昼間は子どもの声や買い物袋のこすれる音で、どうにか人間の顔をしているくせに、陽が傾くころには、廊下も階段も、いっせいに古びた骨みたいな色になる。
私はその感じが、少し苦手で、少し好きだった。
苦手なのは、自分まで古くなった気がするからで、好きなのは、古いものには古いものなりのやさしさがあると、最近ようやく思いはじめたからだ。
歳をとったのだろう。
いや、歳をとったというより、若いころほど勢いだけで人を判断しなくなった、という程度の、みみっちい成長である。
私は訪問看護師をしている。
病院勤めから在宅に移って、三年になる。
白い廊下を歩いていたころは、患者さんが帰る先の暮らしまで、どこか他人事だった。
だが訪問をするようになってからは、病気というものが、食器の置き方や、洗濯物の畳み方や、玄関に脱ぎ散らかした靴の向きにまで入り込んでいるのを、いやでも見るようになった。
人は病気だけでは生きていない。
そんな当たり前のことを、私は看護師になって十年近く経ってから知った。
情けない話だが、仕事というのは案外、長くやっても、肝心のことは遅れてわかる。
祖父も、その団地に住んでいた。
正確には、住んでいた、ではなく、最後の二年をそこでひとりで暮らした。
私の実家から歩いて十五分ほどの、古い県営団地の四階だった。
エレベーターはなく、踊り場の壁はところどころ黒ずみ、郵便受けには古いチラシがよく挟まっていた。
春になれば、階段脇の植え込みに誰が植えたのかわからない水仙が咲き、夏になると廊下のコンクリートが昼の熱を抱えたまま、夜までむっとしていた。
祖父は昔、町工場で働いていた人で、無口で、頑固で、なにより「人の世話になる」ということを、ひどくみっともないものだと思っている節があった。
祖母が亡くなってから、その傾向はますます強くなった。
私が惣菜を持って行けば、「こんなにいらん」と言い、病院を勧めれば「寝れば治る」と言い、手すりをつけようと言えば「まだそんな歳じゃない」と怒った。
もう十分そんな歳だったのにである。
人は、年齢を受け入れるより先に、意地のほうを丈夫にしてしまうらしい。
祖父の部屋は、きちんとしているようで、どこか不揃いだった。
流し台の下には古い鍋が三つ重なり、茶碗棚のいちばん上には祖母の湯呑みがそのまま置いてあった。
座布団の位置も、新聞の積み方も、卓上カレンダーに丸をつける癖も、祖母がいたころからあまり変わっていないように見えた。
人はひとりになると、片づけるのではなく、残して生きるのだな、と私はあの部屋へ行くたび思った。
私が訪問看護師になったとき、祖父は妙に嫌そうな顔をした。
「よその年寄りの面倒なんか見て」
と、言った。
褒めているのかけなしているのか、よくわからない言い方だった。
祖父は昔からそうだった。
やさしいことほど、わざと棘のある言い方をする。
こちらが礼を言いやすい形では、決して差し出してくれない。
若いころの私は、それを不器用だと笑って済ませていたが、大人になってからは、ただ腹が立った。
やさしいつもりなら、ちゃんと言えばいいのに、と思った。
いや、ほんとうは、ちゃんと言われたらこちらが弱くなるから、ああいう言い方のほうが楽だったのかもしれない。
人は時々、相手の不器用さに文句を言いながら、その不器用さに甘えている。
私も、祖父にはそういう甘え方をしていた。
祖父の足腰が急に衰えたのは、八十二の冬だった。
肺炎で一度入院して、それから目に見えて弱った。
退院後は杖を使うようになり、団地の階段を上るだけで息が切れた。
洗濯物を干すのにも時間がかかり、灯油のポリタンクは近所の人に頼まないと持てなくなった。
それでも本人は、「まだ大丈夫だ」と言い張った。
ケアマネさんから、見守りも兼ねて、もう少し支援を増やしたほうがいいと言われたが、祖父は頑として首を縦に振らなかった。
「まだ、ひとりでできる」
そのたび私は、看護師としてはもっともらしいことを言った。
「できることと、危なくないことは別だよ」
正しい。
たぶん、そのとおりだ。
だが正しい言葉というものは、ときどき、ひどく冷える。
祖父はそういう時、いつも口をへの字にして黙りこんだ。
私はその沈黙を見るたび、また話が通じなかった、と苛立った。
他人の家では、あんなに辛抱強く待てるくせに、祖父の前ではどうしても駄目だった。
たぶん私は、祖父を利用者ではなく、いつまでも祖父として見ていたのだろう。
それは情でもあるが、ずいぶん乱暴な情である。
ある日、私は合鍵の話を持ち出した。
もし転んだり、急に具合が悪くなったりした時のために、私か母が一本預かっていたほうがいい、と。
その日は仕事が立てこんでいた。
午前の訪問先では、認知症の奥さんが夫の薬をゴミ箱へ捨ててしまい、午後の家では、退院したばかりの男性がベッドから立ち上がれずに泣いていた。
私はそのどちらにも、できるだけ穏やかに対応した。
対応したが、疲れはちゃんと残る。
人にやさしくした日の夕方ほど、家族にまでやさしくする余力が残っていないことがある。
それは職業人としては恥ずかしいが、人間としては案外ありふれている。
祖父は合鍵の話を聞いた瞬間、顔をしかめた。
「勝手に入るつもりか」
「そうじゃないよ。いざという時のため」
「いざなんか来ん」
「来るよ。来ることだってある」
私は語気を強めてしまった。
仕事のあとで疲れていたし、その日は訪問先でも気持ちの重いことが続いていた。
忙しさというのは、人を立派にするどころか、たいてい、言葉の角だけを育てる。
私はその日も、見事に角ばっていた。
「じいちゃんは、何でも自分でできると思いすぎなんだよ」
言ったあとで、まずいと思った。
けれど遅かった。
祖父は私を見て、しばらく黙り、それから低い声で言った。
「おまえは、人の家へ入る仕事をしてるから、人の境目がわからんのだな」
その一言が、胸に刺さった。
私はかっとなって、
「もういい」
と言った。
「そんなに信用できないなら、好きにしたら」
祖父は何も言わなかった。
その沈黙が、叱るでもなく引き留めるでもないぶんだけ、余計に痛かった。
私はそのまま帰った。
団地の階段を下りるとき、自分の足音がやけに大きかった。
ああいうとき人は、怒っているのではなく、たぶんひどく恥ずかしいのである。
怒りというのは、恥の上にかぶせる、ずいぶん安い毛布だ。
その三日後、祖父は部屋で倒れた。
発見したのは隣の部屋の奥さんだった。
新聞が二日分たまっているのを不審に思い、自治会長と一緒に管理人を呼んで、部屋へ入ったらしい。
軽い脳梗塞だった。
命は助かった。
だが私は、病院へ駆けつけたとき、助かったという事実より先に、合鍵のことを思った。
あの日、あんな言い方をしなければ。
あのとき、もっと別の言い方ができていれば。
だが人間は、手遅れになった瞬間だけ、妙に言葉の才能が出る。
あとからなら、いくらでも正しい台詞が浮かぶ。
それがひとつも間に合わないから、後悔というものは始末が悪い。
祖父は入院して、以前よりずっと口数が減った。
右手も少し不自由になり、退院後はもう、ひとり暮らしを続けるのは難しいだろうと言われた。
私は毎日見舞いに行った。
行っても、あまり話すことはなかった。
祖父はテレビを見ているふりをし、私はベッド脇の椅子で、果物をむいたり、お茶の蓋を開けたりした。
テレビでは昼の情報番組が流れ、病室にはいつも乾いた空調の音がしていた。
祖父は時々、食べかけのりんごを見て、「こんなにいらん」と昔と同じことを言った。
私はそれに、「じゃあ半分ね」とだけ返した。
それくらいのやりとりしか、できなかった。
たまに目が合うと、祖父は妙に気まずそうな顔をした。
私も同じだった。
家族というものは、他人より長く一緒にいるくせに、肝心なことを言う段になると、急に素人になる。
退院が近づいたころ、病室の引き出しを整理していて、私は一枚の紙を見つけた。
病院の売店の伝票の裏に、鉛筆で何か書いてある。
字は祖父のものだった。
いや、祖父の字より、少しだけ弱っている字だった。
私は勝手に見ていいものか迷った。
けれど、その紙はきれいに四つ折りにされ、私が持ってきた洗濯物の袋の下へ挟まれていた。
偶然ではなく、たぶん、そこへ置かれていたのだろう。
私はそっと開いた。
伝言メモのような、短い文だった。
鍵を渡さなかったのは、おまえが信用できないからではない。
そこまで読んで、私はもう、喉の奥が詰まった。
続きを見る。
あれを渡したら、もう本当に年寄りになる気がした。
おまえに世話をされるのが嫌なのではない。
おまえに、わしの老いを見せるのが嫌だった。
私は病室のカーテンの影で、しばらく動けなかった。
そんなこと、考えもしなかった。
祖父は私を拒んでいたのではなかった。
境目がわからん、と言ったあの言葉も、私の仕事をけなしたのではなく、自分の境目が崩れるのが怖かっただけなのだ。
紙には、まだ続きがあった。
おまえは昔から、人のことをよく見すぎる。
やさしい仕事だが、身内にそれを向けられると、こっちは少し恥ずかしい。
すまん。言い方が悪かった。
最後の一行は、ひどく小さかった。
でも、もしまた同じ話をするなら、今度は鍵を渡す。
そのあとに、さらに書き足したように、短く、
見張るな。見ていてくれ。
とあった。
私はその紙を握ったまま、泣いた。
病院の廊下では、配膳車の音がしていた。
どこかの部屋でナースコールが鳴り、誰かの笑う声が遠くした。
ありふれた夕方の音の中で、私は、祖父がようやく差し出してくれた言葉の形を受け取った。
見張るな。見ていてくれ。
たったそれだけの違いなのに、その間には、人ひとりの意地と、老いと、情けなさと、家族への照れくささが、全部詰まっていた。
退院の日、私は祖父を団地まで送った。
四階までの階段は、前よりずっと長く見えた。
祖父は息を切らしながら、それでも自分の足で上った。
途中の踊り場で一度立ち止まり、私は背中へ手を添えかけて、やめた。
祖父は何も言わなかったが、その沈黙の中に、今はそれでいい、というものがあった気がする。
部屋へ入って、座布団に腰をおろすと、祖父は上着の内ポケットから鍵を一本出した。
鈍い銀色の、使いこんだ鍵だった。
祖母がまだ元気だったころから使っていた、少し角のすり減った鍵だった。
「なくすなよ」
と祖父は言った。
相変わらず、かわいげのない渡し方だった。
私は受け取りながら、
「うん」
とだけ答えた。
それ以上、何か言うと泣きそうだったからである。
祖父はそのあとも、完全に人の手を借りるようにはならなかった。
ヘルパーさんには文句を言い、配食の味には難癖をつけ、私が冷蔵庫の中を勝手に整理すると露骨に嫌な顔をした。
けれど、鍵を使って部屋へ入るとき、前ほど身構えなくなった。
私はなるべく「世話」にならないように、ただ電気ポットの水を替えたり、薬の置き場所を整えたり、新聞の束をしばったりした。
帰るときには、台所の流しにコップを一つだけ伏せ、祖父の好きな煎餅を卓袱台の端へ置いた。
それくらいのことなら、祖父の意地も傷つかないような気がした。
見張るのではなく、見ている。
あのメモ以来、私はそれを自分に言い聞かせた。
祖父が亡くなったのは、その翌年の春だった。
団地の桜が、古びたベランダの向こうで、妙に場違いなくらい明るく咲いている朝だった。
眠るように、というには少し呼吸が苦しそうだったが、それでもひどい最期ではなかったと思う。
私は間に合った。
合鍵で部屋へ入り、祖父の手を握ることができた。
それだけで十分だったのかと問われると、そんなことはない。
後悔は、たぶん今も細かく残っている。
もっと違う言い方があっただろうし、もっと早くわかれただろうとも思う。
けれど、あのメモがあったから、私は自分の後悔だけで祖父を思い出さずに済んでいる。
祖父は不器用で、頑固で、言い方が悪かった。
私も同じくらい不器用で、正しさを振りかざす癖があった。
そういう、ろくでもない家族同士が、鍵一本でようやく少しだけ歩み寄れたのである。
今でも訪問先で、家族が「見守り」と「管理」のあいだで揺れている場面に出会うことがある。
玄関先で息子さんが、勝手に冷蔵庫を開けていいのだろうかと迷っていたり、娘さんが、全部やってしまうと親のためにならない気がすると言ったりする。
そのたび私は、祖父の字を思い出す。
見張るな。見ていてくれ。
たぶん、看護も介護も、家族の情も、その一行のあたりにあるのだろう。
夕方、仕事帰りに団地の前を通ると、四階のあの部屋の窓はもう別の人のカーテンに変わっている。
それでも私は、ときどきポケットの中の鍵を指で探る。
返しそびれて、いや、返せなくて、今も持っている。
冷たい金属の感触が、掌の中で小さく鳴る。
あの部屋を開けることは、もうない。
けれど私はその鍵に、見守るということの重さを教えられた。
人は、助けることですべてを埋められるわけではない。
ただ、相手の境目を壊さないように、そばで見ていることしかできない時もある。
そして、そういう見守りのほうが、時に、ずっと深い。
団地の夕方は、今日も少し年をとっている。
私は立ち止まり、古びた階段を見上げる。
あの四階の窓に灯りがつくことは、もうない。
それでも、見ていてくれ、と言った人の声だけが、暮れかけた廊下のどこかに、まだ残っている気がするのである。




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