「それ、私の切符ばさみですよね」
誰もいない映画館のロビーで、木田はゆっくり振り向いた。
明日の上映会を待つ赤い座席は扉の向こうで黙り込み、売店の小窓には季節外れの風鈴が下がっていた。
夜風が入り込み、ちりん、と一度だけ鳴らした。
「失くしたんじゃなかったのか」
「そう思っていました、十年も」
彼の手には、黒ずんだ真鍮の切符ばさみがあった。
旅行会社へ入った年に買い、添乗先の入場券や企画書の荷札へ、半月形の穴を開けていたものだ。
あの穴が私は好きだった。
何かを成し遂げた印のように見えたからである。
もっとも、私は他人の切符に開いた穴を、素直に祝えない人間だった。
十年前、若手旅行企画のコンクールで木田が最優秀賞を取り、私は二位だった。
彼の企画は、一本の映画を観たあと、その舞台に似た町を歩く一泊旅行だった。
私が温めていた「物語から出発する旅」と、ひどく似ていた。
拍手をしながら、私の指先だけが冷えていた。
表彰式のあと、木田は言った。
「君のは、旅行じゃないよ」
私は、その先を聞かずに会場を出た。
資料を入れた布袋まで置き忘れ、企画書だけは後日事務局から届いたが、切符ばさみは戻らなかった。
それ以来、木田の成功を耳にするたび、胸の中で小さな帳簿を開いた。
売上、受賞、新聞記事。
負けた数を数えるのは、努力するより簡単だった。
木田も顔を合わせるたび、私を「二位の人」と呼んだ。
今夜ここへ来たのは、頼み事があったからだ。
私の会社では、「出発しない旅」など商品にならないと、企画書を三度も戻されていた。
木田の次の上映旅行に、私の作った旅程表を一枚だけ入れてほしい。
そう頼むつもりだったのに、切符ばさみを見た途端、その小さな願いは帳簿の下へ隠れた。
「返そうと電話した」
木田は、ばさみの柄を親指で拭った。
「君は、いりません、と言って切った」
覚えていた。
忘れたふりをしていただけだった。
「明日の上映旅行、中止になるかもしれない」
木田は床の段ボールを顎で示した。
明日の催しは、古い映画を観たあと、図書館の旅行案内と昔の地図を手に、この町を二時間だけ旅するというものだった。
映画館と市立図書館は同じ文化会館に入り、二つの建物をつなぐ通路に夜間返却口がある。
防犯用のシャッターが下りる九時までに、使わない資料を返し、残す資料の一覧を図書館へ渡さなければ、明日の館外利用は認められない。
代替映写機の搬入に手間取り、手伝いの職員も一人、急用で帰っていた。
時計は八時十二分だった。
「私に言うことですか」
「君は頼みに来たんだろ」
嫌な男である。
こちらの弱さを見つける目だけは、昔から一位だった。
私は段ボールの脇に、日付の古いレシートを見つけた。
この映画館の売店で、十年前の表彰式の日に買った珈琲のものだった。
裏には私の字で、〈映画のあと、人は少しだけ別の町を歩ける〉と走り書きがある。
「これも、持っていたんですか」
木田は答えず、映写室の横にある小部屋を開けた。
狭い机、色褪せた路線図、ラベルプリンター、乾かないよう輪ゴムを巻いた青いスタンプ台があった。
スタンプ台の底には、私の名字が白いペンで書かれていた。
「ここを旅行受付にするつもりだった」
木田は机の引き出しへレシートを戻した。
「君が会社を辞めても、企画を続けられるように」
「辞めていません」
「辞めそうな顔は、していた」
腹が立った。
図星というものは、いつも相手を無礼者に見せる。
そこへ資料一覧を取りに、図書館の佐伯さんが戻ってきた。
彼女は古いレシートを見ると、懐かしそうに目を細めた。
「木田さん、何度も言っていましたよ」
佐伯さんは、私が十年間嫌ってきた言葉を口にした。
「橘の企画は旅行じゃない、帰ってくる練習なんだ、って」
同じ言葉なのに、続きがあるだけで刃物ではなくなった。
風鈴が、ちりん、と一度鳴った。
八時二十分。
私は上着を脱ぎ、床に膝をついた。
資料を、上映後に読むもの、町歩きに持ち出すもの、今夜返すものに分けた。
木田が番号を読み、私が一覧へ打ち込んだ。
競争なら、相手より一冊多く処理したかっただろう。
けれど今夜は、彼の手が止まれば私も止まり、私が迷えば彼が黙って地図を開いた。
八時五十四分、私たちは最後の段ボールを返却口へ滑り込ませた。
佐伯さんが一覧を受け取り、通路のシャッターを下ろした。
間に合った音はしなかった。
木田の荒い息と、私の膝についた埃だけが残った。
「市の広報には、立て直した担当者として橘さんの名前を載せましょう」
佐伯さんの言葉に、私は一瞬うなずきかけた。
会社へ持ち帰れば、棚に戻された企画を救う実績になる。
木田に勝ったと、十年ぶりに言える。
「いいえ、木田さんの名前にしてください」
私は自分の声が惜しそうに震えるのを聞いた。
「これは木田さんの企画で、私は今夜、手伝っただけです」
胸の帳簿から一枚、紙が抜けた。
晴れやかではなかった。
手柄が欲しいと思う自分は、まだそこにいた。
それでも、そんな自分まで追い出さなくてよい気がした。
佐伯さんが、返却口の前に並ぶ私たちを撮った。
二人とも笑い損ね、叱られた子どものような顔をしていた。
「それで、頼みは」
「次の旅程表を、私に一枚作らせてください」
木田は切符ばさみを私へ差し出した。
「一枚と言わず、全部作れ」
「そういう勝ち方をするから、嫌いなんです」
「知ってる」
翌朝、私はコンビニで印刷した昨夜の写真を、小部屋の引き出しにしまった。
飾れば和解の記念のようで、私たちには少し立派すぎた。
写真の下に古いレシートを重ね、真鍮の切符ばさみで半月の穴を一つ開けた。
ロビーの扉を開けると、風鈴が一度だけ鳴った。
旅の始まりにしては、ずいぶん小さな音だった。




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