母からLINEが届いたのは、終電が出る一時間前だった。
「今夜、駅で少し会えませんか」
私は画面を伏せた。
駅前のコンビニは、終電前だけ、この町でいちばん忙しい場所になる。
缶ビールを買う会社員。
充電器を探す若者。
値引き弁当を二つ抱えた、私によく似た疲れた男。
返信する暇がない、と思った。
本当は、暇がなかったのではない。
母に何と返せばよいか、分からなかったのである。
三十二歳にもなって、夜勤のコンビニで働いていることを、私は母に隠していた。
東京の会社を辞めたあと、駅前の店で働き始めて二年になる。
母には、物流会社の夜間事務だと嘘をついていた。
コンビニの仕事が恥ずかしかったわけではない。
そこで働く自分を、母に見られるのが恥ずかしかったのだ。
人は自分を嫌っているとき、自分を見つけそうな相手まで遠ざける。
なかなか器用な卑怯さである。
*
高校生のころ、母は毎朝、私に定期券を持たせた。
父が家を出てから、母は駅の向こうにあるホテルで、客室清掃の仕事をしていた。
朝は私より早く出て、夜は終電で帰った。
定期券の更新が近づくと、母は食卓に硬貨を並べ、何度も数え直した。
私はその姿を見るのが嫌だった。
貧しいことが恥ずかしかったのではない。
そんな母に支えられなければ学校へも通えない自分が、情けなかったのだ。
高校二年の冬、私は定期券を失くした。
母は何も言わず、新しいものを買ってくれた。
その日の夕食は、湯豆腐だけだった。
「ごめん」
私が言うと、母は笑った。
「また失くしてもいいよ。帰ってこられれば」
私はその言葉を、恩着せがましいと思った。
ひどい息子である。
ひどい人間ほど、自分が傷つけられた話だけは、いつまでも大切に保管している。
*
母からのLINEを開いたのは、終電が出たあとだった。
「今夜、駅で少し会えませんか」
その下に、もう一通届いていた。
「急ぎではありません。仕事が終わってからで大丈夫です」
私は入力欄に、
「今日は無理。また今度」
と打った。
送信ボタンへ指を置いたとき、店の外を救急車が通り過ぎた。
赤い光が、商品の並ぶ棚を一瞬だけ染めた。
救急車は駅前ロータリーで止まった。
嫌な予感というものは、当たってほしくないときに限って、ずいぶん勤勉に働く。
私は同僚にレジを頼み、外へ走った。
終電後の駅前ベンチに、母の小さな鞄が置かれていた。
母はその横で倒れていた。
膝のそばに紙袋が落ち、中から古い定期券が滑り出していた。
高校時代の私の写真が貼られた、十八年前の定期券だった。
*
母は脳梗塞だった。
命は助かった。
けれど右手が動かず、言葉もしばらく出にくいだろうと医師は言った。
病院の廊下で、看護師から母の携帯電話を渡された。
画面には、私とのLINEが開いたままだった。
送信されていない長い文章が、入力欄に残っていた。
「あなたが働いている店を知っています。
半年前、買い物の帰りに、店から出てくるところを見ました。
声をかけようとしましたが、隠しているのなら理由があるのだと思い、やめました。
それから何度か買い物に行きました。
あなたは気づかなかったけれど、年を取ると、帽子をかぶるだけで別人になれるようです。
制服がよく似合っていました。
酔ったお客さんにも、迷っているお年寄りにも、あなたは同じ声で話していました。
仕事に、偉いも偉くないもありません。
夜中に帰ってくる人のために、灯りをつけて待つ仕事でしょう。
私は来月、駅の向こうの団地へ引っ越します。
押し入れを片づけたら、昔の定期券が出てきました。
もう私が持っていなくても、あなたは自分で帰ってこられると思い、返そうと思いました。
でも、本当は少しだけ会いたかった。
返事は急がなくて大丈夫です。
終電が行ったあとまで、待っています」
文章はそこで終わっていた。
いや、最後に一行だけ、書いては消した跡が残っていた。
「また失くしてもいいよ。帰ってこられれば」
私は病院の椅子に座り込み、母の携帯電話を握った。
母は知っていた。
私がコンビニで働いていることも。
それを隠していたことも。
知ったうえで、知らないふりをしてくれていた。
私はLINEの返信が遅れたのではない。
母の言葉を受け取るのが、十八年も遅れたのだ。
*
翌朝、私は母のベッドの横に座った。
母は目を開け、何かを言おうとした。
けれど声にはならなかった。
私は古い定期券を見せた。
「これ、まだ持ってたんだね」
母の目が細くなった。
「昨日、返事をしなくてごめん」
母は左手を少し動かした。
私はその手を握った。
「俺、仕事を恥ずかしいと思ってた」
母が首を振ろうとした。
「違う。仕事じゃなくて、うまくいかなかった自分を見られるのが怖かったんだ」
母の目から涙が流れた。
私は定期券を母の手のひらへ置いた。
「これは、まだ持ってて」
母の指が、定期券の端に触れた。
「その代わり、約束する」
私は泣きながら笑った。
「今度LINEが来たら、すぐ返す。忙しくても、『見たよ』だけは送る」
母の唇が、かすかに動いた。
声にはならなかった。
それでも「うん」と言ったのだと、今度は分かった。
*
母が退院してから、私は毎朝LINEを送るようになった。
「起きた?」
「薬は飲んだ?」
「今日は夜勤」
母の返事は遅い。
左手だけで打つので、短い言葉しか返ってこない。
「おきた」
「のんだ」
「がんばれ」
ある夜、終電が出たあと、店の自動ドアが開いた。
杖をついた母が、ゆっくり入ってきた。
胸元には、あの古い定期券を入れた透明なケースが下がっていた。
私はレジを出て、母の前へ行った。
「こんな時間に、どうしたの」
母は携帯電話を見せた。
入力欄に、短い文章があった。
「むかえにきた」
私は笑い、それから泣いた。
「下書きのままだよ」
母は困った顔をした。
「送って。今度はちゃんと返すから」
母は左手の人差し指で、ゆっくり送信ボタンを押した。
私のポケットで、携帯電話が震えた。
私はすぐに画面を開いた。
「見たよ。今、帰ろう」
そう返信した。
終電のなくなった駅前を、母と並んで歩いた。
母の歩幅に合わせると、家までの道はいつもの倍ほど長くなった。
けれど、急ぐ理由はなかった。
古い定期券は、もう私たちをどこへも運んでくれない。
それでも母は、今夜も私を迎えに来た。
十八年前と同じように。
私が、もう一度きちんと帰ってこられるように。




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