山あいの町というのは、夕方が早いのです。
四時を過ぎると、もう光の脚が短くなって、坂道の端から順に影が伸びてくる。
屋根の上で冷えた風がひとつ鳴ると、町は急に口数を減らします。
私はその町で、郵便配達員をしています。
赤いバイクにまたがって、細い坂道をのぼり、表札の薄れた家や、門柱に蔦のからんだ家や、犬のよく吠える家を一軒ずつ回る。
人の暮らしというものは、たいてい玄関先に少しだけこぼれています。
濡れた傘。
干し忘れた雑巾。
植木鉢の向き。
新聞のたまり具合。
ポストに手を入れるたび、私は他人の人生の、ほんの紙一枚ぶんの重さに触れている気がします。
もっとも、そんなふうに殊勝なことを考えるようになったのは、最近のことです。
若いころの私は、郵便などただの荷物だと思っていました。
遅れず、間違えず、濡らさずに届ける。
それで十分だと。
人の気持ちまで運んでいる、などという考えは、正直、少し気障に思えていたのです。
そういう可愛げのない男でしたから、祖母に対しても、ろくに優しくありませんでした。
祖母は町はずれの古い家に、一人で住んでいました。
黒い瓦の、小さな庭のある家でした。
春には沈丁花が匂い、秋には柿が実る。
冬の朝には、縁側のガラスが白く曇る。
私は子どものころ、その家が好きでした。
学校帰りに寄ると、祖母はたいてい台所で湯を沸かしていて、丸い缶から煎餅を出し、私のランドセルを見て「今日も重たそうだねえ」と言った。
あのころの私は、祖母のことを世界でいちばん自分を甘やかしてくれる人間だと思っていました。
けれど、人は大人になると、やさしさの受け取り方がひどく下手になります。
私は高校を出てすぐ郵便局に就職しました。
父は早くに亡くなっていて、母は体が弱かったので、祖母はそのぶんまで私のことを気にかけました。
「寒い日は首を巻きなさい」
「ちゃんと食べてるの」
「夜道は気をつけなさい」
たぶん、それはただの心配だったのでしょう。
でも当時の私には、それが小言にしか聞こえませんでした。
自分の暮らしで手いっぱいな年頃でしたし、何より私は、人から案じられるのが嫌いでした。
弱い人間だと思われるようで、妙に腹が立ったのです。
祖母は手紙を書くのが好きな人でした。
いまどき珍しいくらい、きちんと便箋を選び、万年筆で、ゆっくり字を書く。
相手が近所の人でも、礼を言うときは小さな封筒に一筆入れる。
年賀状にも、印刷だけでは済ませず、必ず余白にひとこと足す。
私にも、よく手紙をよこしました。
といっても、大仰なものではありません。
「庭の椿が咲きました」とか。
「筍をもらったので煮ています」とか。
「このごろ顔を見ないから、たまには寄りなさい」とか。
そういう、用事とも言えない用事ばかりでした。
私はそれを、読むのも面倒で、机の隅に積んでいました。
返事を書いたことは、たしか一度もありません。
会えば済むと思っていたのです。
いや、本当は、返事を書かなければならないようなやさしさが、少し鬱陶しかったのかもしれません。
返事を書けば、自分も同じ温度で返さなければならない。
そのことが、若い私には窮屈だったのです。
いちど、祖母とひどくすれ違ったことがあります。
冬のはじめでした。
私は繁忙期で、毎日くたくたでした。
年末が近づくと、郵便局は急にせわしなくなります。
書留。
荷物。
転居届。
不在票。
年賀状の受付。
そういうもので、頭の中はいつも半分ちぎれた紙みたいに散らかっていた。
その日も、冷たい雨の中を走り回って、ようやく仕事を終えた帰りでした。
祖母の家の前を通りかかると、障子越しに明かりがついていたので、顔だけ出そうと思ったのです。
玄関を開けると、祖母はひどく嬉しそうにして、「ちょうどよかった」と言いました。
茶の間の机の上に、白い便箋が一枚置いてありました。
「これ、清書してほしいの」
祖母は少し照れたように言いました。
聞けば、昔世話になった恩人の娘さんが亡くなり、その弔事の手紙を書きたいのだが、どうも文がまとまらないという。
祖母は字はきれいでしたが、改まった文章になると妙に気後れする人でした。
「あなた、学校で作文が上手だったでしょう」
そう言って笑う。
私はそのとき、どうしてあんな言い方をしたのか、いまでもわかりません。
疲れていたのです。
それは本当です。
でも、疲れていたからといって、何を言ってもよい理由にはならない。
私は濡れた上着も脱がないまま、机の便箋を見て言いました。
「そんなの、自分で書けばいいじゃん」
祖母は少し黙りました。
私は止まりませんでした。
「こっちだって毎日忙しいんだよ」
「手紙手紙って、そんな暇じゃないんだよ」
言い終えたあと、部屋が急に静かになったのを覚えています。
雨の音だけが、台所の窓のあたりで細く鳴っていた。
祖母は「そうだねえ」と言って、便箋を二つ折りにしました。
怒りもしない。
責めもしない。
ただ、こちらを困らせまいとするみたいに、小さく笑った。
その笑い方が、あとになって何度も胸に刺さることになります。
結局、私は茶も飲まずに帰りました。
背中に祖母の視線を感じた気がしましたが、振り向きませんでした。
祖母からの手紙は、それから少し減りました。
来なくなったわけではない。
でも前より短くなった。
「寒くなりました」
「風邪をひかないように」
「また顔を見せてください」
そういう、天気予報みたいな言葉ばかりになりました。
私はそれを、かえって都合よく受け取っていました。
祖母も年を取ったのだろう。
こちらに気を遣うようになったのだろう、と。
自分が遠ざけたのだとは、考えないようにしていたのです。
その冬の終わり、祖母は倒れました。
脳出血でした。
発見が少し遅れ、病院へ運ばれたときには、もう言葉がほとんど出ませんでした。
私は見舞いに通いました。
といっても、立派な孫の顔で通ったわけではありません。
ただ、行かなければもっと自分が嫌になると思ったからです。
病室で祖母は、私の顔を見ると少しだけ目を細めました。
何か言いたそうに唇を動かすのに、うまく音にならない。
私は「無理しなくていいよ」と言いました。
あれも、親切そうでいて、実は逃げた言葉だったのかもしれません。
聞くのが怖かったのです。
祖母が何を言おうとしていたのかを、きちんと受け止めるのが。
祖母は私の制服の胸元を見ました。
郵便局の徽章に目を止め、それから、かすかに笑った。
その笑いに、私は妙に救われた気になってしまいました。
まだ嫌われてはいないのだ、と。
ほんとうは、許されたのではなく、許そうとしてもらっていただけかもしれないのに。
結局、祖母は春を待たずに亡くなりました。
葬儀の日、山あいの町には薄い雪が降りました。
積もるほどではない、すぐに消えてしまう雪でした。
棺の中の祖母の顔は、ひどく小さく見えました。
私は焼香のあいだじゅう、あの冬の日の便箋のことを考えていました。
どうして、あんな言い方をしたのだろう。
せめて五分、座って聞けばよかったのに。
せめて、あとで書いて持ってくるよ、と言えばよかったのに。
けれど、こういう後悔は、たいてい相手がもう聞けないところへ行ってから、やけにはっきりした形を持つものです。
祖母の家を片づけたのは、四十九日を過ぎてからでした。
押し入れの中には古い座布団や、客用の湯のみや、黄ばんだ風呂敷がきちんとしまわれていました。
台所の戸棚には、もう使われることのない梅干しの瓶や、茶葉の缶がそのまま残っていた。
暮らしというものは、人がいなくなってもしばらくは、その人の形をしたまま部屋に留まるのだと、そのとき知りました。
私は母と一緒に、茶箪笥や引き出しを開け、いるものといらないものを分けていきました。
その途中で、机のいちばん下の引き出しから、細い箱が出てきました。
便箋の箱でした。
季節の花が薄く印刷された、あの祖母らしい趣味の箱です。
中には、使いかけの便箋と、いくつかの封筒、それから紐でゆるく束ねられた手紙が入っていました。
私宛でした。
投函されなかった手紙です。
封もされていないものが多く、日付だけが右上に小さく書かれていた。
私はその場で一通だけ開きました。
『忙しいのに呼びとめてごめんね』
最初の一行が、それでした。
私はその字を見た瞬間に、もうだめでした。
続きには、こう書いてありました。
『あの日、頼みたかったのは、手紙の文ではありません』
『字が見えづらくなって、便箋の折り方もうまくいかなくなって、少し心細かっただけです』
『あなたが座ってくれたら、それでよかったの』
私は畳の上にしゃがみこんで、しばらく動けませんでした。
手紙はまだありました。
別の日付のものには、こう書かれていた。
『返事はいりません』
『配る人は、返すのが苦手になるのかもしれませんね』
そこに、小さな笑いの気配があって、私は余計につらくなりました。
祖母は責めていなかった。
責める代わりに、わかろうとしていたのです。
私の不器用さも、忙しさも、その奥にある余裕のなさまで。
さらに別の一通には、あの冬の日の白い便箋のことが出てきました。
『あの手紙は、結局短いものを自分で出しました』
『でも本当は、あなたの字で一行だけ「お悔やみ申し上げます」と書いてほしかったの』
『あなたの字は、昔から、きっぱりしていて好きでした』
私は、そこで声を上げて泣いてしまいました。
そんなことだったのです。
祖母が欲しかったのは、立派な文章でも、便利な代筆でもなかった。
私の字で一行。
それだけでよかった。
私はその一行すら惜しんで、忙しい顔をして、祖母の小さな願いを踏みつけた。
箱の底には、最後の一通がありました。
便箋は一枚だけで、他のものより新しい日付でした。
祖母が倒れる三日前の日付でした。
『いつかあなたが、だれかに手紙を届ける日のことを考えます』
『郵便はふしぎですね』
『紙なのに、会えない人の手になる』
『だから、ありがとうは、遅れて届いても、届くのだと思います』
『私はあなたに、ありがとうがたくさんあります』
『おつかれさまも、きをつけて、も、ほんとうは全部ありがとうでした』
その先は、少し字が乱れていました。
『うまく言えなくてごめんね』
『あなたが配る手紙の中に、だれかの遅い感謝もあるのでしょう』
『そのときは、どうか大事に運んでください』
私は便箋を握ったまま、長いこと泣きました。
遅い感謝。
その言葉が、胸のいちばん痛いところへ、静かに落ちてきたのです。
祖母は、私に感謝していた。
あんな孫に。
ろくに返事もせず、頼みをはねつけ、忙しいを楯にして逃げた私に。
それでも、ありがとうを書いていた。
しかも、その感謝を、私がいつか受け取る日のことまで考えていた。
あれから私は、配達の途中でときどき便箋の重さを考えるようになりました。
薄い紙一枚が、誰かにとっては言いそびれた一生分の気持ちかもしれない。
謝れなかったことかもしれない。
会えなくなった人への遅すぎる礼かもしれない。
ある雨の日、宛名が少しにじんだ封筒をポストに入れながら、私はふと思いました。
この中にも、誰かの「もっと早く言えばよかった」が入っているのかもしれない、と。
そう考えるようになってから、私は郵便を前より少しだけ丁寧に持つようになりました。
速さや正確さはもちろん大事です。
でも、それだけでは足りないのだと、祖母は死んでから教えてきた。
死んでから、というのが、なんともあの人らしくて、私はたまに腹が立ちます。
先日、町はずれの家で、一人暮らしの老人が私に言いました。
「手紙なんて古いねえ。でも、電話じゃ言えんことがあるから」
私は思わず、「そうですね」と答えました。
その返事は、たぶん祖母に向かって言ったものでもありました。
春の終わりごろ、私は休みの日に祖母の墓へ行きました。
山あいの風はまだ少し冷たく、線香の煙が細く流れました。
私は便箋を一枚持って行きました。
配達に使うものではない、白くて、何の飾りもない便箋でした。
墓前の石に膝をついて、ゆっくり書きました。
『あの日は、ごめん』
『手紙の文じゃなくて、あなたが心細かったのだと、やっとわかりました』
『ありがとうを、遅れて受け取りました』
『遅すぎたけれど、届きました』
そして最後に、少し迷って、こう書きました。
『いまは、便箋を前より大事に運んでいます』
風が吹いて、紙の端が少し震えました。
返事はもちろんありません。
けれど、その沈黙は、昔ほど冷たくありませんでした。
山の向こうに夕方の光が落ちて、町はまた少し口数を減らしていく。
私はその中で、ようやく思うのです。
感謝というものは、早く届くに越したことはない。
けれど遅くても、届いたほうが、届かないよりずっといい。
祖母はそれを、手紙で私に教えたのだと思います。
だから今日も私は、坂道の多いこの町をバイクで走りながら、鞄の中の便箋たちを少しだけ丁寧に抱えるのです。
そのどれかに、まだ誰にも言えていない「ありがとう」が入っている気がしてならないからです。




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