【泣ける話】父が踏切に残した最後の切符|記憶違いに隠された約束

Twilight railway crossing with magical glow 家族の話

父は、よく間違える人だった。

いや、そう思っていた。

遠足の日、弁当を持たせるのを忘れた。

中学の入学式の日には、学校名を間違えて、隣町の中学校へ行った。

高校の卒業式の日には、式が終わってから花束を持って現れ、

「少し早く着きすぎたな」

と言った。

早いどころか、もう誰もいなかった。

校門の前で、私は花束を受け取らなかった。

父は困ったように笑い、

「すまん。記憶違いだった」

と言った。

私は、その言葉が嫌いだった。

記憶違い。

便利な言葉だと思った。

忘れたのではない。

間違えただけだ。

そう言えば、少しだけ罪が軽くなる。

子どもの私は、父に何度も置いていかれたような気がしていた。

だから駅員になったのかもしれない。

時刻表は嘘をつかない。

切符には行き先がある。

落とし物には番号がつけられ、持ち主を待つ場所がある。

駅には、父のような曖昧さがなかった。

少なくとも私は、そう信じたかった。

私の勤める駅のすぐ先に、小さな踏切がある。

古い商店街の端にあり、朝は学生の自転車が鳴り、夕方は買い物袋を提げた老人たちがゆっくり渡る。

父は晩年、その踏切をよく渡っていたらしい。

らしい、というのは、私はその頃、父とほとんど会っていなかったからだ。

母が亡くなってから、父は一人で古い家に残った。

私は何度か同居を勧めた。

父はそのたびに、

「駅の音が聞こえる場所がいい」

と言った。

私はそれを、ただの頑固だと思っていた。

踏切の警報音。

夜更けの電車。

遠くで鳴る発車ベル。

そんなものを聞いて何になるのかと、内心では呆れていた。

父からの電話は、いつも短かった。

「今度、飯でも食うか」

「今忙しい」

「そうか」

それだけだった。

父は私を責めなかった。

責められないことが、人をいちばん惨めにすることを、私はその頃まだ知らなかった。

ある冬の朝、父はその踏切の近くで倒れた。

遮断機が降りる少し前だったという。

近くの豆腐屋の主人が見つけ、救急車を呼んでくれた。

命に別状はなかった。

ただ、それから父の記憶は少しずつほどけていった。

病室の父は、私を見るなり言った。

「駅員さん、すみません」

私は息を飲んだ。

「俺だよ。健司だよ」

父はしばらく私の顔を見つめていた。

それから、いつものように困った顔で笑った。

「そうか。すまん。記憶違いだった」

胸の奥に、古い怒りが戻ってきた。

またそれか、と思った。

父が私を忘れていくことより、またその言葉で逃げることが許せなかった。

私は病室の窓の外を見た。

遠くに線路が見えた。

踏切の警報音が、かすかに聞こえた。

父はその音に耳を傾けるように、目を閉じていた。

退院後、父は施設に入った。

私は仕事を理由に、あまり面会へ行かなかった。

忙しかったのは事実だ。

けれど、それは半分だけの事実だった。

もう半分は、父に忘れられるのが怖かった。

父の口から、

「どちらさまですか」

と聞くくらいなら、こちらから遠ざかるほうがましだと思った。

ひどい息子だった。

けれど、ひどい息子ほど、自分のひどさに名前をつけるのがうまい。

私はそれを、仕事と呼んだ。

父が亡くなったのは、春の終わりだった。

桜はもう散って、駅前の植え込みには薄い緑が戻っていた。

葬儀は小さく済ませた。

親戚も少なかった。

私は喪服のまま駅に戻り、休憩室の隅で香典返しの数を数えていた。

そこへ、落とし物係の後輩がやってきた。

「先輩、これ……たぶん、お父さんのものじゃないですか」

差し出されたのは、小さな封筒だった。

茶色く古びていて、駅の落とし物タグがついていた。

拾得場所。

踏切脇。

拾得日。

父が倒れた日。

私は、その文字を見たまま動けなくなった。

封筒の中には、古い切符が一枚入っていた。

今ではほとんど見かけない、厚い紙の切符だった。

行き先は、隣町の駅。

日付は、私が小学四年生だった年の夏。

裏には、父の字で短く書かれていた。

「次は、必ず一緒に行く」

私は意味がわからなかった。

わからないふりをしたかった。

けれど、指先が先に思い出していた。

小学四年の夏休み。

父は私を、隣町の小さな遊園地へ連れていく約束をしていた。

私は朝から玄関に座っていた。

リュックには水筒を入れた。

母が握ってくれたおにぎりも入れた。

財布には、父が前日にくれた小遣いを入れた。

玄関の外では、蝉が鳴いていた。

私は何度も時計を見た。

父は帰ってこなかった。

夕方になって、母が、

「今日はもうやめようか」

と言った。

私は首を振った。

夜になって、父は作業着のまま帰ってきた。

顔には油の汚れがついていた。

父は私を見るなり、

「すまん。記憶違いだった」

と言った。

私はその日、泣かなかった。

泣いたら、父が許される気がしたからだ。

それ以来、私は父と約束をしなくなった。

封筒を持ったまま、私は実家へ向かった。

父の机は、まだそのまま残っていた。

引き出しを開けると、古い手帳が出てきた。

父らしい、曲がった字で予定が書かれていた。

病院。

買い物。

母の墓参り。

その中に、何度も同じ言葉があった。

「踏切まで歩く」

「駅へ行く」

「切符を返す」

ページをめくる手が震えた。

最後のほうのページに、私の名前があった。

「健司と約束」

その下に、震えた字で、

「遊園地。切符。謝る」

と書いてあった。

私は机の奥を探した。

古い封筒。

黄ばんだ新聞の切り抜き。

そこには、父の勤め先で起きた事故の記事が挟まれていた。

日付は、あの夏の日だった。

工場で同僚が機械に挟まれ、父が救助にあたったと書かれていた。

救急隊が来るまで、父はずっと声をかけ続けたらしい。

父は、私との約束を忘れたのではなかった。

帰れなかったのだ。

そして、言い訳をしなかった。

「人を助けていた」

そう言えば、私は父を責められなかったかもしれない。

でも父は、それを言わなかった。

小学生の私に、血や事故の話を聞かせたくなかったのか。

自分を立派に見せたくなかったのか。

それとも、どんな理由があっても、約束を破ったことに変わりはないと思ったのか。

父はただ、

「記憶違いだった」

という情けない言葉を選んだ。

自分だけが悪者になるために。

私は畳の上に座り込んだ。

古い切符を握ると、紙の角が指に食い込んだ。

父は、ずっと持っていた。

私が捨てたつもりの約束を、父だけが拾い続けていた。

記憶が薄れていく最後の日々にも、あの踏切まで歩いていた。

駅へ行こうとしていたのだ。

私に返そうとしていたのだ。

遅すぎた切符を。

落とし物タグのついた封筒を胸に入れたまま、私は翌朝、踏切へ行った。

始発から少し経った時間だった。

商店街のシャッターはまだ半分閉まっていて、豆腐屋の白い湯気だけが路地に出ていた。

遮断機が上がる。

レールの上に、朝の光が細く落ちていた。

私は踏切の前に立ち、父に話しかけた。

「父さん」

声が震えた。

「俺のほうこそ、記憶違いしてたよ」

遠くから電車が近づいてきた。

風が先に来て、線路脇の草を揺らした。

「忘れられてたと思ってた」

警報音が鳴り出した。

赤い光が交互に点滅する。

「でも、違ったんだな」

電車が通り過ぎた。

窓に一瞬、駅員の制服を着た私が映った。

父に似た、疲れた顔だった。

私は泣きながら、少しだけ笑った。

踏切が静かになってから、私は封筒の落とし物タグを外した。

番号も、日付も、場所も、もういらなかった。

これはもう落とし物ではない。

持ち主は、見つかったのだ。

その日から、私は駅の落とし物を少し丁寧に扱うようになった。

片方だけの手袋。

古い傘。

名前の消えかけた学生証。

子どもの小さな靴。

誰かにとっては、ただの物ではないかもしれない。

言えなかった謝罪かもしれない。

渡せなかった約束かもしれない。

取り戻すのを、長いあいだ待っている記憶かもしれない。

夕方、駅の改札近くで、小さな男の子が泣いていた。

切符を握りしめたまま、母親とはぐれたらしい。

私はしゃがんで、目線を合わせた。

「大丈夫。ちゃんと待っていれば、迎えに来るよ」

男の子は涙をこぼしながら、うなずいた。

その声が、少し父に似ていることに気づいた。

昔なら嫌だったかもしれない。

けれど、その日は嫌ではなかった。

しばらくして、母親が駆け寄ってきた。

男の子は切符を握ったまま、母親に抱きついた。

私はその背中を見送りながら、胸ポケットの封筒にそっと触れた。

父さん。

次は、必ず一緒に行く。

その約束は、もう果たせない。

けれど、約束というものは、果たすためだけにあるのではないのかもしれない。

人が人を忘れないために。

間違えた記憶を、もう一度やさしく持ち直すために。

胸の中で鳴り続ける、小さな踏切の音。

それが、約束なのだと思う。

今でも私は、勤務明けにあの踏切を渡る。

電車が過ぎるのを待ちながら、古い切符のことを思う。

遮断機が上がると、私は心の中で父に言う。

行こうか、父さん。

今度は、ゆっくりでいいから。

そして私は、誰もいない朝の踏切を渡る。

父と並んで歩いているような、少しだけ不思議な歩幅で。

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