私は、山のふもとの町でバス運転士をしている。
朝は学生を駅まで送り、昼は病院へ行く年寄りを乗せ、夕方には買い物袋を抱えた人たちを住宅地へ帰す。
同じ道を、何度も走る。
右に曲がる場所も、坂の手前で揺れる段差も、雨の日に滑りやすい白線も、体が覚えている。
人を運ぶ仕事だ。
けれど私は、自分がどこへ向かっているのか、長いあいだ分からなかった。
高校時代、私はよく遅刻した。
家が遠かったのもある。
けれど本当は、朝が怖かった。
教室へ入る瞬間の視線。
机に座るまでの数秒。
誰も何も言わないのに、自分だけが責められている気がした。
だから私は、一本、また一本とバスを見送った。
バス停のベンチに座っていると、町は静かだった。
通勤の車が坂を下り、パン屋のシャッターが上がり、遠くで踏切が鳴る。
みんなそれぞれの場所へ向かっている。
それなのに私だけが、同じ場所で止まっていた。
止まっている自分を見られるのが嫌で、私は時刻表を見るふりをした。
そんな私を、いつも学校前のバス停で待っていたのが、恩師の河野先生だった。
先生は生活指導の担当で、灰色のコートを着て、古い手帳を持っていた。
「また遅刻か」
声は厳しかった。
私はうつむいて、
「すみません」
と答えた。
先生はため息をつき、
「約束を守れない人間は、信用されんぞ」
と言った。
私はその言葉が嫌いだった。
約束を破りたくて破っているわけではない。
ただ、朝の教室が怖かった。
でもそれを言葉にするほど、私は自分を信じていなかった。
ある雪の日、私はまたバス停に立ち尽くしていた。
学校へ行くバスは、もう三本も過ぎていた。
雪は横から吹いて、定期券を持つ指が赤くなっていた。
そこへ先生が来た。
「乗らんのか」
私は何も言えなかった。
先生は少し黙ってから、私の隣に立った。
「次のバスに乗れ」
「無理です」
「無理でも乗れ」
その言い方で、私は泣きそうになった。
先生は何も分かっていない。
そう思った。
バスが来た。
ドアが開き、暖房の匂いが流れてきた。
私は足が動かなかった。
先生は私の定期券を見て言った。
「これは、逃げるための券じゃない。行き直すための券だ」
私はその言葉を、叱責として受け取った。
先生は私を弱い人間だと思っている。
そう決めつけた。
結局その日、私は学校へ行かなかった。
バスが去ったあと、先生は何も言わず、私と一緒にしばらく雪の中に立っていた。
私はその沈黙さえ責められているように感じた。
翌日、先生に定期券を渡された。
どこで拾ったのか、昨日のバス停に落としていたらしい。
「忘れるな」
先生はそう言った。
私は、
「分かってます」
と冷たく返した。
でも、分かってなどいなかった。
先生が何を忘れるなと言ったのか。
私はずっと、定期券のことだと思っていた。
その後、先生は毎朝バス停に来た。
毎日ではない。
でも、私が遅れそうな朝に限って、灰色のコートがそこにあった。
私はそれが嫌だった。
見張られていると思った。
期待されているのではなく、疑われているのだと思った。
ある朝、私は先生に言った。
「そんなに信用できないなら、もうほっといてください」
先生は少しだけ目を細めた。
「信用していないなら、待たん」
その言葉の意味も、私は受け取らなかった。
受け取ってしまえば、先生が自分を見捨てていないことを認めなければならない。
見捨てられたと思っているほうが、楽だったのだ。
卒業式の日、先生は私に言った。
「いつか、誰かを乗せる側になれ」
私は意味が分からなかった。
その言葉も、私は忘れた。
いや、忘れたことにした。
大人になって、私はいくつかの仕事を転々とした。
工場。
倉庫。
配送。
どれも長く続かなかった。
朝になると、胸の奥に高校時代のバス停が戻ってくる。
乗ればいい。
行けばいい。
みんなできている。
そう自分に言い聞かせるほど、足が重くなった。
最後に受けたのが、地元のバス会社だった。
面接で志望動機を聞かれ、私はうまく答えられなかった。
「昔、バスに乗れない時期がありました」
口から、そんな言葉が出た。
面接官は少し驚いた顔をした。
私は続けた。
「だから、乗れない人を急かさない運転士になりたいです」
言ってから、恥ずかしくなった。
でも、それが本音だった。
大型二種免許を取るのは大変だった。
何度も落ちた。
そのたびに、先生の声が頭の奥で鳴った。
約束を守れない人間は、信用されんぞ。
私はその声に腹を立てながら、もう一度試験を受けた。
合格した日、私はなぜか学校前のバス停へ行った。
ベンチは新しくなっていた。
時刻表も変わっていた。
けれど、雪の日の寒さだけは、まだそこに残っている気がした。
私はそこで、ようやく思い出した。
「いつか、誰かを乗せる側になれ」
あの言葉を。
けれどすぐに、思い出さなかったことにした。
先生の言葉に導かれたみたいで、悔しかったのだ。
私は、相変わらず小さかった。
数年後、河野先生が亡くなったと聞いた。
知らせてくれたのは、同級生だった。
葬儀には行けなかった。
その日はどうしても勤務を代われなかった。
先生らしいな、と少し思った。
最後まで、私をバスから降ろしてくれない。
そんな皮肉なことを考えて、自分の小ささに嫌になった。
数日後、学校から連絡があった。
先生が私宛てに残したものがあるという。
封筒の中には、古い定期券が入っていた。
高校時代の私のものだった。
角は擦り切れ、写真の私は、ひどく不安そうな顔をしていた。
その裏に、小さな文字があった。
「次のバスに乗る」
私は息を止めた。
私の字ではなかった。
先生の字だった。
封筒には、小さな録音機も入っていた。
先生が晩年、家族に頼んで録音したものらしい。
私は夜、営業所の休憩室で再生した。
雑音のあと、先生の声が流れた。
昔より少し弱い声だった。
「君は、あの日のことをまだ怒っているかもしれない」
私は動けなくなった。
「私は、君に厳しく言いすぎた。約束を守れと言ったが、本当は分かっていた。君は約束を破ったのではなく、朝を越える力が足りなかっただけだ」
涙が、膝に落ちた。
「定期券を拾った日、裏に『次のバスに乗る』と書いた。君に渡そうと思った。だが渡せなかった。押しつけになると思った」
先生の声が少し途切れた。
「私は君を叱りたかったのではない。次がある、と言いたかった」
私は、定期券を握りしめた。
「人は一本逃しても、終わりではない。次の便が来る。その次も来る。だが、待っているだけでは乗れない。誰かが隣に立ってやらねばならない時がある」
休憩室の蛍光灯が、白く滲んだ。
「君がバス運転士になったと聞いた。うれしかった。あのバス停で立ち止まっていた君が、今は誰かを乗せている。それは、とても立派なことだ」
私は声を出して泣いた。
先生は続けた。
「君は、卒業の日の言葉を忘れているかもしれない。いや、忘れたことにしているかもしれない」
私は息を止めた。
先生には、分かっていたのだ。
私が忘れたふりをしていたことまで。
「それでもいい。人は、受け取れる時になってから受け取ればいい。もし君のバスに、乗るのを迷っている子がいたら、どうか急かさず待ってやってほしい。次のバスに乗る力は、人から少し借りてもいいのだと、伝えてやってほしい」
録音は、そこで終わった。
私は長いあいだ、先生の言葉を間違って覚えていた。
約束を守れ。
逃げるな。
無理でも乗れ。
その全部を、冷たい命令として胸にしまっていた。
でも本当は、先生は私の隣で、次のバスを待ってくれていたのだ。
翌朝、私は始発の運転をした。
学校前のバス停に、一人の学生が立っていた。
乗ろうとして、やめる。
一歩出して、また下がる。
昔の私みたいだった。
私はドアを開けたまま、少し待った。
後ろの車がいないことを確認して、マイクを入れた。
「ゆっくりでいいですよ」
学生は驚いた顔をした。
そして、うつむいたまま乗ってきた。
定期券を出す手が震えていた。
読み取り機にうまく当たらず、エラー音が鳴った。
学生の肩がびくりとした。
私はすぐに言った。
「大丈夫です。もう一回でいいです」
その子は小さくうなずいた。
二度目で、機械が短く鳴った。
私は何も言わず、軽くうなずいた。
バスを発車させるとき、胸ポケットの中で、古い定期券が少し揺れた。
その日、終点近くで学生が降りるとき、小さな声で言った。
「ありがとうございました」
私は、
「いってらっしゃい」
と返した。
口にしたあと、自分で驚いた。
先生が、あの雪の日に本当は言いたかったのは、それだったのかもしれない。
いってらっしゃい。
次の場所へ。
何度遅れても。
今も私は、同じ道を走っている。
雨の日も、雪の日も。
乗る人。
降りる人。
間に合う人。
間に合わなかった人。
その全員を、できるだけ静かに運ぶ。
先生の録音機は、家の引き出しにしまってある。
でも声は、もうそこにだけあるわけではない。
バス停で迷う誰かを待つたび、私の中で再生される。
次のバスに乗ればいい。
その言葉を、私は今度こそ、誰かへ渡していく。
定期券の裏に残った約束は、もう私だけのものではない。
朝のバスが坂を下る。
窓の外で、学校前のバス停が小さく遠ざかる。
私はハンドルを握り直し、胸の中で先生に言う。
今日も、ひとり乗せました。
先生の返事はない。
けれどバックミラーの中で、空になったバス停が、少しだけ明るく見えた。
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