【泣ける短編】亡き恩師から届いた最後の手紙

霧雨の古書店と赤い手帖 泣ける話

私は手紙を届ける仕事をしながら、自分宛ての手紙だけは、ひどく恐れていた。

もっとも、四十二歳の独り身の男に、わざわざ便箋を埋めてくれる物好きなど、もうこの世には一人もいないと思っていた。

故郷の商店街へ戻り、配達員になって三年が過ぎていた。

昼間でも薄暗いアーケードには、錆びた看板と閉じたシャッターが並んでいる。

昔は魚屋だった店の軒先で猫が眠り、風が吹くと、古い値札だけが人間の代わりに揺れた。

人よりも、思い出のほうが多く住んでいる町だった。

配達の途中、私はいつも「青葉書房」の前で足を速めた。

高校時代の国語教師、片桐先生の古書店だった。

先生は定年後、兄から店を継ぎ、売れるあてのない本に囲まれて暮らしていた。

私は先生を避けていた。

二十五年も。

高校三年の冬、私は初めて小説を書いた。

母を亡くした少年が、母の残した弁当を毎朝捨てに行く話だった。

原稿用紙三十枚ほどの、幼くて、暗くて、そのくせ悲しみだけは一人前の物語だった。

当時、私の母も病気で亡くなったばかりだった。

父は借金のことで家を空け、私は誰にも泣き顔を見せられなかった。

だから、小説の中の少年を代わりに泣かせた。

放課後、私は原稿を片桐先生に渡した。

先生は授業で、こう話していたからだ。

「人は口では上手に嘘をつく。でも文章では、案外うまく嘘をつけない。だから書くんです」

三日後、私は職員室へ感想を聞きに行った。

先生は赤い手帳を閉じ、私の原稿を無言で差し出した。

赤字は一つも入っていなかった。

「先生、どうでしたか」

先生は私を見たあと、周囲にいた生徒たちへ目をやった。

そして声を落とした。

「君は、書くより先に、生きなさい」

それだけだった。

私は笑って、「やっぱり駄目でしたか」と尋ねた。

先生は何か言いかけた。

けれど私は、それを聞く前に頭を下げた。

帰り道、川沿いの橋で原稿を一枚ずつ破った。

白い紙は雪のように舞い、水面へ落ちると、書かれた文字から先に沈んでいった。

先生は、私には書く価値がないと言ったのだ。

そう思った。

町を出てから、私は工場や倉庫を転々とした。

何かを書こうとするたび、「先に生きなさい」という先生の声がした。

まだ足りない。

お前の人生は、物語にするほどのものではない。

そう責められているように聞こえた。

だから私は、生きることにも、書くことにも、半端なまま年を取った。

六月のある午後、雨が降った。

私は青葉書房宛ての小包を抱え、とうとう店の前に立った。

仕事である以上、逃げることはできなかった。

引き戸を叩いても、返事はなかった。

隣の茶屋から、女主人が傘を差して出てきた。

「片桐先生なら、先週亡くなったよ」

先生は店の階段から落ち、病院へ運ばれた三日後に息を引き取ったという。

遠方に住む姪が、明日、店の整理に来るらしい。

私は小包を抱いたまま、雨の中に立ち尽くした。

悲しむ資格など、自分にはない気がした。

私は二十五年間、先生を恨むことで、書かなかった自分を守ってきたのだから。

二日後、営業所を訪ねてきた女性が、私の名を呼んだ。

先生の姪だった。

「叔父の机に、あなたへ渡すよう書かれた封筒がありました」

差し出された封筒には、便箋と、あの赤い手帳が入っていた。

最初のページには、日付と生徒の名前が並んでいた。

その中に、十七歳の私の名があった。

《野口。小説三十枚。母を亡くした少年の話。荒削りだが、この子は書くことでしか泣けない》

次のページには、こうあった。

《職員室に他の生徒がいたため、感想を言えなかった。母親の死を知られたくないだろうと思った。“先に生きなさい”などと、愚かな言い方をした。原稿に赤字を入れなかったのは、直すべき作文ではなく、彼の泣き声だと思ったからだ》

私はページをめくった。

数年おきに、私の名が現れた。

《町を出たと聞く》

《文学賞の受賞者一覧に、彼の名を探す》

《商店街で似た背中を見た。声をかけられず》

《配達員の制服に彼の名字を見つけた。元気なら、それでいい。しかし、もし書くことをやめていたなら、私のせいではないか》

手帳の最後に、先生の手紙が挟まれていた。

『野口君。

あの日、私は、悲しみを急いで作品にしなくてもよい、と伝えたかったのです。

けれど今は分かります。

書きながらでなければ、生きられない人もいるのだと。

私は教師でありながら、君の誤解を二十五年も放置しました。

どうか、続きを書いてください。

上手でなくていい。

君が見てきたものを、君よりあとを歩く誰かへ渡してください。

文章は、届くのが遅くても、手紙であることに変わりはありません』

私は青葉書房の軒下に座り込み、何度も手紙を読んだ。

雨がアーケードの屋根を叩いていた。

閉じた店ばかりの商店街が、声を押し殺して泣いているようだった。

先生に捨てられたと思っていた二十五年は、先生もまた、渡せなかった言葉を抱えていた二十五年だった。

泣いているのが十七歳の私なのか、四十二歳の私なのか、もう分からなかった。

ただ、どちらの私も、ようやく先生に見つけてもらった。

その夜、私は一冊のノートを買った。

赤い手帳を隣に置き、今日の雨のことから書き始めた。

古書店のこと。

先生のこと。

届くのが遅すぎた手紙のこと。

明け方、私は最初の一ページを書き終えた。

ひどく拙い文章だった。

それでも、今度は破らなかった。

私は今も配達員をしている。

休日には、机に向かう。

書き終えた物語は、町の小さな文芸誌へ送っている。

誰かに届くかどうかは分からない。

それでも構わない。

私は配達員だから知っている。

手紙は差し出した瞬間から、もう自分だけのものではない。

今日も、擦り切れた赤い手帳を開く。

先生の最後の言葉の下に、私は小さく書き足している。

《先生。続きを書いています》

返事は、もう来ない。

けれど雨の日に古書店の跡を通ると、背中をそっと押されるような気がする。

私はその勘違いを、今度こそ捨てずに、次の誰かへ届けようと思っている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました