【泣ける短編】訪問看護師の娘が父から預かった合鍵

雪夜の廊下と、帰りを待つ鍵 泣ける話

父の部屋の鍵を開けたのは、二度ある。

一度目は、訪問看護師として。

二度目は、娘としてだった。

父と再会したのは、築四十年を超えるアパートの玄関だった。

私が母の旧姓を名乗っていたため、事業所の誰も、父と私が親子だとは気づかなかった。

新規利用者の書類には、慢性心不全、独居、身寄りなし、と記されていた。

錆びた外階段を上り、呼び鈴を押した。

しばらくして扉を開けた痩せた老人を見て、私は息を止めた。

父だった。

父も私に気づいた。

それでも、こう尋ねた。

「看護師さん、ですか」

「そうです」

私は他人のふりをした。

親子とは不思議なものである。

二十年も会わなければ他人になれると思っていたのに、憎しみだけは昨日別れたばかりのように新しかった。

父は古いアパートの二階で、一人暮らしをしていた。

玄関の壁紙は剝がれ、窓の隙間から冬の風が入った。

部屋にあるのは、低い食卓と布団、欠けた湯飲みが一つ。

家族の気配だけが、きれいに欠けていた。

父は私が九歳のときに家を出た。

酒と借金で母を苦しめ、最後には逃げた。

玄関で靴を履く父に、私は尋ねた。

「帰ってくるよね」

父は鍵を下駄箱の上へ置き、私の頭を一度だけ撫でた。

「お前は強いから、大丈夫だ」

それが答えだった。

私は強くなどなかった。

ただ、泣いても帰ってこない人のために泣くことを、やめただけだった。

初回訪問のあと、私は上司へ事情を話し、担当変更を申し出た。

上司はうなずいたが、私は父の浮腫んだ足と、冷蔵庫に残された半分の豆腐を思い出した。

父は看護そのものを断ろうとしていた。

「知らない人を、もう家に入れたくない」と言ったらしい。

私は迷った末、上司と訪問内容を共有することを条件に、担当を続けることにした。

許したわけではない。

看護師として放っておけないだけだ。

そう自分に言い聞かせた。

毎週火曜日、私は父の部屋を訪ねた。

血圧を測り、薬を確認し、塩分の多い総菜を捨てた。

父は私を「看護師さん」と呼び、私は父を名字で呼んだ。

私たちは親子であることを避けながら、親子にしか分からない沈黙の中にいた。

ある日、父は真鍮の鍵を一本、私に差し出した。

赤い毛糸が結ばれた、部屋の合鍵だった。

「呼び鈴に出られんときのために、預かってくれんか」

独居患者の合鍵は、事業所の規則に従って保管する。

私は鍵を専用の袋へ入れようとした。

「お前が持っていてくれ」

「私物としては預かれません」

「家の鍵を渡せる相手が、ほかにおらん」

その言葉に、私は腹を立てた。

自分から家族を捨てた人が、今になって家族のようなことを言う。

「私は仕事で来ているだけです」

父は鍵を握ったまま、うつむいた。

「そうやったな」

父に期待させないための言葉だった。

いずれ訪問が終われば、私はまたこの部屋からいなくなる。

けれど私の気遣いは、父に残された場所を、さらに狭くしただけだった。

翌週、父はあんパンを二つ用意していた。

「食べんか」

「勤務中です」

「昔は好きやったろ」

私は答えなかった。

父が私の好物を覚えていたことが、うれしくて、腹立たしかった。

帰り際、父が尋ねた。

「来週も来るか」

「予定どおりなら」

「そうか」

父は少し笑った。

私は「また来ます」と言えなかった。

その夜、雪が降った。

翌朝、父へ電話をかけても応答がないと、事業所から連絡が入った。

保管していた合鍵を持ち、私はアパートへ走った。

鍵穴へ差し込む手が震えた。

父は布団のそばに倒れていた。

意識はなく、呼吸は浅かった。

救急車を呼び、処置をしながら、私は何度も名字で呼びかけた。

それでも「お父さん」とだけは、どうしても呼べなかった。

搬送後、薬を確認するため部屋へ戻った。

食卓には、手つかずのあんパンが二つと、小さなメモが置かれていた。

震えた字で、こう書かれていた。

《看護師さんへ》

《鍵を預けたかったのは、倒れたときのためだけではありません》

《誰かがこの部屋へ帰ってくると思いたかったのです》

《あの日、お前は強いから大丈夫だと言いました》

《本当は、強くなかったのは父さんのほうでした》

《酒も借金も、逃げたことも、言い訳はできません》

《許してくれとは書けません》

《ただ、毎週火曜日がうれしかった》

《お前が帰るたび、「また来る」と言ってほしかった》

《私も一度だけ、「おかえり」と言いたかった》

私はメモを握り、食卓に顔を伏せた。

言えなかった言葉は、なくなるのではない。

胸の底に沈み、言える相手を失いかけたとき、いちばん鮮明に浮かび上がる。

私は二十年分の「お父さん」を、誰もいない部屋で何度も呼んだ。

父は一命を取り留めた。

病院で目を覚ました父の手を、私は握った。

「来週の火曜日、また行くから」

父の指が、わずかに動いた。

「今度は勤務じゃない。あんパンを食べに行く」

酸素マスクの下で、父の唇が震えた。

退院した父の部屋を訪ねたのは、よく晴れた火曜日だった。

私は合鍵で扉を開けた。

古い床が、小さく鳴った。

父は食卓の前に座り、あんパンを二つ並べて待っていた。

私は玄関に立ったまま、しばらく言えずにいた。

それから、ようやく口にした。

「ただいま」

父は泣きそうな顔で笑った。

「おかえり」

私は合鍵を食卓へ置こうとした。

父は首を振った。

「持っていてくれんか」

私は赤い毛糸のついた鍵を、自分のキーケースへしまった。

来週も、この扉を開ける。

その次の火曜日も。

今度こそ、「また来る」と言葉にした約束を守るために。

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