「約束、あさってだぞ」
受話器の向こうで佐伯さんが言った。私は灯台の窓にこびりついた塩を爪で掻きながら、何の約束です、と答えた。
沈黙が三秒ほどあった。
「忘れたなら、いい」
人は本当に怒ると声を荒らげない。私は十九の頃から、それを佐伯さんに教わっていた。教員ではない。港町のスーパーの店長で、朝五時から青果を並べ、値札の曲がりを犯罪のように憎んだ人である。私に働き方を教えたから、勝手に先生と呼んでいる。本人は迷惑そうだった。人の顔を見るのがつらいなら海を見ろ、と、灯台の求人に丸をつけたのも佐伯さんである。
電話を切ってから、机の引き出しを探した。
海図の下から、町の地図が出てきた。折り目は白く、スーパーから岬まで赤鉛筆の線が引いてある。余白に佐伯さんの字で、
《定年の日、朝五時。もう一度だけ品出し》
日付は、あさってだった。
私は佐伯さんの前で泣いたことがない。十九で何もかも嫌になった朝も、灯台の採用が決まった夕方も、泣けば負けるような顔をしていた。せめて最後の日くらい、その勘定を間違えてみたいとは思った。
忘れていたのは約束だけではない。働くことを、私は近頃、少し忘れていた。
灯台は自動になった。私の役目はレンズを磨き、発電機を点検し、記録簿に異常なしと書くことだ。船から礼を言われることはない。礼を言われない仕事こそ立派だ、などと胸を張れればよいが、私はそこまで出来た人間ではない。誰にも見えないなら、私まで見なくてよい気がして、点検表の丸だけが日に日に上手になった。
*
定年の日、午前四時五十分。
スーパーは朝霧の底に沈んでいた。自動ドアは眠ったままで、従業員口から消毒液の匂いが流れてきた。鼻の奥がつんとした。十九歳の私が、寝癖を帽子に押し込んでここへ逃げてきた朝と、同じ匂いだった。
「遅い。九分前だ」
佐伯さんは野菜の箱を抱えていた。髪は白くなったが、値札を見る目つきはまだ警察犬である。
「九分も前です」
「おまえにしては、な」
笑わなかった。
私は六年前にも一度、この町へ戻っていた。店の裏口まで来て、私のものと同じ型の青い前掛けを若い店員が締めているのを見た。佐伯さんはその若者に、台車は音を立てるな、と教えていた。私を待ってはいなかったのだと思い、声をかけずに帰った。
あのときの私は、空席を用意して待たれることを期待していたらしい。ずいぶん偉い灯台である。
私たちは黙って牛乳を並べた。紙パックの角を棚の線に揃える。佐伯さんは一本だけ引っ込んだ牛乳を、指先で前へ出した。
消毒液の匂い。台車の車輪。冷蔵ケースの低い唸り。
「灯台、辞めるのか」
「辞めません」
「では、その顔は何だ」
「生まれつきです」
佐伯さんは笑いかけて、やめた。
朝霧が晴れたら、岬へ戻るつもりだった。九時の保守船に乗れば、昼の点検に間に合う。私は腕時計を何度も見た。約束を果たしたという形だけ持ち帰ればよい。人間は、形さえ整えば、たいてい逃げられる。
*
「古い布巾を取ってこい。奥の棚だ」
倉庫の棚に、薄い菓子箱があった。蓋には私の名が書かれている。
中には私の青い前掛け、刃の欠けたカッター、百円で買った白いマグカップ。それから、手元のものと対になる地図が入っていた。
こちらの地図には、私のものより書き込みが多い。初出勤、初遅刻、初めて一人で発注した日。灯台の採用試験の日には二重丸がつき、その先も毎年、定年の日まで細い線が延びていた。前掛けのポケットには、折った品出し表があり、十九歳の私の汚い字で《牛乳は右から古い順》と書いてあった。
「捨ててなかったんですか」
「捨てる理由がない」
「代わりは、いたでしょう」
「代わりは要る。場所は空けない。だが朝の最初の三十分だけは、手順を変えなかった」
佐伯さんはカッターの錆を親指でこすった。
「いつ戻っても、おまえが困らんようにな」
消毒液の匂いがした。
私はそれを鼻のせいにした。目まで痛くなるのは、少し製品として強すぎるのではないか。
佐伯さんは青い前掛けを私に差し出した。
「開店まで手伝え。終わったら、総菜のパンを食え。餞別だ」
「船が」
「そうか」
手を引っ込めようとした。
私は親切を受け取るのが苦手だ。礼を言う仕事まで増えるからである。
私はその手から前掛けを受け取った。
布は洗剤の匂いがして、紐だけが昔より柔らかかった。私は携帯を出し、岬の同僚に電話した。昼の点検を頼み、戻りを午後の便に変えた。予定を崩すと胸の中がざらつく。だが、そのざらつきを、今日は罰にしないことにした。
前掛けの紐を結ぶ手が震えた。
「先生」
「店では店長だ」
「今日で違うでしょう」
その先が言えなかった。ありがとうという五文字は、重い荷物を運ぶより難しい。
佐伯さんは私の胸の名札をまっすぐにし、いつものように言った。
「牛乳が一本、引っ込んでる」
私は泣きながら、それを前へ出した。
*
開店の音楽が鳴る頃、霧は薄くなった。
焼きたてのパンを半分ずつ食べた。佐伯さんは定年後の話をせず、私は灯台へ戻る話をしなかった。白いマグカップの縁に、朝の光が細く溜まっていた。
それから私は、灯台の東窓を朝だけ開けるようになった。
塩が入るから、前は閉め切っていた窓である。開ければ掃除が一つ増える。まことに愚かな改善だ。
けれど霧の朝、窓から冷たい風が入り、机の書き込みだらけの地図をかすかに鳴らす。私はレンズを磨き、発電機の音を聞き、まだ見えない船のために灯りを確かめる。
誰かが帰る日、困らないように。
朝の海には、消毒液に似た、少しだけ目にしみる匂いがある。



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