文化祭の前日、衣装の袖を破いてしまった高校生の娘。
裁縫のできない父が、眠れない夜に縫おうとした白い糸が、二人の間に残っていた気持ちをほどいていく物語です。
読了目安:5分
まっすぐ縫えない白い糸
文化祭の前日に、私は衣装の袖を破いた。
ドアノブに引っかけただけだった。
ほんの二センチほどの裂け目なのに、そこから白い糸が何本も飛び出して、舞台の明かりに照らされたら、きっとひどく目立つだろうと思った。
「最悪」
台所で言うと、父は新聞から顔を上げた。
「どうした」
「なんでもない」
私はそう答えた。
父に相談したところで、何ができるわけでもない。父はボタンが取れても、そのまま着る人だった。ワイシャツの袖口がほつれていても、誰も見ないから大丈夫だと言う。
見ないから大丈夫。
父は、そういう人だった。
母が二週間の研修で家を空けているあいだ、家の中はずっと静かだった。父は朝早く出て、夜遅く帰る。私は部活で遅くなる。
同じ家にいるのに、会うのは冷蔵庫の前くらいだった。
父は冷蔵庫に、食べ終えたヨーグルトの容器を入れたままにする。私はそれを見つけるたび、口には出さずに捨てた。
父はたぶん、私が牛乳を飲み切った紙パックをたたまずに置くのを、同じように見ていたのだと思う。
翌日は文化祭だった。
私は演劇部で、母親役をやることになっていた。台詞は少ない。ただ、最後に舞台の端で、自分の子どもへ「おかえり」と言うだけだ。
その一言が、なぜかうまく言えなかった。
家で練習していると、父が廊下を通る。
「明日、見に来るの?」
何となく聞いた。
父は立ち止まった。
「行っていいのか」
「別に」
「別に、はどっちだ」
私は苛立った。
「来なくていいよ。仕事でしょ」
父は少し黙って、「わかった」と言った。
わかった、という返事は便利だ。
何も聞かなくていいし、何も言わなくていい。
夕食のあと、私は自分の部屋で衣装を広げた。破れた袖を見ながら、スマホで近くの手芸店を調べた。でも、もう閉まっていた。
母なら直せたと思う。
そう思った瞬間、自分が少し子どもじみている気がして、腹が立った。
夜中に水を飲みに行くと、台所の明かりがついていた。
父がテーブルに座っていた。
目の前には、私の衣装があった。
「何してるの」
父は驚いた顔をして、すぐに手元を隠した。
「起きてたのか」
「それ、私の」
「袖が破れてる」
「だから?」
父は何も言わなかった。
テーブルの上には、小さな裁縫箱があった。母のものではない。父がどこかで買ってきたらしい、透明なふたの安っぽい箱だった。
その中に、白い糸と針が一本だけ入っていた。
「お父さん、裁縫できないでしょ」
「できない」
「じゃあ触らないでよ」
言ってから、父の手を見た。
指先に、小さな赤い点がいくつもあった。
父は昼間、機械を扱う仕事をしている。大きくて、節の太い手だった。その手が、細い針をつまんでいるのが、ひどく不似合いだった。
「明日までにいるんだろ」
「いらないよ。もう」
「いるから、困ってたんじゃないのか」
私は答えられなかった。
父は破れた袖を裏返し、ぎこちなく糸を通した。針は何度も布のないところへ刺さった。縫い目はまっすぐにならず、少しずつ曲がっていた。
それでも父は、ほどかなかった。
「お父さん」
「ん」
「来なくていいって言ったの、ほんとは……」
そこまで言って、やめた。
父は顔を上げなかった。
「明日、仕事は午後からだ」
小さな声で言った。
「午前なら行ける」
私は衣装を見た。
白い糸は、裏側で不格好に並んでいた。表から見れば、ほとんどわからない。
「来ても、私、うまくできないかもしれない」
父は少し笑った。
「じゃあ、うまくできないのを見に行く」
その言い方が、ずるいと思った。
私は泣きそうになったけれど、泣くと父が困るので、冷蔵庫の牛乳を取り出した。
翌日、舞台の袖で衣装を着た。
破れたところは、ちゃんとつながっていた。
表からは見えない。
けれど腕を動かすたび、裏側の白い糸が、そこにある気がした。
本番、客席の後ろに父を見つけた。
仕事着ではなく、いつもの少しくたびれたシャツを着ていた。拍手のタイミングがわからないらしく、ほかの人より半拍遅れて手を叩いていた。
私の最後の台詞が来た。
舞台の端で、帰ってくる子どもを待つ役の私は、暗い客席のほうを見た。
「おかえり」
昨日まで何度練習しても出なかった声が、そのときだけは、ちゃんと出た。
終演後、父は校舎の外で待っていた。
「どうだった」
私が聞くと、父は少し考えた。
「よかった」
「どこが」
「……声が」
「それだけ?」
「それがよかった」
父らしい答えだった。
私は笑った。
そして、衣装の袖を少し持ち上げた。
「これ、ありがとう」
父はすぐには返事をしなかった。
「まっすぐじゃないけどな」
「裏側だから、わからないよ」
「そうか」
秋の風が、校庭に落ちた紙吹雪を転がしていった。
父と並んで帰る道は、気まずいままだった。
でも、気まずいまま一緒に歩けることが、少しだけうれしかった。
家に着いたら、父のワイシャツの袖口がまたほつれているのを見つけた。
次は私が、白い糸を探そうと思った。
この短編のテーマ
言葉にするのが苦手な父と、父の不器用さを誤解していた娘。まっすぐでない縫い目に、目立たないけれど確かな愛情を重ねた親子の物語です。
こんな人に読んでほしい話です
- 親に素直な感謝を伝えられずにいる方
- 不器用な父親との思い出がある方
- 家族の何気ない行動に、あとから愛情を感じたことがある方
心に残るポイント
父が縫った白い糸は、表からはほとんど見えません。でも、娘にとっては忘れられない印になります。派手な言葉ではなく、誰かのために手を動かした時間が、親子の距離を少し変えていきます。




コメント