「捨てるなら、今日ですね」
佐伯さんが、流し台の下から一本のお玉を引っぱり出した。
柄の木は黒ずみ、先端の金属には小さなへこみが幾つもある。持ち手の裏には、針で引っかいたようなMの字が残っていた。
「それは捨てないで」
思ったより大きな声が出た。自分でも驚くほどだった。人間というものは、十年間も平然と忘れたふりをしておきながら、お玉一本に正体を暴かれる。
町立みどり小学校の調理室は、その日の給食を最後に閉じられる。翌月からは共同調理場に変わり、使える器具は運び、古いものは処分することになっていた。
お玉は、十年前までここで働いていた宮田真弓のものだった。
前の晩、真弓から短い連絡が来ていた。
〈学校の調理室、閉じるんだってね。私の物が残っていたら、捨ててください。明日の夕方、町を出ます〉
十年ぶりの言葉が「捨ててください」なのは、いかにも私たちらしかった。
最後の献立は、鶏肉の照り焼き、青菜のごま和え、野菜スープ、麦ご飯。
朝六時十分、換気扇が唸り、包丁がまな板を叩き始めた。私は見つけたお玉でスープを混ぜた。鍋の縁に触れるたび、からん、と乾いた音がした。
十年前も、同じ音を聞いていた。
あの日は、百六十人分のコーンスープを焦がした。焦げた甘い匂いが換気扇でも消えず、急きょ献立を変えた。私は真弓と、片づけが終わったら二人で主任に謝ろうと約束した。
ところが、真弓は一人で調理室を出た。
戻ってきた彼女に何を話したのか尋ねても、「もう済んだ」としか言わなかった。翌週には仕事を辞め、その月のうちに町からもいなくなった。
「約束しただろう」
最後に会った駅前で、私は怒鳴った。
「約束より、残る人のほうが大事なこともある」
「格好をつけるな。自分だけ逃げるくせに」
真弓の顔から、何かが静かに引いていった。潮なら、また戻っただろう。彼女は戻らなかった。
十一時四十分。スープを味見すると、昆布の匂いの奥に玉ねぎの甘さがあった。私は火を止め、空になったお玉を握った。
本当の理由を聞きたい。
その願いを十年も腹の底で飼いながら、私は一度も尋ねなかった。傷つけられた側という席は、座り心地こそ悪いが、立たなくて済む。
私は真弓に返信した。
〈四時二十分、学校の裏門で待っています。渡す物があります〉
返事は、給食の食缶が戻るころに来た。
〈五分だけなら〉
返ってきた食缶は、どれも軽かった。六年生の一人が廊下から調理室へ向かって、「今まで、ごちそうさまでした」と声を張った。姿は見えなかった。私は濡れた手をエプロンで拭き、誰もいない窓へ頭を下げた。
最後の床を磨き、ガス栓を二度確かめる。時刻は四時十五分だった。
裏門には、紺色の旅行鞄を引いた真弓がいた。髪が短くなったほかは、腹が立つほど変わっていなかった。
「五分だけって、面会みたいだな」
「十年会わなかった人には長いでしょう」
私は布巾に包んだお玉を差し出した。
「これを使っていた日のことを聞きたい。どうして一人で主任のところへ行った」
真弓は受け取らず、お玉のへこみを見た。
「あの日、火を弱め忘れたのは、あなたよ」
「違う。火の前にいたのは真弓だった」
「私、右手首に白いサポーターを巻いていた。この重いお玉を持てなくて、あなたに代わってもらったの」
白い布。蒸気で濡れた端。真弓が左手で玉ねぎを押さえていた姿。
記憶は音もなく裏返った。お玉を握っていたのは、私だった。
真弓は、私の契約更新が取り消されないよう、自分が火を見ていたと主任に話したのだという。彼女は夫の転勤で辞めることが決まっていた。私が知れば、一緒に謝ると言い張る。それで何も言わなかった。
「じゃあ、喧嘩の理由は」
「あなたが、私を逃げた人にしたから」
それは、もう少し柔らかく言ってくれてもよかった。だが十年分を柔らかく包む布など、たぶんこの世にはない。
私はお玉を真弓の旅行鞄へ押し込んだ。
「返す。それから、私の記憶が間違っていた。悪かった」
言い訳まで一緒に飲み込むと、喉が熱くなった。正しさを手放した私は、ずいぶん小さく見えただろう。もともと大した人間でもないのだから、ようやく寸法が合ったのかもしれない。
真弓は鞄を閉じた。
「もう時間」
「駅まで行く」
「五分は過ぎた」
「知ってる」
仲直りという言葉は、どちらも口にしなかった。
私たちは駅へ向かう坂道を並んで歩いた。肩が触れないほどの間を空け、同じ速さで。
真弓の鞄の中で、お玉が車輪の振動に揺れていた。
からん。からん。
交差点までの短い道だった。
それでも十年ぶりに、私たちの足音は、少しだけ同じ方角へ続いていた。




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