病院という場所は、いつ行っても、どこか朝に似ている。
夜勤明けの薄い頭でそう思うのだから、たぶん本当なのだろう。
まだ何も決まっていないような白い顔をしているくせに、そこではもう、いくつもの生死や、諦めや、持ち直しかけた希望が、勝手に始まっている。
消毒液の匂い、床を鳴らす点滴台の車輪、ナースステーションの内線、眠れなかった人たちの目の色。
どれも特別ではない。
だが人は、特別なことほど、案外こういうありふれた音のなかで受け取る。
私は看護師をしている。
三十二歳になった。
職業を言うと、たいてい「大変でしょう」と言われる。
そのたび私は、まあ、と曖昧に笑う。
大変ではある。
けれど本当に大変なことは、点滴の本数でも夜勤の回数でもない。
人の痛みを見続けるうちに、自分の身内の痛みだけ、妙に素人みたいに見誤ることである。
私はそれを、母のことで知った。
母は昔から、病院が嫌いだった。
嫌いというより、自分をなるべく患者にしない人だった。
頭が痛くても「寝れば治る」と言い、咳が続いても「季節のせい」と言い、食欲が落ちても「年のせい」と笑った。
そうやって、自分の不調を言葉の端で小さく片づける癖があった。
私はそのたび、受診したほうがいいよ、と言った。
言ったが、言うだけで終わることも多かった。
母は私の前では、妙に平気な顔をしたし、私もまた、その平気そうな顔に甘えていた。
看護師というものは、他人には「早めに受診を」とあれほど言うくせに、家族に対しては、願望を診断に混ぜてしまう。
大丈夫であってほしい、という願いを、根拠と取り違えるのである。
母は五十八だった。
まだ老け込むには早い年齢で、スーパーの袋を両手に提げて団地の階段を上るくらいは平気だったし、煮物をつくれば相変わらず味が濃すぎず薄すぎず、妙に腹の立つくらい安定していた。
そのくせ、春先から少しずつ痩せていた。
肩が薄くなり、エプロンの腰ひもを結ぶ位置が前より深く回るようになっていた。
私は気づいていた。
気づいていたのに、仕事の疲れだとか、暑くなってきたからだとか、いくらでも都合のいい理由を並べて、自分を納得させていた。
気づくことと、認めることは別である。
私は認めたくなかったのだろう。
ある春の終わり、母は私の勤務先とは別の総合病院にかかった。
それも、私には言わずに。
あとで知った。
最初に気づいたのは、母の財布の中から、見慣れない診察券が出てきたからだった。
買い物へ行く前、テーブルに財布を置きっぱなしにしていたので、私が割引券でも入れておこうと勝手に開けたのである。
勝手に見るほうもどうかしているが、家族というものは時々、礼儀と遠慮を、都合よく忘れる。
青い診察券だった。
腫瘍内科、と小さく印字されていた。
私はその文字を見たとき、心臓が一度、変な止まり方をした。
止まる、というのは大げさかもしれない。
けれど人は本当に怖いとき、一瞬だけ自分の体の扱い方がわからなくなる。
私は診察券を持ったまま、台所で立ち尽くした。
母はそのとき、ベランダで洗濯物を干していた。
カーテン越しに、濡れたタオルをはたく音がした。
あまりにいつもの音で、かえって腹が立った。
どうしてそんなふうに、今日までと同じ生活をしていられるのだ、と。
私はベランダへ出て、その場で問い詰めた。
「これ、何」
母は振り返り、私の手の中の診察券を見た。
それから、ああ、という顔をした。
驚くでもなく、取り乱すでもなく、ただ少し面倒そうに、ああ、と。
その顔で、私は余計に頭へ血がのぼった。
「どうして言わなかったの」
「まだ、ちゃんとわかってなかったから」
「腫瘍内科って書いてあるじゃない」
「だから、まだ検査の途中だったのよ」
母の声は低く、妙に落ち着いていた。
その落ち着きが、私にはまるで、こちらを子ども扱いしているように思えた。
本当は違ったのだろう。
けれど、怖いときの人間は、やさしさまで侮辱に読み違える。
「私、看護師なんだけど」
と私は言った。
今思えば、最悪の言い方である。
だから何だ。
看護師なら、母親が病気を隠さずに済むとでも思っていたのか。
母は少し黙ってから、
「だからよ」
と言った。
その一言が、そのときの私には理解できなかった。
私は理解できないまま、ひどく傷ついた気になった。
信じてもらえなかったのだ、と。
頼ってもらえなかったのだ、と。
だが本当は、傷ついたのではなく、傷つけられたことにして、自分の怖さから目をそらしたかっただけなのかもしれない。
検査の結果、母はがんだった。
初期ではなかったが、すぐにどうこうという段階でもない、と医師は説明した。
治療は必要だった。
手術と、その後の薬物治療。
説明室のテーブルは妙につるつるしていて、私は医師の言葉より、母の指先がその上を静かに撫でているのばかり見ていた。
あの人は、怖いときほど手だけ静かになる。
子どものころ、父が家を出た日もそうだった。
祖母の葬式の日もそうだった。
それを知っているくせに、私はその静かな指先を見て、ようやく母の怖さに気づいた。
それでも私は、まだ怒っていた。
怒ることでしか、その場に立っていられなかったのである。
手術前夜、病室で母は、持ってきた荷物を自分で整えていた。
パジャマの裾、タオル、歯ブラシ、小さなポーチ。
私はその几帳面な手つきを見て、また腹が立った。
どうしてそんなふうに、私の出番を残してくれないのだろう、と。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの」
私はベッド脇の椅子に座ったまま言った。
母は荷物の手を止めずに答えた。
「言ったら、あんた、壊れるでしょう」
「壊れないよ」
「壊れるわよ」
母は笑わなかった。
淡々と言った。
「他人にはちゃんとできる人ほど、身内のことになると駄目になるの。あんた、そういうとこあるから」
私はそれを、責められているように聞いた。
まるで、おまえは頼りにならないと言われたように。
それでつい、言ってしまった。
「じゃあ、最初から最後まで一人でやればよかったじゃない」
言った瞬間、取り消したくなった。
けれど言葉というものは、一度出るとたいてい、こちらの後悔より足が速い。
母はしばらく黙っていた。
窓の外では、向かいの病棟の窓が、夕方の色へ少しずつ変わっていた。
それから母は、小さく、
「ごめんね」
と言った。
その謝り方が、ひどく弱く見えて、私はいたたまれなくなった。
怒っている自分のほうがよほど弱いくせに、人はそういう時、先に弱く見えたほうへ残酷になる。
手術は無事に終わった。
無事に、という言葉は便利だが、術後の母の顔を見たとき、私はその言葉の雑さに腹が立った。
人ひとり切って、臓器を取り、痛みと吐き気と不安の上へ寝かせておいて、何が無事だ、と思った。
けれど医療の現場では、その雑な言葉でしか渡せない安堵もある。
私は仕事で何度もその言葉を使ってきた。
使ってきたくせに、母に対してだけは、それを受け取ることができなかった。
術後しばらくして、母は少しずつ食べられるようになった。
歩けるようにもなった。
だが、以前のようにはいかなかった。
体力も落ち、顔色も変わり、髪も少しずつ痩せていった。
私は見舞いへ行くたび、プリンだのスープだの、ゼリーだの、食べやすそうなものを買っていった。
そういう具体的なことをしている間だけ、私は娘らしい気持ちでいられた。
ある日、病室に着くと、母は検査に呼ばれていて留守だった。
ベッド脇の棚に、診察券と、半分に折られた問診票が置いてあった。
看護師のくせに、私はその紙を、整えるためという名目で手に取った。
名目というものは便利で、だいたい後ろめたいことの上にかぶせる布である。
何気なく裏返したとき、余白に文字が見えた。
母の字だった。
問診票の裏へ、ボールペンで、いくつか短く書かれていた。
メモというほど整っていない。
待ち時間に、思いついて書いたのだろう。
最初の一行は、こうだった。
あの子は、仕事で人に泣かれるのは平気な顔をしているけど、家では昔から、私が熱を出すだけで黙りこむ。
私はその一文で、もう駄目だった。
続きを、息を詰めながら読んだ。
言わなかったのは、信用していないからではない。
むしろ逆で、あの子は私の痛みを自分のことみたいに抱えてしまうから、検査がはっきりするまで黙っていた。
言えば、きっと自分を責める。
早く気づかなかったとか、看護師なのにとか、そんなことまで背負う。
そういう子ではないと言いたいけど、そういう子なのだ。
そのあたりで、視界が滲んだ。
私は自分が、母に頼られなかったことを怒っていたのではないと気づいた。
母の痛みに間に合えなかったことが、怖かったのだ。
しかも、職業柄、間に合えるはずだと思い込んでいたぶんだけ、余計に痛かった。
最後の行は、少し字が乱れていた。
親が子どもに遠慮するなんて変だけど、私はこの子を許しているし、たぶんこの子にも、私を許してほしい。
私は問診票を持ったまま、病室の丸椅子に座りこんだ。
許している、という言葉が痛かった。
私は母を責めていたつもりだったが、責めながら、どこかで許しを求めてもいたのだろう。
どうして隠したの、と問い続けた裏には、私をまだ子どものまま扱わないで、という情けない叫びがあった。
だが母は、私を子ども扱いしたのではなかった。
子どものころから変わらない弱さまで含めて、知っていたのだ。
知っていて、黙った。
それは拒絶ではなく、母なりの庇い方だったのである。
母が戻ってきたとき、私は泣いていた。
ひどくみっともない顔だったと思う。
看護師なのに、ではない。
娘なのに、でもない。
ただ、いい年をした女が、問診票の裏ごときで泣いているのである。
だが人を泣かせるのは、立派な手紙や遺言だけではない。
こういう、提出もされない紙の裏に走り書きされた本音のほうが、よほど始末が悪い。
母は私を見るなり、少し目を細めた。
「見たの」
私はうなずいた。
「ごめん」
「そうね、見ないでほしかったけど」
母はそこまで言って、少しだけ笑った。
「でも、見てよかったかもね」
私は問診票を握ったまま言った。
「ごめん。ひどいこと言った」
母は首を横に振った。
「私も隠したから、おあいこ」
「おあいこじゃない」
「そういうところが、面倒なのよ」
そう言って、母はベッドへ腰を下ろした。
私は泣きながら笑ってしまった。
この人は、弱っていても、こちらの感傷にきれいに付き合ってはくれない。
そこがありがたく、また少し腹立たしかった。
私はベッド脇に座って、しばらく母の手を握っていた。
骨ばって、少し冷たい手だった。
けれど握り返してくる力は、まだちゃんと母のものだった。
「許して」
と私は言った。
母は少し考えるみたいに黙ってから、
「もう許してるって書いたでしょう」
と言った。
それから、ほんの少し声をやわらかくして、
「だから、あんたも許しなさい。私のことも、自分のことも」
と言った。
病室の窓の外は、夕方の色をしていた。
隣の病棟の窓が一つずつ光りはじめ、廊下では配膳車の音が近づいていた。
どこにでもある病院の夕方だった。
けれど私は、そのありふれた時間の中で、ようやく母の病気を、自分の恐怖ではなく、母の現実として受け取りはじめた気がした。
退院してからも、治療は続いた。
以前とまったく同じ暮らしには戻らない。
母は疲れやすくなり、私は前より頻繁に実家へ寄るようになった。
味噌汁の味は少し薄くなったが、そのぶん、食卓に座る時間は前より長くなった。
私は時々、仕事帰りに総菜を買っていく。
母はそれを見て、「高かったでしょう」と文句を言いながら、いちばんよく食べる。
そういう普通のやりとりが、以前よりずっとありがたくなった。
母は通院の日になると、診察券を出して、
「これ、忘れないように見といて」
と言う。
私はそれを受け取り、財布へ戻しながら、あの青い診察券を見つけた日の、自分の青ざめた指先を思い出す。
人は急には立派になれない。
私は今でも、母の咳が長引けば胸の奥がざわつくし、返信の遅いメッセージひとつで、悪い想像をしてしまう。
けれど、前ほどは責めなくなった。
隠されたことも、見抜けなかったことも、少しずつそのまま受け入れられるようになった。
許すというのは、忘れることではないのだろう。
痛かった形のまま、抱えなおすことである。
先日、母の通院に付き添った帰り、会計窓口で受け取った診察券を、私は母へ返した。
母はそれを財布へしまいながら、
「今日は助かった」
とだけ言った。
大げさな礼ではない。
だがその一言で、私はもう十分だった。
病院の自動ドアを出ると、夕方の風が少し冷たかった。
私は母の歩幅に合わせて歩いた。
昔は私が引かれる側だったのに、と思うと、胸の奥が少しだけ痛み、少しだけあたたかかった。
許されたのだと思う。
母に。
そして、たぶん、私もようやく、母を許しはじめている。
病気を隠したことをではない。
強がりで、不器用で、私より先に私の弱さを知っていた、その母のやり方そのものを。
病院の駐車場の端で、母はふいに立ち止まり、
「今日、何か食べて帰る?」
と言った。
私は笑って、
「うん」
と答えた。
その返事は、ずいぶん久しぶりに、娘らしい声だった。




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