【泣ける短編小説】タクシー運転手と元上司、12年越しの誤解|同じ頁の名前

未完の修理、夜明けの灯 泣ける話

「同じ行に、お前と俺の名前がある」

黒田さんは、埃をかぶった修理台帳を私の胸へ押しつけた。

午前五時十二分。

坂の下に止めた私のタクシーでは、メーターの緑色の数字だけが律儀に光っていた。六時には、この古い整備工場兼営業所の解体が始まる。

昨夜、配車室へ黒田さんから私を指名する電話があった。会社は七年前に車庫を平地へ移し、最後の工場長だった黒田さんも翌年退職して町を離れた。解体業者から連絡を受け、今朝だけ戻ったらしい。

「業者が棚の裏から見つけたそうだ。要るなら持っていけ」

十二年ぶりに会った元上司は、相変わらず頼み事まで命令の形をしていた。

黒田さんは私の制服を一度見ただけで、似合うとも、似合わないとも言わなかった。私は来る途中で帽子の角度を三度直していた。四十を過ぎた男が、昔の上司の一言を待っている。車内鏡に映せば、さぞ見苦しい乗客だったろう。

私は台帳を受け取った。

機械油の匂いがした。

それだけで、胸の奥の古いねじが、嫌な音を立てて回り始めた。

運転手になる前、私はこの車庫で整備をしていた。

坂の多い住宅街を走る車は、平地の車よりブレーキの減りが早い。私は走行距離ではなく、担当する坂道の数に応じて点検間隔を変える表を作った。

黒田さんは、赤鉛筆で何度も書き直させた。

「数字に情けをかけるな」

厳しい人だった。

けれど、その表を使ってから、坂の途中で異音を出す車は目に見えて減った。

会社は安全改善の表彰を受けた。

社内報に載ったのは、整備主任だった黒田さんの名前だけだった。

私の名前はなかった。

手柄を奪われたのだと思った。

私は整備を辞め、運転手になった。理由を聞かれるたび、運転のほうが性に合う、と答えた。

腹が立てば深夜便を引き受け、悲しければ車内を磨いた。感情は勤務表の空欄へ詰め込めば、だいたい見えなくなる。

私は仕事熱心なのではない。

仕事以外の顔を持つのが下手なだけだった。

車庫の入口に、一本の黒い傘が掛かっていた。

あの日の試運転で、海からの風に骨を折られた傘である。黒田さんが針金と座席布の切れ端で直した。

「傘一つ満足に扱えないのか」

そう言いながら、曲がった骨を一時間もかけて継いだ。

私はそれさえ、見下されているのだと思った。

修理後の傘を開くと、ひどく不格好だった。黒田さんは一度だけ声を立てて笑った。

私は、その顔をもう一度見たかった。

欲しいのは評価ではない、と何度も自分に言った。そう言い聞かせる人間ほど、評価の皿を空にして待っている。

台帳を開いた。

〈坂道担当車両・点検基準変更〉

申請者の欄には、黒田恒一。

考案・実施の欄には、私の名前があった。

高瀬直人。

次の頁にも、その次の頁にも、同じ二つの名前が並んでいた。

頁をめくるたび、機械油の匂いが濃くなった。

欄外には、小さな文字で、〈考案者名を正式記録へ併記願う〉とある。

その下に、本社の差し戻し印。

さらに翌月、同じ願い。

また差し戻し。

私の名前は十七回あった。点検した車の番号、坂道で測った温度、異音が消えた日付。そのすべてに黒田さんの確認印が押され、欄外には同じ併記願いが繰り返されていた。

黒田さんは、私の名前を消したのではなかった。

消されるたび、書き直していた。

「社内報は、主任名しか載せない決まりだった」

黒田さんは、解体用の箱を畳みながら言った。

「なら、どうして言ってくれなかったんです」

「言えば、お前は信じたか」

答えられなかった。

「それで、私を指名したんですか」

「この頁は、お前が読むべきだと思った」

黒田さんは、それ以上こちらを見なかった。十二年遅れの善意は、渡すほうにも少し重かったのだろう。

あの頃の私は、差し出された手より、その手に隠された勘定書きを探す男だった。

たぶん、今もたいして変わらない。

五時四十分。

最初の予約へ向かう時刻だった。

私は無線を取り、坂上町の予約を別の車へ回してもらった。稼ぎのよい空港便だった。出発を遅らせれば、今月の売上順位も下がるだろう。

それでも、ここでまた仕事へ逃げたら、十二年前と同じだった。

「運転が好きで異動したと言ったのは、嘘です」

黒田さんの手が止まった。

「あなたに手柄を奪われたと思って、逃げました。仲間にも、そう言いました。確かめもしないで」

機械油の匂いの中で、言葉だけが妙に新しかった。

黒田さんは長いあいだ黙っていた。

「俺も、記録さえ残せば分かると思っていた」

黒田さんは、油で黒くなった指先を見た。

「部下に伝わらなかったなら、記録だけのせいじゃない」

それは謝罪には少し足りず、言い訳にしては正直だった。

私は傘を手に取った。

「これ、まだ使えますか」

「俺の修理を疑うのか」

傘を開くと、片側だけが少し低かった。

黒田さんの口元がわずかに曲がった。笑ったのか、呆れたのかは分からない。

分からないままで、よかった。

六時前、解体業者の車が坂を下りてきた。

現場主任が入口から顔を出した。

「電源を落とすまで、あと十分です」

私は店の照明を順に消した。

最後に、修理台の上の灯りだけを残した。

黒田さんは台帳の最終行に、〈解体前確認〉と書いた。

その横へ、二人で名前を書いた。

高瀬直人。

黒田恒一。

外では重機が低く唸っていた。

古い車庫には、機械油の匂いと、不格好な傘と、一つだけの灯りが残っていた。

私はまだ、黒田さんに許されたわけではない。

黒田さんも、私に許されたわけではない。

それでも二人の名前は、今度こそ同じ行にあった。

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