祖母の財布に残った八十六円

静かな夕暮れの小道 家族の話

祖母の財布を拾ったのは、閉店前の値引きシールを貼り終えたあとだった。

総菜売り場の隅に、茶色い財布が落ちていた。

角は白く剝げ、壊れた留め具には赤い糸が巻かれている。

見間違えるはずがなかった。

祖母の財布だった。

中に入っていたのは、十円玉が八枚、一円玉が六枚。

合わせて八十六円。

あとは団地の部屋番号を書いた紙と、私が勤めるスーパーのポイントカードだけだった。

私は財布を閉じた。

祖母の貧しさを見てしまった気がして、恥ずかしかった。

だが、ほんとうに貧しさを隠していたのは、私のほうだった。

     *

離婚して故郷へ戻ったのは、三年前である。

私は祖母と同じ団地の四階に部屋を借り、駅前のスーパーで働き始めた。

祖母には正社員になったと言っていた。

実際は半年ごとに契約を更新するパートだった。

元夫と暮らしていたころの借金も残っていた。

家賃を二か月滞納し、電気料金の督促状を流し台の下へ隠した。

貧乏には、つまらない見栄がある。

腹が減っていても、「大丈夫」と笑ってしまう。

その笑顔だけは無料なので、私はずいぶん使った。

祖母は夕方になると、私のレジへ来た。

豆腐、もやし、見切り品の魚。

「また安いものばかり」

私が言うと、祖母は笑った。

「高いものは、値段まで食べにゃならんからね」

ある日、会計が百二十七円足りなかった。

後ろには客が並んでいた。

私はポケットから小銭を出し、

「ちゃんと確かめてきてよ」

と、わざと冷たい声で言った。

祖母は何度も頭を下げた。

その夜、祖母は五千円の入った封筒を持ってきた。

「この前の分。それと、靴を買いなさい。底が剝がれとる」

私は封筒を押し返した。

「年金暮らしの人から、もらえるわけないでしょう」

「でも、あんた……」

「かわいそうだと思ってるの?」

祖母は口を閉じた。

翌朝、私は穴のあいた靴で、雨上がりの道を歩いた。

靴下は濡れたが、私の見栄は濡れなかった。

実に丈夫なものだった。

     *

拾った財布を返そうとした翌朝、祖母は団地の階段で倒れた。

軽い脳梗塞だった。

命に別状はないと聞き、私はようやく息を吐いた。

入院の手続きに通帳が必要になり、祖母の部屋へ戻った。

箪笥の二段目、古い茶筒の奥に、二冊の通帳があった。

一冊は年金用だった。

残高は少なかった。

もう一冊には、私の幼いころの呼び名が鉛筆で書かれていた。

十年以上前から、毎月千円、二千円と入金されている。

祖母が風邪をひいた月は入金がない。

給湯器を直した月も途切れている。

それでも翌月には、また千円が積まれていた。

最後のページには、十八万円の引き出しがあった。

通帳と一緒に、団地の管理事務所の領収書が挟まっていた。

私が滞納していた家賃、十八万円。

祖母は、私の玄関に落ちていた督促状を見つけていたのだ。

通帳の余白に、震える字が残っていた。

「この子が小学生のとき、毎月五百円ずつくれた。

ばあちゃん、老後に使って、と言った。

使えずに貯めた。

いま返す」

私は、その場に座り込んだ。

思い出した。

祖母の誕生日に、菓子箱へ五百円玉を入れて渡したこと。

祖母は泣きながら、両手で受け取ってくれた。

私はとうに忘れていた。

祖母は十年以上、忘れずに持っていた。

机の上には、私が突き返した五千円の封筒もあった。

表に一言だけ書かれていた。

「受け取ってもらうのは、むずかしい」

     *

祖母が目を覚ました夕方、私は病室へ財布と封筒を持っていった。

「ばあちゃん」

祖母がゆっくりこちらを向いた。

「このお金、受け取るね」

祖母の眉が、かすかに動いた。

「かわいそうだからくれたんじゃないって、分かった」

私は封筒を両手で受け取った。

昔、祖母が私の五百円玉を受け取ってくれたように。

「ありがとう」

祖母の目から涙が流れた。

私は財布からハンカチを探したが、入っていたのは八十六円だけだった。

仕方なく袖で拭くと、祖母は声を立てずに笑った。

     *

春、祖母は杖をついて団地へ戻った。

私の借金は残っている。

仕事もパートのままだ。

人生は、涙を流したくらいでは親切にならない。

ただ私は、「大丈夫」と言う回数を減らした。

五千円で、新しい黒い靴を買った。

最初の給料日、その靴で祖母の部屋へ行き、茶色い財布へ五百円玉を入れた。

祖母は怒った。

「返さんでいい」

「返してないよ」

私は財布を祖母の手へ戻した。

「また預けるだけ」

祖母はしばらく五百円玉を見つめていた。

やがて、壊れた留め具を赤い糸で結び直した。

窓の外では、団地の桜が一輪だけ咲いていた。

受け取れなかった愛情は、消えてしまったのではない。

受け取り方を知らず、手の中から落としていただけなのだ。

私はいま、それを拾い直している。

八十六円しか入っていなかった、祖母の財布から。

コメント

タイトルとURLをコピーしました