、人の都合があり、その横に髪があった。

そして私は、その順番にまだ馴染めなかった。

ある日、閉店後に祖母が手帳へ何か書き込んでいた。

私は掃除をしながら、それを横目で見て、つい言った。

「まだそんなの使ってるの」

祖母は眼鏡の位置を少し直した。

「使ってるよ」

「スマホのほうが早いじゃん」

「私はこっちが早い」

「そういうとこだよ」

言ってしまってから、自分でも、どこだよ、と思った。

けれど口は止まらなかった。

「だからこの店、昔のままなんだよ。全部が古い。やり方も、空気も」

祖母はしばらく黙っていた。

眼鏡の奥の目が、少しだけ瞬いた。

「古いの、悪いかね」

その言い方が静かすぎて、私はまたむきになった。

「悪いよ。そうやって変わらないから、若い客も来ないし」

ほんとうは店のことではなかった。

変われない自分のことを言っていたのだ。

東京でうまくやれなかった自分。

地元へ戻ってきても、新しい顔ひとつ作れない自分。

祖母の手帳は、その停滞の象徴みたいに見えた。

祖母は少しだけ目を伏せ、手帳を閉じた。

ぱたん、という小さな音がした。

「そうかもしれないね」

それだけ言った。

怒りもしなければ、弁解もしなかった。

その静けさは、私の言葉を正しかったものではなく、ただ醜いものにした。

けれど私は謝れなかった。

謝るには、自分の惨めさを認めなければならなかったからだ。

それから祖母は店へ出る日が減った。

風邪をひいたと言い、咳が長引き、病院へ行ったら肺炎だった。

年齢のわりには持ち直していると医者は言ったが、家族の顔はみな少しずつ諦めの色を帯びていった。

私は病院へ通った。

通ったが、まともな言葉はひとつも言えなかった。

「お客さん、寺尾さん来たよ」

「商店街の福引き、今年は縮小だって」

「シャンプー台、少し水漏れしてる」

そんなことばかり話した。

祖母はうなずき、ときどき笑い、そして疲れると眼鏡を外して目を閉じた。

私はそのたび、ああ、見られなくなった、と思って少し安心し、同時に少し寂しかった。

祖母にちゃんと見られているうちは、まだ孫でいられたような気がしたのだ。

亡くなったのは、雨の火曜日だった。

商店街の屋根を叩く雨は妙に静かで、閉じたシャッターの前にだけ小さな水たまりができていた。

通夜も葬儀も、私はひどく平然としていた。

泣けなかった。

泣くには何かが詰まりすぎていた。

悲しいというより、間に合わなかった、という感じだった。

間に合わなかった人間は、すぐには泣けない。

数日後、店の引き出しを整理していると、鏡台の下の浅い棚から、祖母の銀縁の眼鏡と黒い手帳が出てきた。

眼鏡は軽かった。

祖母の顔がなくなると、こんなにただの物なのかと思った。

けれど手帳のほうには、どうしてもすぐ手が伸びなかった。

私は閉店後、店の灯りを半分落としてから、それを開いた。

予約の名前。

仕入れの数。

「町内会費」「パーマ液注文」「真帆 帰省」

細い、几帳面な字だった。

私は少しずつ頁をめくった。

途中、私の名前が何度も出てきた。

「真帆 東京面接」

「真帆 手荒れひどい」

「真帆 帰る日」

それだけの記述なのに、胸の奥が少しずつ湿っていく。

私は祖母が私のことを見ていないと思っていた。

見抜いてはいても、深くは気にしていないのだと思っていた。

それが思い込みだったのだ。

後ろのほうへ行くと、予定のない頁が続いた。

その余白に、ぽつぽつと言葉があった。

「真帆は、切るとき左肩が上がる」

「せっかち。けれど手はやさしい」

「言い方で損をする」

私は息を止めた。

その先に、少し間を空けて書いてあった。

「負けて帰ったと思っている顔をしている」

視界が揺れた。

ああ、と、そのときはじめて思った。

祖母はやはり知っていたのだ。

私がどんなつもりで帰ってきたか。

どれほど自分を恥じていたか。

そして、あの「戻ってきたの」は、見透かして突き放した言葉ではなかったのかもしれない。

負けたとか、逃げたとか、そういう名前を私に言わせないための、ぎりぎりのやさしさだったのかもしれない。

手帳を持つ手が震えた。

さらにめくる。

「古い店でごめん、とは思わない」

「古い店にしか話さないこともある」

「真帆は新しいものを入れればいい」

「私の真似は、半分で十分」

私はとうとう、そこで泣きそうになった。

だが、涙はまだ落ちなかった。

もっと奥の頁に、眼鏡のことが書いてあったからだ。

「眼鏡を外すと、真帆の顔が少しぼやける」

「怒っている日も、泣きそうな日も、少しやさしく見える」

「人の顔は、少しぼやけるくらいがちょうどいい」

その字を見た瞬間、堰が切れた。

私はずっと、祖母の眼鏡に見透かされていると思っていた。

ほんとうは逆だったのだ。

祖母は、見えすぎない眼鏡越しに、私の棘を少し丸く見てくれていた。

はっきり見えないから、責めずにいられたのかもしれない。

人を愛するとは、細部まで裁ききらないことなのだと、そのとき初めて知った。

ぽたり、と涙が手帳に落ちた。

一滴、二滴。

古い紙が少し波打った。

私は嗚咽をこらえようとしたが、無理だった。

店にはもう誰もいない。

鏡が三枚、私の泣く顔をそれぞれ少しずつ違う角度で映していた。

情けない顔だった。

けれど、その情けなさを、祖母ならたぶん知っていただろう。

知って、それでも店の椅子の横に置いてくれたのだろう。

最後のほうの頁、ほとんど白い余白に、細くかすれた字が一行だけあった。

「この店に、鏡の数だけ希望が残りますように」

私は泣きながら、少し笑った。

希望、なんて、祖母の口からはいちばん遠い言葉だと思っていた。

もっと現実的で、もっと地味で、もっと損得に厳しい人だと思っていた。

けれどそれも、私の思い込みだったのだ。

静かな人間ほど、奥にやわらかいものを隠している。

ただそれを、簡単には見せないだけで。

その夜、私は店の鏡を全部拭いた。

三枚とも、いつもより丁寧に。

椅子の脚に絡んだ髪を取って、シャンプー台の水垢を落として、祖母の眼鏡をやわらかい布で磨いた。

それから入口の黒板を出し、新しいチョークで書いた。

白髪ぼかし、はじめました。

祖母なら、たぶんこんな言い方はしない。

もっと無難で、もっと昔ながらの書き方をしただろう。

けれど、私の真似は半分で十分、とあの余白は言っていた。

数日後、古くからの常連の和子さんが、その黒板を見て入ってきた。

「先生がおらんようになって、どうしようかと思ってたけど」

そう言って椅子に座り、鏡越しに私を見た。

「でも、あんたが続けるなら来るよ」

私はクロスをかけながら、小さく笑った。

「下手だったら、遠慮なく言ってください」

和子さんは首を振った。

「下手かどうかじゃないよ。続ける人のとこへ、人は来るの」

その言い方が、少し祖母に似ていた。

私は霧吹きを持つ手を整えた。

左肩が上がらないように気をつける。

鏡の中の私は、まだいかにも途中の顔をしている。

完成には遠い。

けれど、途中の顔にも、朝は来る。

商店街の朝は、今日もまだ誰のものでもない。

魚屋の氷が砕け、八百屋の大根が並び、うちのガラス扉には、曇った空がぼんやり映っている。

私は開店前に一度だけ、祖母の銀縁の眼鏡をケースから取り出し、朝の光に透かす。

細い縁が、小さく光る。

それをまたしまい、レジの下の手帳にそっと触れる。

余白はもう増えない。

けれど、その白さは、いまも何かを書き足せる顔をしている。

私は深く息を吸って、シャッターを上げる。

古い店に、新しい風が少しだけ入る。

その程度のことを、人はたぶん、希望と呼んでいい。

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