光の残り方

写真を見つめる人 泣ける話

祖母は、笑うのが下手な人だった。

いや、違うな。

笑うのが下手だったのではなく、笑っているところを、私がちゃんと見ようとしなかったのだと思う。

写真館で働くようになって六年になる。

駅前から少し離れた古い商店街のはずれにある、小さな写真館だ。

七五三。

入学式。

遺影。

家族写真。

人は節目ごとに、何かを残したくなるらしい。

私は照明を組み、背景紙を替え、ぎこちない客に「少し顎を引いてください」と言う。

笑顔をつくる手伝いはするくせに、自分の家にあった顔のことは、ずいぶん乱暴に決めつけていた。

祖母は商店街で、小さな乾物屋をやっていた。

昆布、煮干し、干し椎茸、豆。

そういう地味なものばかり並ぶ店で、子どものころの私は、あの店があまり好きではなかった。

友達の家みたいに色のある匂いがしなかったからだ。

駄菓子屋の甘さも、本屋の紙の匂いもない。

ただ出汁の匂いと、陽に焼けた段ボールと、秤の錘の冷たい金属の光だけがあった。

祖母はいつも割烹着を着て、店番をしながら算盤を弾いていた。

背中の丸い人で、客には愛想よくするのに、家族には妙に口数が少なかった。

「おばあちゃん、来たよ」

幼い私がそう言っても、祖母はたいてい、

「靴、揃えなさい」

とか、

「手ぇ洗ったの」

とか、

「宿題は済んだの」

とか、そういうことしか言わなかった。

私はそれが不満だった。

もっとこう、抱きしめるとか、頭を撫でるとか、そういう分かりやすい優しさが欲しかった。

母は私が小学生のころに亡くなった。

父は仕事で家を空けがちで、帰ってきても疲れ切っていた。

だから私は放課後の多くを、祖母の店の奥で過ごした。

奥には小さな畳の間があって、古びた扇風機と茶箪笥と、少し軋む座布団があった。

祖母は私におやつを買い与えるような人ではなく、ただ麦茶を湯呑みに注ぎ、みかんがある日は半分に割って皿へ置き、

「そこ座ってなさい」

と言うだけだった。

私はその言い方が嫌いだった。

命令されているみたいで、少しも愛されている気がしなかったからだ。

でも、いま思えば、あの畳の間は、祖母が私のために空けていた場所だったのだろう。

客の出入りのある店先ではなく、荷物も伝票も置かないいちばん奥に、いつも私の座る場所が残してあった。

子どもの私は、そんなことにも気づかなかった。

祖母は最後まで、分かりやすくは優しくなかった。

高校を出て写真の専門学校へ行きたいと言ったときも、祖母は真っ先に反対した。

「食べていけるの」

最初に言ったのがそれだった。

私は腹が立った。

夢だの向いているだの、そういう話をする前に金のことか、と。

「べつに、おばあちゃんに迷惑かけないよ」

そう言うと、祖母はしばらく黙ってから、

「迷惑かけるとか、そういう言い方をしてるうちは、まだ子どもだよ」

と返した。

ひどく意地の悪い言葉に聞こえた。

私はそのとき、自分の覚悟を見下された気がしたのだ。

私たちはそのまま喧嘩になり、私は商店街を抜けて、泣きながら帰った。

背中で祖母が何か言った気がしたが、振り返らなかった。

その晩、父は珍しく私の部屋まで来て、ぼそりと言った。

「ばあちゃん、金の工面、考えてたぞ」

私は聞こえないふりをした。

聞いてしまえば、怒りを続けられなくなる気がしたからだ。

結局、私は学校へ進み、いまの写真館に勤めた。

祖母はそのことを、最後までちゃんと褒めなかった。

「ふうん、写真屋さん」

最初に店へ名刺を持っていったときも、そう言っただけだった。

写真屋さん、ではなく、写真館スタッフだ。

細かいことだが、私はその雑なくくり方が癪に障った。

人の仕事も夢も、みんな同じ棚に乱暴に並べる人なのだと思った。

その思い込みを、私は長いこと大事に育ててしまった。

けれど祖母は、ときどき不思議なことをした。

店の前を掃除しているふりをしながら、私が商店街を歩いてくるのをじっと見ていたり、写真館の定休日を父から聞き出していたりしたらしい。

私はそれを知らなかった。

知らないまま、祖母は無関心だと決めつけていた。

祖母が倒れたのは、去年の暮れだった。

商店街の福引きの手伝いをしている最中に、店先で尻もちをつくように崩れたという。

病院へ運ばれたが、それから三週間ほどして、あっけなく亡くなった。

年齢を考えれば大往生なのだろうが、そういう便利な言葉は遺された側の手には少し冷たい。

葬儀のあと、商店街の人たちが口々に祖母のことを話した。

「おばあちゃん、あんたの写真、よう自慢しとったよ」

和菓子屋の奥さんがそう言ったとき、私は愛想笑いを返した。

そういう慰め方もあるのだろうと思ったからだ。

「店のレジの下に入れとってね、うちの孫が写真の仕事しとるんだって」

魚屋の主人までそう言った。

「この前も見せられたぞ。すました顔の、えらいきれいな写真」

その言葉に、私は少しだけ黙った。

だが、どうせ皆で気を遣っているのだろう、と心のどこかでまだ思っていた。

人は思い込みを手放すのに、存外、臆病だ。

四十九日が過ぎたころ、祖母の店を畳むことになった。

私は店の整理を任され、干からびた輪ゴムや、古い帳面や、賞味期限の切れた乾物をひとつずつ片づけた。

秤は思ったより重く、木の引き出しには細かな粉がたまっていた。

レジの下には、几帳面に折られた紙袋と、小銭を包む古新聞と、短くなった鉛筆が束ねてあった。

祖母の手の跡ばかりが残っていて、私はそれに少し腹が立った。

いなくなった人間のくせに、妙に生活感だけ濃く残しやがって、と思ったのだ。

そんなふうに毒づくしかないくらい、私はまだ泣けずにいた。

店の奥の押し入れから、古い写真の箱が出てきたのは夕方だった。

菓子缶を再利用したようなブリキの箱で、錆びたふたを開けると、白黒写真や色褪せたスナップがぎっしり詰まっていた。

若いころの祖母。

まだ小さい母。

知らない親戚たち。

祭りの山車。

商店街の昔のアーケード。

まだ舗装の浅い道端で笑う人たち。

私は床に座り込んで、それらを一枚ずつめくった。

写真館で働いていると、人の写真を見る目が職業病みたいに少し意地悪になる。

構図が甘いとか、逆光だとか、ピントが浅いとか、そういうことが先に目につく。

だが、その箱の中の写真は不思議だった。

どれも技術的には拙いのに、手放しがたい温度があった。

たぶん、撮る人が「残したい」と思って押したシャッターは、技術の足りなさを少しだけ越えるのだ。

いちばん下に、私の写真があった。

七歳くらいだろうか。

商店街の夏祭りの日、浴衣姿で綿菓子を抱えている。

顔をしかめていて、ぜんぜん可愛くない。

私は思わず笑ってしまった。

これのどこがいいのだろうと思った。

裏返すと、鉛筆の字があった。

『笑っていないけれど、この子らしい。気が強くて、泣きそうなのをこらえている顔』

息が止まった。

祖母の字だった。

私はもう一枚、別の写真をめくった。

入学式の日、制服の襟を気にしている中学一年の私。

裏には、

『背が少し伸びた。母親に似て、緊張すると左手で袖をさわる』

次の一枚。

運動会で負けて、むくれている私。

『負けず嫌い。悔しいと返事が小さくなる』

次の一枚。

高校の文化祭で、教室の隅に立っている私。

『輪の真ん中には入らない。でも、端にいる子に先に話しかける』

次の一枚。

専門学校の合格通知を手にしている私。

ぶすっとした顔で写っている。

裏には、

『嬉しいときほど、うれしくなさそうな顔をする。損な子』

私はその場から動けなくなった。

写真の裏には、どれも短い言葉が書かれていた。

日付と、天気と、そのときの私の癖や顔つきや、たぶん祖母にしか気づかないような小さなことばかり。

祖母は、私の表情を記録していたのだ。

正面の笑顔ではなく、少し拗ねた顔や、気を張っている顔や、泣くのを堪えている顔を。

私はずっと、見られていなかったのだと思っていた。

違った。

見られすぎるほど、見られていたのだ。

ただ祖母は、それを正面から言えない人だったのだろう。

私は箱の底を探った。

そこに、写真館でもらう封筒に入った一枚があった。

数年前、店の宣材用に撮ってもらった私のポートレートだ。

白いシャツに黒いエプロン、少しだけ澄ました顔。

祖母に渡した覚えはない。

父が見せたのかもしれなかった。

あるいは、商店街の誰かが持ってきたのかもしれない。

その裏には、ほかより少し丁寧な字で、こう書いてあった。

『この子は、人の顔を残す仕事に向いていると思う』

そこで私はもう、目を逸らせなかった。

つづきがあった。

『自分が寂しいのを隠すから、人の寂しさに気づく』

私はそこで、とうとう泣いた。

店の床に座ったまま、写真を胸に押しつけて泣いた。

泣く資格があるのかどうか、よく分からなかった。

祖母をずっと誤解して、勝手に拗ねて、ろくに優しい言葉も返さなかった私が、いまさら何を泣くのだと思った。

だが涙はそういう理屈をまるで聞かない。

店の外では、商店街のシャッターが一枚ずつ閉まっていく音がした。

乾いた金属音が、夕暮れにやけに遠く響いた。

祖母はもういない。

その事実だけが、ようやく胸の形に沿って痛みはじめた。

箱の中には、最後にもう一枚、最近の写真が入っていた。

それは祖母自身の写真だった。

たぶん町内会の旅行か何かで撮られたものだろう。

少し横を向き、困ったように笑っている。

私はこんな祖母の顔を知らなかった。

知らなかったというより、知ろうとしなかったのだ。

裏には、一行だけあった。

『写真は、いなくなる前のために撮るんじゃない。残る者が、あとでちゃんと思い出せるように撮る』

私はその言葉を、長いあいだ握っていた。

夜になって父が店へ来たとき、私はまだ床に写真を広げたままだった。

父はしばらく黙って立っていたが、やがて言った。

「見つけたか」

私は頷いた。

父は店先の秤に触れながら、ぼそりと続けた。

「ばあちゃん、あれ、ずっと書いてたよ。おまえのこと」

「なんで言わなかったの」

思わず責めるような声になった。

父は困ったように笑った。

「言ったら、おまえ、素直に聞いたか」

それには返せなかった。

聞かなかっただろうと思う。

むしろ余計に拗ねたかもしれない。

人は、自分が欲しかったものを、差し出された瞬間には受け取れないことがある。

受け取る準備が遅すぎるのだ。

写真館に戻った翌週、私は店長に頼んで、商店街の閉じる乾物屋の前で一日だけ撮影会を開かせてもらった。

無料で、商店街の人たちの家族写真を撮る企画だ。

最初は照れていた人たちも、いざカメラを向けると案外素直に笑った。

和菓子屋の夫婦。

魚屋の親子。

もうすぐ店を継ぐというパン屋の娘。

杖をついた豆腐屋の主人と、その隣で背筋を伸ばす奥さん。

祖母と長く同じ通りで生きてきた人たちの顔は、みな少しずつ似た疲れを持ち、それでも不思議にやわらかかった。

私はシャッターを切りながら、祖母の字を思い出していた。

笑っていないけれど、この子らしい。

その見方を、私は知らなかった。

人をきれいに撮ることばかり考えて、その人らしさを受け止める目を、どこかで置き忘れていたのかもしれない。

撮影会の最後に、和菓子屋の奥さんが言った。

「今日は、あんたのおばあちゃんも店の奥から見とるね」

私は少し笑った。

「だったら、もっと口うるさく言いますよ。そこ埃がある、とか」

みんなが笑った。

私も笑った。

その笑いの中に、ようやく祖母のいる場所ができた気がした。

撮った写真は、後日一枚ずつ丁寧にプリントして配った。

私はその裏に、祖母の真似をして短い言葉を書き添えた。

『よく似た眉』

『照れているけど嬉しそう』

『この店の前が似合う家族』

書きながら、少し手が震えた。

人を見て、言葉を残すことは、思っていたよりずっと責任のある行為だった。

祖母はそれを、長いあいだ一人でやっていたのだ。

いま、祖母の店だった場所は空き店舗になっている。

看板は外され、シャッターは下りたままだ。

けれど私はときどき、その前を通る。

商店街の夕方の匂いは昔と変わらない。

揚げ物の油。

濡れた段ボール。

魚屋の塩気。

どこかの家の夕飯。

そういう生活の匂いの真ん中で、私は写真の封筒を鞄に入れて歩く。

祖母の書いた言葉は、いまでは私の仕事の奥に沈んでいる。

泣きそうなのをこらえている顔。

嬉しいときほど、うれしくなさそうな顔。

輪の真ん中には入らない人の、端にいるやさしさ。

そういうものを、私は前より少しだけ信じて撮れるようになった。

継承なんて、もっと立派なものだと思っていた。

店を継ぐとか、名字を継ぐとか、技術を継ぐとか。

けれど本当は、誰かが自分を見てくれていた、その見方を受け継ぐことなのかもしれない。

夜、店じまいをしたあと、私は祖母の写真を机に立てかける。

困ったように笑っている、あの一枚だ。

そして明日の予約表を見ながら、小さく言う。

「ちゃんと撮るよ」

返事はない。

けれど、沈黙というのは、ときどき言葉より深く残る。

祖母は最後まで、上手に愛情を言えなかった。

私もたぶん、そういう血を引いている。

それでも、写真の裏のあの鉛筆の跡があるかぎり、私はもう二度と、見られていなかったなどとは思わないだろう。

光は消える。

顔も老いる。

商店街もいつかは変わる。

それでも、誰かを見つめたまなざしだけは、写真の裏側に、静かに残る。

私はその残り方を、これからも仕事にしていく。

祖母の代わりにはなれない。

でも、祖母が私を見つめたあの静かな深さを、次の誰かの顔のそばへ、そっと手渡すことならできる気がする。

たぶんそれが、私にできるいちばん小さな継承なのだ。

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