『離婚を考える夫婦の再出発|片方の手袋に託した泣ける短編』

夜更けの車庫と片方の手袋 泣ける話

「宮野さん、今年の卒業式を手伝ってもらえませんか」

小川先生に頼まれたとき、私は冷蔵倉庫の中で、片方だけの手袋をはめていた。

右手には荷物を読み取る端末、左手には直人から借りた紺色の手袋。

もう片方は五年前、港町でなくした。

返そうにも一枚しかなく、捨てようにも妙に温かい。役に立つのか立たないのか分からないところが、近頃の私たち夫婦によく似ていた。

私は町外れの物流倉庫で、夜間の仕分けをしている。

働きながら町の夜間教室へ通い、高校の課程を終えたのは五年前だった。

教室は、バス会社が使わなくなった車庫の二階にある。家の事情や仕事のために学校を離れた人が、年齢を問わず机を並べていた。

今年は先生の一人が入院したため、卒業生である私に準備の手伝いが回ってきたのだ。

卒業式は夜十一時から。

零時には車庫の門が閉まる。

それまでに式も片づけも終えなければならない。

「宮野さんなら、沙紀さんも安心するでしょう」

その名前を聞いて、私は断れなくなった。

沙紀は以前、同じ倉庫で働いていた。

休憩時間になると、彼女は決まって焼きたてのクリームパンを半分に割り、私に寄こした。

「半分なら、太らないことにしましょう」

そんな都合のよい算数を、私たちは信じていた。

私が夜間教室を勧めたのも、彼女が町を出てパン職人になりたいと打ち明けたのも、その休憩室だった。

卒業式の夜、私は車庫の壁に銀色の星を貼った。

階下では、直人が最終便の点検をしていた。

彼はこのバス会社の整備士である。

私たちは同じ家から来たのに、別々の入口から車庫へ入った。

この半年、離婚を考えている。

それでも会話はあった。

味噌が切れた。

明日は燃えるゴミだ。

先に風呂へ入る。

私たちは暮らしに必要なことを丁寧に話し、暮らしそのものを今後どうするかについては、見事に黙っていた。

別れることを、私は失敗だと思っていた。

パン屋を八か月で辞めたこと。

夢を抱えて町を出て、しおれて戻ってきたこと。

そのうえ結婚まで終われば、私の人生には「不合格」の判ばかりが並ぶ気がした。

向かいのパン工場から、焼きたてのパンの匂いが流れてきた。

五年前の卒業式にも、同じ匂いがしていた。

あの春、私は港町のパン屋に採用されていた。

直人は卒業式に来なかった。

仕事が忙しいらしい、と先生から聞いただけだった。

祝いの言葉も、見送りもなかった。

愛情がないから来ないのだと、私は思った。

それでも港町へ行き、そして失敗した。

戻ってきた私を、直人は責めなかった。

慰めもしなかった。

「おかえり」

ただ、それだけだった。

私はその短い言葉を、冷たさだと思い込んだ。

式が始まる前、沙紀が私の袖を引いた。

「私、名古屋へ行かないほうがいいでしょうか」

彼女は胸元の花を何度も触っていた。

「お父さん、一人になるんです。今朝も、行かなくていいって言われました」

「沙紀さんは、どうしたいの」

「行きたいです。でも怖い。誰かに止めてもらえたら、行かなくて済むのに」

私は、やめてもいい、と言いかけた。

知らない町は冷たい。

夢は簡単に人を裏切る。

失敗すれば、帰りの鞄だけが重くなる。

そのすべてを、私は知っていた。

だからこそ、言葉をのみ込んだ。

「行っておいで」

沙紀の顔が歪んだ。

「失敗したら?」

「帰ってくればいい。帰ることまで失敗にしなくていいのよ」

それは沙紀ではなく、五年前の私に言っているようだった。

彼女の肩を抱いたとき、私はようやく気づいた。

引き止めたいのに、その人の新しい道を塞がないため、何も言わない者がいる。

直人も、あの夜、同じ場所に立っていたのではないか。

気づいたからといって、傷が消えたわけではなかった。

私はあの卒業式で、たしかに寂しかった。

理解と許しは、同じものではない。

式が終わったのは、十一時五十分だった。

外へ出ると、整備場の白い光の下に直人がいた。

私はコートのポケットから、紺色の手袋を取り出した。

「これ、返す」

直人は、私の手の上の一枚を見つめた。

「まだ持ってたのか」

「借りたものだから」

「片方じゃ使えないな」

「ごめん。もう片方はなくした」

直人は手袋を受け取った。

油の染みた大きな手の上で、古い毛糸が頼りなく縮んで見えた。

「どうして、あの卒業式に来なかったの」

階段の時計が鳴り、零時まであと七分になった。

直人は目を伏せた。

「行けば、行くなって言いそうだった」

「言えばよかったのに」

「おまえは俺が言ったら、残っただろ」

私は答えられなかった。

たぶん残った。

そしていつか、残ったことまで彼のせいにしただろう。

「帰ってきたときも、何か言ってほしかった」

「うれしいって言ったら、おまえの失敗を喜んでるみたいだと思った」

「馬鹿ね」

「そうだな」

離婚をやめようとは、どちらも言わなかった。

五年間の沈黙が、一晩で愛情に戻るほど、私たちは器用ではなかった。

私は今夜だけは泣かないと決めていた。

手袋を返し、何でもない顔で立ち去るつもりだった。

だが、焼きたてのパンの匂いが流れてきた途端、決意はあっけなく破れた。

私は顔を覆い、子どものように泣いた。

直人は慰めなかった。

ただ片方の手袋を握り、門が閉まるまで隣に立っていた。

明け方、倉庫の休憩室で携帯電話が震えた。

直人からだった。

画面には、たった四文字だけ表示されていた。

――おはよう。

許せたわけではない。

離婚届も、まだ食器棚の引き出しにある。

けれど別れることも、帰ることも、それだけで失敗になるのではないのだと思った。

荷物には、決められた行き先がある。

人間には、立ち止まったり、引き返したりする途中がある。

休憩室の窓を少し開けると、隣のパン工場から、朝一番のパンが焼ける匂いがした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました