【泣ける話】タクシー運転手の息子が聞いた父の留守電|古い携帯に残された最後の言葉

幻想的な港町の夕暮れ 家族の話

私は、港町でタクシーを走らせている。

朝は市場へ向かう魚屋を乗せ、昼は病院帰りの年寄りを乗せ、夜は飲み屋街から家へ帰る人を乗せる。

人を運ぶ仕事だ。

けれど私は、人の気持ちを運ぶのは下手だった。

後部座席で泣いている人がいても、ミラー越しに見るだけで、何も言えない。

「大丈夫ですか」

その一言が、喉の奥でいつも止まる。

私はたぶん、父に似たのだ。

言いたいことほど、うまく言えない。

父も、港で働く人だった。

若い頃は漁船に乗り、年を取ってからは市場で荷下ろしを手伝っていた。

潮の匂いと煙草の匂いが、父の服にはいつも染みついていた。

父は言い方のきつい人だった。

「泣く暇があるなら動け」

「男なら黙ってやれ」

「甘えるな」

私はその言葉が嫌いだった。

本当は、褒めてほしかった。

小学校の頃、初めて自転車に乗れた日もそうだった。

港の倉庫裏の広い道で、私は何度も転んだ。

膝から血が出て、泣きそうになった。

父は遠くで腕を組んで、

「前を見ろ」

とだけ言った。

私は腹が立って、泣きながらペダルを踏んだ。

やっと十メートルほど走れたとき、私は父のほうを見た。

父は笑わなかった。

ただ、

「ブレーキを先に覚えろ」

と言った。

その言葉を、私は長く恨んだ。

乗れたことより、止まることを言う人。

喜びより先に、危ないことを言う人。

父とは、そういう人だった。

タクシー会社に採用された日も、私は少し期待していた。

「仕事、決まった」

父は古い携帯を開き、画面も見ずに言った。

「客を乗せる仕事か」

「うん」

「事故だけはするなよ。人の命を預かるんやから」

それだけだった。

おめでとうも、よかったなも、なかった。

私は腹が立って、

「そんなこと分かってる」

と言った。

父は私を見ずに、

「分かっとる顔のやつが、一番危ない」

と言った。

その一言で、私は父から目をそらした。

父はいつもそうだった。

心配の形をして、私を責める。

私はそう思っていた。

父の古い携帯は、折りたたみ式だった。

もう誰も使っていないような、小さな銀色の携帯。

画面には傷があり、ボタンの数字は少し薄くなっていた。

私が何度も、

「スマホに変えたら」

と言っても、父は首を振った。

「これでええ」

「使いにくいでしょ」

「声が聞ければええ」

父らしい答えだった。

短くて、不愛想で、そのくせ少しだけ寂しい。

私はそれを、聞こえないふりをした。

父は、私のタクシーに一度も乗らなかった。

「乗ればいいのに」

私が言うと、

「歩ける」

と答えた。

「港まで遠いでしょ」

「まだ足はある」

その言い方が、私はまた嫌だった。

頼られたいわけではない。

けれど、まるで私の仕事を信用していないように聞こえた。

私は父の前では、いつも子どもに戻った。

ハンドルを握って人を運んでいるのに、父の前ではまだ、膝をすりむいたままブレーキを怒られている子どもだった。

ある冬の夜、父から電話があった。

私は駅前で客待ちをしていた。

画面に父の名前が出た。

出ようか迷った。

そのとき、酔った客がドアを叩いた。

「空いてる?」

私は電話を切った。

あとでかけ直せばいい。

そう思った。

客は港の近くの飲み屋街までだった。

車内には酒と海風の匂いが混ざっていた。

客は後部座席で、

「親父と喧嘩してさ」

と急に話し始めた。

私は、

「そうですか」

とだけ答えた。

客は笑った。

「運転手さん、聞き上手だね」

私は苦笑した。

聞き上手なのではない。

返す言葉を持っていないだけだ。

仕事が終わったのは夜中だった。

携帯を見ると、父から留守電が一件入っていた。

私は聞かなかった。

どうせ、

「いつ帰る」

とか、

「車に気をつけろ」

とか、

そういう短い小言だと思った。

翌朝、父が倒れたと連絡があった。

港の倉庫の前だった。

病院へ駆けつけると、父は白いベッドに横たわっていた。

意識はあったが、声は弱かった。

「昨日、電話した」

父はかすれた声で言った。

「ごめん。仕事中で」

「仕事ならええ」

その言い方が、私は嫌だった。

まただ、と思った。

また、私が悪いみたいに言う。

「言いたいことがあるなら、今言ってよ」

父は少し目を閉じた。

「もうええ」

「もうええって何」

「運転、気をつけろ」

私は思わず笑ってしまった。

笑うところではなかった。

でも、出たのは笑いだった。

「結局それ? 倒れてまで小言?」

父の顔が、少しだけ歪んだ。

「小言やない」

「じゃあ何」

父は答えなかった。

それが、父との最後の会話になった。

父は三日後に亡くなった。

最後まで、私に優しい言葉をくれることはなかった。

私はそう思っていた。

葬儀のあと、父の部屋を片づけた。

タンスの上に、古い携帯が置いてあった。

充電器につながれたまま、静かに光っていた。

私は何気なく開いた。

留守電のランプが点滅していた。

あの夜の留守電だった。

聞くのが怖かった。

また小言なら、私は父を嫌いなままでいられる。

でも、違ったら。

違ったら、私は何を恨めばいいのだろう。

震える指で、再生ボタンを押した。

雑音のあと、父の声が流れた。

「……おう。仕事中か」

港の風の音が入っていた。

「今日は寒いな。道路、凍っとるかもしれん」

私は唇を噛んだ。

やっぱり小言だ。

そう思った。

けれど、父の声は続いた。

「お前がタクシー乗っとるの、こないだ市場の前で見た」

少し間があった。

「背中、よう似合っとった」

私は息を止めた。

「人を乗せて走るってのは、えらい仕事や。わしにはできん。海の上なら多少荒れても自分で踏ん張れる。でも車は違う。人の命を後ろに乗せて、黙って前を見る仕事や」

父の声が、少し揺れた。

「お前は昔から、迷子の子を家まで連れていくような子やったからな」

私は思い出した。

小学生の頃、泣いていた近所の子を家まで送ったことがあった。

私は忘れていた。

父は見ていたのだ。

「言い方が悪くて、すまん。事故するな、しか言えん。ほんとは、ようやっとるって言いたかった」

涙が落ちた。

携帯を握る手に力が入った。

「自転車のときも、そうや。乗れたのは見えとった。うれしかった。でも転ぶのが怖くて、ブレーキのことしか言えんかった」

私はそこで、声を出して泣いた。

父の言葉は、いつも喜びより先に危険を見ていた。

私を信じていなかったのではない。

私を失うことを怖がっていたのだ。

「今度、休みの日に、港まで乗せてくれ。客として乗る。料金は払う」

父はそこで小さく笑った。

聞いたことのない、照れた笑いだった。

「お前の運転で、海を見に行きたい」

留守電は、そこで切れた。

私は畳の上に座り込んだ。

声が出なかった。

父は、私を責めていたのではなかった。

ただ、心配の言い方を知らなかっただけだった。

褒め方を知らなかっただけだった。

私は父の言葉を、ずっと冷たいものとして受け取っていた。

でもその奥に、海みたいに不器用な愛情があった。

大きいくせに、近づくとしょっぱくて、うまく飲めない愛情が。

数日後、私は父の古い携帯を持ってタクシーに乗った。

休みの日だった。

助手席に、携帯を置いた。

父を乗せるみたいに。

私は港へ向かった。

冬の海は鈍い銀色で、波止場には白い波が砕けていた。

市場の前で車を止めた。

メーターは倒さなかった。

父ならきっと、

「客扱いせんか」

と言っただろう。

私は少し笑って、泣いた。

「着いたよ」

誰もいない助手席に言った。

「海、見えるよ」

風がフロントガラスを鳴らした。

父の携帯は、黙ってそこにあった。

私は、あの頃の自転車のことを思い出した。

乗れた私を、父は褒めなかった。

でも遠くで、転んだときにすぐ走れる距離にいた。

私はずっと、父が遠くにいると思っていた。

本当は、近すぎて分からなかっただけなのかもしれない。

私はもう一度、留守電を再生した。

「お前の運転で、海を見に行きたい」

その声を聞きながら、私はようやく父と和解した気がした。

父に謝ることはできない。

父から謝ってもらうことも、もうできない。

でも、和解というのは、同じ場所に生きている人間だけのものではないのかもしれない。

残された声を、違う耳で聞き直すこと。

冷たいと思っていた言葉の中から、遅れて届いた温度を拾うこと。

それも、和解なのだと思う。

今も私は、港町でタクシーを走らせている。

夜、酔った客が後部座席で眠ることがある。

病院帰りの老人が、黙って海を見ていることがある。

家出でもしたのか、若い子が行き先を言えずに座り込むこともある。

そんなとき私は、少しだけ速度を落とす。

人はみんな、どこかへ帰る途中なのだ。

父の古い携帯は、運転席の小物入れに入れてある。

もう通話はできない。

けれど、留守電だけは残っている。

仕事で疲れた夜、私は港に車を停めて、その声を聞く。

「ようやっとる」

本当はそう言いたかった父の声を。

そして私は、誰も乗っていない助手席に向かって、小さく言う。

「父さん、今日も無事故やったよ」

海の向こうから、短く不器用な返事が返ってくる気がする。

「分かっとる」

今度はその言葉を、ちゃんと優しさとして受け取れる。

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