工場の朝は、季節に関係なく、いつも少し鉄の匂いがします。
夜のあいだ止まっていた機械が、始業のベルのあとで一つずつ目を覚ましていくと、空気の中に油と熱と金属の気配が混じるのです。
人間の声は、その音の前ではずいぶん小さいものです。
誰かが「おはよう」と言っても、プレス機の唸りに半分さらわれてしまう。
そのくせ、怒鳴り声や舌打ちだけは、妙にはっきり耳に残る。
私はそういう場所で働いています。
自動車部品をつくる町工場です。
もう十年になります。
向いていると思ったことは、正直あまりありません。
私は昔から、何かを器用にこなすより、失敗をごまかすほうが少しうまい人間でした。
けれど工場では、ごまかしたつもりの甘さがすぐ形になって出ます。
寸法のずれ。
傷。
溶接の甘さ。
不良品の箱。
ちゃんとしているかどうかが、いやでも目に見える。
だから私は、この仕事が少し怖く、少しありがたいのです。
言い訳の逃げ場が少ないからです。
父も、同じ工場で働いていました。
正確には、父が先にいて、私があとから入ったのでした。
父は現場の古株で、口数の少ない人でした。
よくいる頑固親父、と言ってしまえば簡単です。
でも、そう呼ぶには少し違うところもあった。
威張るわけではないのです。
ただ、言葉のかわりに手を動かす人でした。
うまくできたときも何も言わないし、失敗したときも長々とは叱らない。
ひとこと、「雑だ」とか、「見りゃわかるだろ」とか、それだけ言う。
その短い言葉が、かえって胸に刺さる。
子どものころから、私は父が苦手でした。
嫌い、ではなかったと思います。
でも苦手でした。
何を考えているのか、よくわからなかったからです。
母が生きていたころは、母がその間をつないでくれました。
父が無口なぶん、母がよく喋る人だった。
「お父さん、あんたの通知表見て嬉しそうだったよ」
「口では言わんけど、あの人なりに心配してるのよ」
そうやって、父の沈黙に勝手に字幕をつけてくれていた。
母が亡くなってから、家の中は急に不親切になりました。
食卓はあるのに、会話がない。
味噌汁の湯気だけがのぼって、向かいに座る父は黙って飯を食う。
私も黙って食う。
同じ箸の音だけが、妙に大きく聞こえる。
そのころからだったと思います。
私は父に対して、先に腹を立てるようになりました。
どうせ言ってもわからない。
向こうも、どうせ何も言わない。
そう思うと、まだ言われてもいないことに、勝手に棘を立てるようになる。
親子というのは不思議なもので、ほんとうは甘えている相手にほど、ひどい言い方をします。
私もそうでした。
工場に入ったとき、父は何も言いませんでした。
反対も、賛成もなかった。
ただ、私の作業台の位置を一度見て、「怪我だけはするな」と言っただけです。
私は、その言い方が気に入りませんでした。
普通なら、頑張れとか、困ったら聞けとか、あるだろうと思ったのです。
怪我だけはするな、なんて、まるでそれ以外はどうでもいいみたいじゃないか。
いまならわかります。
あれは、父にとっていちばん切実な願い方だったのです。
でも当時の私は、そんなことを考えるほど大人ではありませんでした。
父は現場で、私に特別やさしくすることもありませんでした。
むしろ他の人より少し厳しかったかもしれない。
私が溶接を失敗すれば、「そこ、見えてねえのか」と言う。
段取りが悪ければ、「次、考えろ」と言う。
一方で、他の若い連中には、「最初はそんなもんだ」と笑ってやることもある。
私はそれがたまらなく悔しかった。
家でも工場でも、父にだけはいつまでたっても一人前として扱われない気がしたのです。
ある日のことでした。
部品の角を仕上げるグラインダー作業で、私は指先を少し切りました。
大した怪我ではありませんでした。
血もすぐ止まった。
けれど父は、離れた持ち場から私の手元を見ていたらしく、休憩に入るなり言いました。
「だから怪我だけはするなって言ったろ」
私はその瞬間、まるで失敗そのものより先に責められた気がして、ひどく腹が立ちました。
「わざとじゃねえよ」
父は黙りました。
その黙り方が、また私を苛立たせた。
ほんとうは心配だったのかもしれない。
でも私には、そのときただ、上から見下ろされた気しかしなかったのです。
そういう小さな棘が、何年も積もっていました。
ある冬の昼休み、休憩室で父と二人きりになったことがありました。
古いストーブが赤く鳴っていて、窓は半分曇っていました。
他の連中は先に持ち場へ戻っていて、テーブルには弁当箱が二つ、向かい合わせに置かれていた。
父の弁当箱はアルミの古いもので、角がへこんでいました。
母が生きていたころから使っている、見慣れた弁当箱でした。
蓋の隅に、昔こぼれた醤油の染みみたいな薄い色が残っている。
私はそれを見るたび、母の台所を思い出しました。
父はその日、珍しく私に話しかけました。
「このごろ、残業続きか」
たったそれだけのことでした。
でも私は疲れていたのでしょう。
そのやさしさとも言えない、ぶっきらぼうな気遣いの言い方が、妙に癇に障ったのです。
「見ればわかるだろ」
私は箸を置きもせずに言いました。
父は黙っていました。
それで私は、さらに嫌な言い方をしました。
「心配するふりするなら、もう少しまともな言い方すれば」
言った瞬間に、まずいと思いました。
でも、いちど口から出た棘は、もう戻りません。
父はしばらく弁当箱を見ていました。
それから、「ふりじゃねえよ」とだけ言いました。
静かな声でした。
怒鳴りもしない、そのぶん、ひどく冷たい声に聞こえました。
私は、負けたくなくて、言い返してしまいました。
「じゃあ何だよ」
父はそこで黙りました。
黙ったまま弁当箱の蓋を閉めて、立ち上がって、先に休憩室を出ていった。
テーブルの上に、味のしみた卵焼きの匂いだけが残った。
私は、あのとき追いかければよかったのだと思います。
せめて「悪かった」と一言言えば、それで済んだのかもしれない。
でも私は若かったし、意地もありました。
謝るくらいなら、このまま気まずいほうがましだと思ったのです。
それから父とは、ますます話さなくなりました。
仕事の連絡だけはする。
「次、資材入るぞ」
「検品、終わった」
「フォーク使うぞ」
そういう言葉は交わす。
でも、それ以外はない。
家でも同じでした。
食卓で向かい合っても、テレビの音だけが間にあった。
母がいたころの家は、こんなに寒かっただろうかと、春になっても思っていました。
その年の六月、父が工場で倒れました。
大きな事故ではありませんでした。
胸を押さえてうずくまり、そのまま救急車で運ばれた。
心筋梗塞でした。
処置が早かったので命は助かりましたが、しばらく入院することになりました。
私は病院へ通いました。
長男だから、というのもあります。
でも本当は、それだけではありませんでした。
もう取り返しのつかないことになるのが怖かったのです。
病室の父は、工場にいるときよりずっと小さく見えました。
点滴の管が腕からのび、病衣の胸がゆっくり上下している。
あの父が、という驚きと、結局この人も年を取るのだという当たり前の事実が、うまく胸の中で噛み合いませんでした。
私は見舞いに行っても、たいしたことは話せませんでした。
「医者、何て」
「別に」
「飯、食えてる」
「まあな」
その程度です。
まるで、工場の騒音がなくなっても、私たちのあいだの不器用さだけはそのまま病室に持ち込まれたみたいでした。
ある日、看護師さんに頼まれて、父の工場のロッカーから着替えを持ってくることになりました。
父のロッカーを開けるのは、初めてでした。
作業着の替え。
軍手。
古いタオル。
飴の袋。
湿布。
その下に、見慣れたアルミの弁当箱がありました。
洗っていないわけではないのに、なんとなく父の昼休みの匂いが残っている気がした。
私はそれを取り上げ、何気なく蓋を開けました。
中は空でした。
けれど、底の隅に、小さく折った紙が入っていました。
メモでした。
工場で使う伝票の裏を切ったような、白い小さな紙。
そこに父の字で、短くこう書いてあったのです。
『昼 言いすぎた』
私はその場で動けなくなりました。
メモはそれだけではありませんでした。
裏にもう少しだけ、続きがあった。
『あいつ 残業つづきで顔色が悪い』
『弁当食う量も減った』
『何か言うと刺さる』
『どう言えばいいかわからん』
私は、ロッカーの前でしゃがみこんでしまいました。
その紙切れが、ひどく重かった。
さらに下のほうに、書き足すみたいに、もう一行。
『せめて昼は食え』
私はその字を見て、息が詰まりました。
父は、あの昼休みのあと、自分の弁当箱にこんなメモを入れていたのです。
誰に見せるためでもなく。
たぶん、自分の言えなかったことを、自分で忘れないために。
あるいは、いつか渡そうとして渡せなかったのかもしれない。
父は父で、わからなかったのでしょう。
どう言えば、私に刺さらずに済むのかが。
私はそのとき初めて、父の不器用さを、自分の不器用さと同じ種類のものとして見ました。
怒りっぽいとか、偉そうとか、そういうのではなかった。
ただ、言いたい本音ほど、口から出るときに別の形になってしまう人だったのです。
心配は小言みたいになり、気遣いは命令みたいになり、愛情は無愛想に見える。
それは、私自身がいちばんよく知っている失敗の形でした。
私はメモを持って病院へ行きました。
でも、病室の前で長く立ち止まりました。
これを見せてどうする。
泣くのか。
謝るのか。
笑うのか。
わからなかった。
三十を過ぎた男が、父親相手にそんなことも決められずに、白い廊下で立ち尽くしていたのです。
結局、病室に入ると、父は窓の外を見ていました。
雨が降っていました。
私はいつものように、ぶっきらぼうに言いました。
「着替え、持ってきた」
父は「そこ置いとけ」と言った。
それで終わるはずでした。
でも私は、その日は帰れませんでした。
鞄からメモを出して、父のベッドの横に置いたのです。
父はそれを見て、少しだけ目を細めました。
私は言いました。
「弁当箱に入れっぱなしだった」
父はすぐには何も言いませんでした。
私は、笑うしかありませんでした。
「こういうの、言えばいいだろ」
言いながら、もう声が少しおかしくなっていました。
「俺だって……あの日、悪かったよ」
父は天井を見たまま、長く黙っていました。
それから、ひどく小さな声で言いました。
「おまえも、言えねえからな」
私はそこで、たまらなくなってしまいました。
泣くつもりなんてなかったのに、涙だけが先に出た。
情けない顔を見られたくなくて下を向くと、父がかすれた声で言いました。
「弁当、減ってたのは気づいてた」
「母さんいたら、うるさかったろうな」
その「母さん」が出た瞬間、私たちのあいだで長いこと凍っていたものが、少しだけゆるんだ気がしました。
私はそこで初めて、父と二人で母の不在を同じように抱えていたのだと知りました。
言わなかっただけで。
退院してから、父と私は急に仲のいい親子になったわけではありません。
そんな都合のいい話ではない。
相変わらず、会話は少ないです。
工場でも家でも、必要以上に喋ることはない。
でも、昼休みだけは、たまに同じ休憩室で弁当を広げるようになりました。
父は相変わらず、古いアルミの弁当箱を使っています。
私は母が生きていたころのように、少しだけ量を多めに詰めるようになりました。
ある日、私が弁当箱を開けると、白いご飯の上に梅干しがひとつ乗っていて、その横に小さなメモがありました。
『昼は食え』
私は思わず笑ってしまいました。
見ると、向かいの父は何でもない顔で味噌汁をすすっている。
その不器用さが、いまは少しありがたいのです。
私も、その日、空になった弁当箱の底にメモを一枚入れました。
工場で使う伝票の裏に、たった一行だけ。
『残業の日は先に寝てていい』
帰宅して台所を見ると、そのメモは食器棚の上に置かれていました。
返事はありませんでした。
でも次の朝、父の弁当箱には、少し大きめの卵焼きが入っていました。
たぶん、あれが返事だったのだと思います。
約束、というほど立派なものではありません。
けれど私たちは、言えなかった本音を、これからは弁当箱の底で渡していこうと、どこかで決めたのです。
工場の昼休みは短い。
ストーブの音。
弁当の蓋を開ける音。
遠くで機械の止まる気配。
そのわずかな静けさの中で、私はときどき思います。
親子というのは、わかり合うものではなく、わからなさを抱えたまま、それでも手渡しを続ける関係なのかもしれない、と。
今日も昼になれば、私は休憩室で弁当箱を開けます。
もしそこに何も入っていなくても、もう前ほど寂しくはありません。
言えなかった本音が、たしかに一度、あの小さなメモになって届いたことを、私は知っているからです。
そしてそのことを知ってからは、鉄の匂いばかりだった工場の昼休みにも、ほんの少しだけ、人の暮らしの温度が戻ってきた気がするのです。




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