雨の日の路地には、昔のことがよく落ちている。
水たまりに映る電線。
軒下でしぼんだ紫陽花。
商店街の裏口から流れてくる油の匂い。
私は中学校の教師になって十年になるが、雨の帰り道だけは、どうしても十八歳の自分に戻ってしまう。
あの頃の私は、母に進路を黙っていた。
教師になりたい、と言えなかった。
母は女手ひとつで私を育ててくれた。
朝はスーパーの品出し。
昼は弁当工場。
夜は商店街の小さな食堂。
そんな母に向かって、「大学に行きたい」などと、どうして言えただろう。
いや、こう言えば少しは聞こえがいい。
本当は違う。
私は、断られるのが怖かったのだ。
「うちにそんなお金はない」と言われるのが怖かった。
母の現実的な一言で、私の小さな夢が壊されるのが怖かった。
だから私は黙った。
奨学金の書類も、教育学部の願書も、全部ひとりで出した。
母は何度か聞いた。
「進路、どうするの」
私はそのたびに、「まだ決めてない」と答えた。
嘘をつくたび、母の顔を見るのが嫌になった。
母を悲しませているのではなく、母に縛られているのだと思いたかった。
なんという卑怯な息子だろう。
合格通知が届いた日、母は台所のテーブルに置かれた封筒を見つけた。
「何これ」
「大学、受かった」
母は封筒を見たまま、しばらく黙った。
そして、低い声で言った。
「どうして黙ってたの」
その言い方が、私には責めているように聞こえた。
私はすぐ身構えた。
「言ったって反対しただろ」
「そんなこと言ってない」
「言わなくても分かるよ」
「達也」
「金がないって顔、ずっとしてたじゃないか」
母の顔が、一瞬だけ白くなった。
今なら分かる。
あれは怒りではなかった。
傷ついた顔だった。
けれど当時の私は、自分の弱さを守るためなら、母の傷など見えないふりができた。
「好きにしなさい」
母はそう言った。
それだけだった。
私はその言葉を、突き放されたのだと思った。
祝ってもらえなかった。
応援してもらえなかった。
母は私の夢など、どうでもいいのだ。
そう決めつけた。
実に都合のいい孤独である。
愛されていないと思えば、自分が母を信じなかった罪から逃げられる。
大学へ出発する前の夜、雨が降っていた。
私は荷物をまとめ、母が食堂から帰る前に家を出た。
駅へ向かう途中、商店街の裏の細い路地で、母が立っていた。
黒い傘を持っていた。
私が子どもの頃から使っていた、骨の少し曲がった傘だった。
「駅まで、送る」
母はそう言った。
「いい」
「傘、持っていきなさい」
「いらない」
「濡れるよ」
その言い方が、また嫌だった。
心配ではなく、私が頼りないと言われているように聞こえた。
私は母の横をすり抜けた。
母は追ってこなかった。
路地の奥で、雨が傘を叩く音だけがした。
それが、母と最後にまともに向き合った夜だった。
母は、私が大学二年の春に倒れた。
無理がたたったのだと、親戚は言った。
私は病室へ駆けつけたが、母はもう長く話せなかった。
「先生に、なれそう」
かすれた声で、母はそれだけ聞いた。
私はうなずいた。
ありがとうも、ごめんも言えなかった。
人間は本当に大事な言葉ほど、喉の奥で役立たずになる。
母はその年の梅雨入り前に亡くなった。
それから私は教師になった。
中学校で国語を教え、進路指導も受け持つようになった。
皮肉なものだと思う。
親に進路を言えなかった私が、今は子どもたちに「家の人とよく話しなさい」と言っている。
ある雨の日、三年生の美咲が進路希望調査を白紙で出した。
「まだ決まってないのか」
そう聞くと、美咲は小さく首を振った。
「決まってます」
「じゃあ、どうして書かない」
「お母さんに言ってません」
胸の奥が、嫌な音を立てた。
「反対されると思うのか」
美咲はうなずいた。
「お金がかかるから」
私は、十八歳の自分を見ている気がした。
放課後、美咲が帰ったあと、私は職員室で進路希望調査を見つめていた。
窓の外では、細い雨が降っていた。
ふと思い立って、私は机の引き出しから古いスマートフォンを取り出した。
母の遺品だった。
何年も電源を入れていなかった。
充電器につなぐと、しばらくして画面がぼんやり光った。
メールアプリの下書きに、一通だけ未送信メールが残っていた。
宛先は、私だった。
件名はなかった。
本文は、短かった。
達也へ。
大学合格おめでとう。
本当は、すぐ言いたかった。
でも、どうして黙っていたのかと思ったら、悲しくて、うまく言えませんでした。
お金の心配をさせたくなかったのに、あなたに心配させていたんだね。
ごめんね。
教師になりたいと知って、うれしかった。
あなたは小さい頃から、泣いている子の隣に座れる子でした。
きっと、いい先生になります。
出発の日、傘を渡したかった。
雨に濡れないように、ではありません。
ひとりで行く道にも、母さんの心配が一本くらいあっていいと思ったからです。
でも、渡せませんでした。
あなたが振り返らなかったから。
振り返らなくていいです。
行きなさい。
母さんは、路地のここで見送っています。
私は画面を握ったまま、職員室で泣いた。
声を出さないように、口を押さえた。
母は、私を突き放したのではなかった。
私の出発を、雨の路地で見送っていたのだ。
私がいらないと言った傘を持ったまま。
翌日、私は美咲と母親を進路室に呼んだ。
美咲は何度も言葉を詰まらせた。
けれど、最後まで言った。
「看護の学校に行きたい」
母親はしばらく黙っていた。
美咲の顔がこわばった。
私は何も言わなかった。
余計な言葉を足さないことが、時には一番の助けになる。
やがて母親は、小さく息を吐いた。
「どうして黙ってたの」
その声は、責めているようで、泣いているようでもあった。
美咲は泣いた。
母親も泣いた。
私はその二人を見ながら、母の傘のことを思った。
帰り道、雨が降っていた。
私は職員室の傘立てから、母の黒い傘を取った。
骨は少し曲がっている。
布もところどころ色あせている。
けれど、開くとまだ雨を受け止めた。
商店街の裏の路地を通ると、水たまりに街灯がにじんでいた。
あの日の母が、まだそこに立っている気がした。
母さん。
俺、やっと分かったよ。
出発って、ひとりで遠くへ行くことじゃなかった。
誰かに見送られていたと、あとから知ることだったんだね。
返事はなかった。
ただ、傘の内側で雨音がやさしく丸くなった。
私はその音を聞きながら、学校へ戻った。
明日も、誰かが自分の道を言い出せるように。
そして、誰かが黙って差し出した傘に、いつか気づけるように。
雨の路地を抜けると、駅の明かりが見えた。
私はもう、あの夜の少年ではなかった。
けれど、あの夜の少年を、少しだけ連れて歩いている。
それでいいのだと思った。
人は誰かに見送られた記憶を持っていれば、遅れてでも、出発できる。



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