桜並木の下を歩くたび、私は祖母の声を思い出す。
「先生になるなら、人前で泣くんじゃないよ」
その言い方が、私はずっと嫌いだった。
小学校教師になって七年。
春になると、校門までの坂道は桜で白くかすみ、子どもたちは花びらを追いかけながら走ってくる。
私は校門の前に立ち、できるだけ頼もしい顔を作る。
先生らしく。
大人らしく。
泣きそうな顔など、誰にも見せないように。
私は、祖母に育てられた。
母は私が幼い頃に家を出て、父は仕事を理由に、ほとんど家に帰らなかった。
古い団地の一室で、祖母は私の弁当を作り、制服を洗い、授業参観にも来てくれた。
けれど祖母は、やさしい言葉を上手に言える人ではなかった。
運動会で転んで泣いた時も、
「男の子が、そんなことで泣くんじゃない」
と言った。
卒業式で涙をこらえていた時も、
「人前で涙を見せるもんじゃない」
と言った。
私はそのたび、祖母は弱い私が嫌いなのだと思った。
だから教師になりたいと話した時、祖母が桜色のハンカチを差し出したことも、私は素直に受け取れなかった。
「先生になるなら、これを持っていきなさい」
「なんで」
「泣く時に使うんじゃないよ。泣かないために持つんだよ」
私は笑ってごまかした。
けれど、胸の奥では小さく傷ついていた。
泣くな。
弱くなるな。
お前は情けない。
祖母の言葉を、私は勝手にそう翻訳した。
人は、自分がいちばん恐れている言葉に、相手の声を似せてしまうものらしい。
ある春の日、私はひとりの男の子を強く叱った。
名前は蓮。
卒業を間近に控えた六年生で、いつも明るく、少し落ち着きのない子だった。
その日は、桜並木で卒業記念の写真を撮る日だった。
ところが撮影の直前、蓮が校門のそばで泣いていた。
他の子どもたちは並んで待っている。
保護者も見ている。
私は焦っていた。
「どうした」
蓮は首を振るだけだった。
私は、その沈黙に苛立った。
いや、苛立ったのではない。
泣いている子の前で、どうしていいか分からなかったのだ。
私は祖母と同じ言葉を口にしていた。
「もう六年生だろ。人前で泣くんじゃない」
蓮の顔が、すっと固まった。
涙は止まった。
けれどそれは、泣きやんだのではなかった。
心の扉を、内側から閉めただけだった。
放課後、私の机の上に白いハンカチが置かれていた。
端に、小さな桜の刺繍がある。
その横に、蓮の字でメモがあった。
先生、ごめんなさい。
おばあちゃんのハンカチをなくしたと思って泣きました。
でも、桜の木の下に落ちていて、見つかりました。
私はそのメモを読んで、椅子に座ったまま動けなくなった。
蓮は、ふざけて泣いていたのではなかった。
大事なものをなくしたと思って泣いていたのだ。
それを私は、弱さだと決めつけた。
祖母にされたと思い込んでいたことを、今度は私が子どもにしてしまった。
なんという先生だろう。
その夜、私は祖母のいる病院へ行った。
祖母はもう長くは話せず、白い布団の上で、小さくなって眠っていた。
私はベッドのそばに座り、桜色のハンカチを膝に置いた。
「ばあちゃん」
声にすると、胸の奥が痛んだ。
「俺、子どもにひどいこと言った」
祖母は目を閉じたままだった。
「ばあちゃんも、昔からそうだったよな。泣くなって。人前で泣くなって」
言いながら、自分が情けなくなった。
弱い自分を嫌っていたのは、祖母ではなく、私自身だったのかもしれない。
その時、看護師さんが小さな封筒を持ってきた。
「お孫さんが来たら渡してほしいと、昨日おっしゃっていました」
封筒には、震えた字で私の名前が書いてあった。
中には、手紙が一枚入っていた。
達也へ。
私は昔から、言い方が下手でした。
泣くな、なんて言うつもりじゃなかった。
本当は、ひとりで泣くな、と言いたかったのです。
お前は小さい頃から、何でも自分のせいにする子でした。
母さんがいないことも、父さんが帰らないことも、自分が悪いからだと思う子でした。
私はそれが怖かった。
お前が涙を誰にも見せず、胸の中にしまい込んでしまうのが怖かった。
ハンカチを持ちなさいと言ったのは、涙を隠すためではありません。
涙が出た時、自分を粗末にしないためです。
そして、いつか誰かが泣いていたら、そっと差し出せる人になってほしかったからです。
先生になると聞いた時、私は本当にうれしかった。
お前は、泣いている子のそばにいられる人になると思いました。
でも、うれしいと言えませんでした。
ごめんね。
もし、これから泣いている子に会ったら、叱らないでやってください。
その子は弱いのではありません。
何かを大事にしているだけです。
お前も、泣いてよかったんだよ。
私は手紙を握ったまま、声を出さずに泣いた。
病室だから。
祖母が眠っているから。
もう遅いから。
そう言い訳をしながら、私はやっと泣いた。
祖母は、私の涙を嫌っていたのではなかった。
私がひとりで泣くことを、恐れていたのだ。
翌日、私は蓮に謝った。
「先生、言い方を間違えた。大事なものをなくしたと思ったら、泣いていい」
蓮は驚いた顔をした。
それから、小さくうなずいた。
私は桜色のハンカチを差し出した。
「これは先生のばあちゃんのハンカチなんだ。今日は、お守りに持っていてくれるか」
蓮は両手で受け取った。
卒業式の日、桜並木は満開だった。
蓮は校門の前で、私にハンカチを返した。
「先生、これ、ありがとうございました」
その端には、小さな涙のあとがあった。
私は何も聞かなかった。
涙の理由を、すべて聞き出す必要はない。
人には、人に言わずに抱えている春がある。
その年の桜が散る頃、祖母は静かに息を引き取った。
葬儀の帰り、私はひとりで桜並木を歩いた。
ポケットには、祖母のハンカチがあった。
風が吹き、花びらが肩に落ちた。
私はそれを払わなかった。
ばあちゃん。
俺、まだ上手に言えないよ。
子どもにも、自分にも。
でも、泣いている子を見つけたら、今度は叱らない。
そばにいる。
ハンカチを出す。
それだけは、約束する。
返事はなかった。
けれど、ポケットの中のハンカチが、ほんの少し温かい気がした。
桜並木の向こうから、子どもたちの声が聞こえる。
私は目元を拭き、校門へ向かった。
泣いてもいい。
それでも、人はまた歩いていける。
祖母が本当に教えたかったのは、きっとそのことだった。




コメント