団地の朝は早い。
まだ空が白みきらないうちから、どこかの玄関が開いて、新聞受けの金具が小さく鳴る。
階段を下りる足音、遠くで目を覚ます給湯器の低い唸り、ベランダで干されたままの洗濯物が、夜の湿り気を含んでかすかに揺れる気配。
新しい街の朝は、たぶんもっと澄ましているのだろう。
けれど古い団地の朝は、いつも少し生活に近すぎる。
私は、その近さが嫌いではなかった。
いや、好きだと言い切るには、ここでの暮らしは少し長すぎた。
慣れた、というのが、たぶんいちばん正しい。
人は長く住んだ場所を愛しているのではなく、そこから離れなかった事情に情を移しているだけかもしれない。
そういう少し嫌なことを、私は二十七にもなって、わりと平気で考えるようになった。
弁当屋で働いている。
団地の商店棟の一階にある、小さな店だ。
唐揚げ弁当、生姜焼き弁当、鮭弁当、のり弁、日替わり弁当。
昼になれば近くの工事現場の人たちが来て、夕方にはパート帰りの主婦や、一人暮らしらしい老人が寄る。
安くて、早くて、そこそこうまい。
胸を張るほどでもないけれど、ないと少し困る。
そういう店である。
私はレジと仕込みと配達をやっていた。
朝は米を炊き、揚げ物の衣をつけ、煮物の鍋を火にかけ、電話口で注文数を復唱しながら容器を並べる。
湯気と油と醤油の匂いが混じる厨房は、朝から少しだけ戦場に似ていた。
戦場など見たことはないが、人がせわしなく動いている場所は、だいたい似た顔をする。
私はその匂いに、長いこと守られてきた気がする。
忙しさというのは厄介だが、忙しい最中には、自分の寂しさまで後回しにできる。
祖母は、その弁当屋から歩いて五分の団地に住んでいた。
いや、正確には、つい半年前まで一緒に暮らしていた。
私の母は早くに亡くなり、父は別の土地で別の家庭を持った。
それで私は祖母に育てられ、そのまま高校を出て、近所の弁当屋で働きはじめた。
祖母は小柄で、口うるさくて、妙に手先の器用な人だった。
料理がうまかった。
うまかった、というと、いかにも手の込んだ献立を想像されるかもしれないが、そうではない。
煮物と卵焼きと、あとは冷めても嫌にならない塩加減。
その程度のことで、人は案外、長く生きていけるのだと教えるような味だった。
私は子どものころから、その味で育った。
遠足の日の弁当も、熱を出して寝込んだ日のうどんも、受験に落ちてふて寝した夜の味噌汁も、みんな祖母の味だった。
そのくせ、大人になると、人は育ててもらったものほど雑に扱う。
ありがたみがわからないからではない。
むしろ、ありがたいとわかっているからこそ、どこかで甘えてしまうのだろう。
祖母は、私が仕事から帰ると、よく言った。
「ちゃんと食べたの」
私は決まって、
「食べたよ」
と答えた。
食べていない日でも、そう言った。
疲れていたし、いちいち心配されるのが面倒だった。
心配されるというのは、こちらのだらしなさを静かに照らされることだから、機嫌の悪い日はそれだけで少し腹が立つ。
私はそういう、ずいぶん安っぽい苛立ちを、若さのせいにして長く放っておいた。
祖母が転んだのは、去年の秋だった。
団地の階段で足を踏み外し、手首を折った。
命に別状はなかったが、そこから少しずつ弱っていった。
もともと頑丈な人ではなかったし、年齢も年齢だった。
入院と退院を繰り返すたび、家の中の時間の流れが少しずつ変わっていった。
食卓の椅子に座るときのためらい。
味噌汁をよそう手の震え。
買い物袋を持つ時間の短さ。
風呂場の段差を前にした、ほんの小さな沈黙。
私はそれを、ちゃんと見ていたはずだった。
見ていたのに、どこかで見ないふりをしていた。
気づいてしまうと、こちらの暮らしも変えなければならないからである。
大人になるとは、たぶん、気づいたことを見なかったことにできなくなることだ。
私は、その覚悟がずっとなかった。
冬の終わりごろから、店は急に忙しくなった。
近くの工事現場が広がり、昼の注文が一気に増えたのである。
朝から電話が鳴りっぱなしで、仕込みも配達も追いつかない。
店長は愛想のいい人だったが、人手を増やす判断だけはいつも遅かった。
それで現場は、だいたい今いる人間が無理をして埋める。
私は朝早く出て、夜遅く戻るようになった。
祖母は、そのころにはもう、ほとんど家の中だけで過ごしていた。
それでも私が出る前には起きてきて、台所で何かしようとした。
「やらなくていいよ」
私は靴を履きながら言った。
「危ないから、座ってて」
言葉だけ見ればやさしいが、実際の声はずいぶん荒かったと思う。
忙しさは、人を立派にするどころか、たいていの場合、ただ声を悪くする。
祖母はそれでも、
「お昼にでも食べなさい」
と言って、小さな弁当箱を差し出した。
白いプラスチックの、昔から家にある弁当箱だった。
小学校の遠足でも見たし、中学の運動会でも見た。
少し傷がついていて、蓋の端がうっすら黄ばんでいた。
たぶん、うちにある器の中で、いちばん長く私を知っているものだった。
私はそれを見て、思わず顔をしかめた。
「いらないよ。店で食べるから」
「でも、あんた、忙しいと食べないでしょ」
「だから、いいって」
そこでやめておけばよかったのに、私はさらに言ってしまった。
「こういうの、もういいから。子どもじゃないんだから」
祖母は黙った。
手の中の弁当箱だけが、妙に白く見えた。
今でも、その白さだけはやけに鮮明に思い出す。
あの日の朝の光まで含めて、そこだけ切り取られて残っている。
私はそのまま仕事へ行った。
昼はたしかに忙しかった。
工事現場からの注文が三十を超え、近くの学習塾からも会議用の弁当が入り、厨房は朝から晩まで揚げ物の音で満ちていた。
店長が「あと三つ唐揚げ追加」と叫び、私は返事をしながらレジを打ち、配達用の袋を肩に引っかけて外へ出た。
昼休みらしい昼休みはなかった。
夕方になってようやく、売れ残ったコロッケを一つ口へ放り込み、水で流しこんだ。
そのとき、祖母の弁当箱を突き返した朝のことを思い出した。
思い出したが、それだけで終わった。
人間は後悔の入口までは驚くほど簡単に立てるくせに、そこから先へ入るのはたいてい夜まで先延ばしにする。
だが、その夜、私はその入口に立ったまま、うまく帰れなくなった。
家へ戻ると、祖母が居間で倒れていた。
テーブルの脚に肩を預けるようにして、浅く息をしていた。
私は名前を呼び、返事がないことに余計に慌て、救急車を呼んだ。
白い廊下で、油の匂いの残る制服のまま、朝まで壁にもたれていた。
祖母は意識を戻さなかった。
三日後に亡くなった。
医者は、年齢と心臓のこともあって、と言った。
私はうなずいた。
うなずくしかなかった。
泣いたのは葬儀のあとではなく、その翌週、冷蔵庫の奥からあの弁当箱が出てきたときだった。
包み布にくるまれたまま、きちんとしまわれていた。
私はそれを流し台へ持っていき、しばらく開けられなかった。
開けたら、本当に祖母がいなくなったことが、妙な形で証明されてしまう気がしたからである。
けれど、弁当箱は開いた。
世の中の蓋というものは、だいたいこちらの感傷に無頓着だ。
中には、冷え固まった卵焼きと、小さな梅干しと、甘辛く煮た鶏肉が二つ入っていた。
それだけだった。
それだけなのに、私は流し台に手をついて泣いた。
食べてもいないくせに、「食べたよ」と言い続けた日々が、急に一列になって胸へ返ってきた。
祖母はずっと知っていたのだろう。
私がちゃんと食べていないことも、疲れていることも、言葉だけ荒くなって中身が追いついていないことも。
知っていて、あの朝も弁当箱を差し出したのだ。
そして私は、忙しさを盾にして、それを払いのけた。
泣きながら弁当箱を洗おうとして、底に薄く折れた紙がはさまっているのに気づいた。
紙ではなかった。
レシートだった。
近所のスーパーで、卵と醤油と鶏もも肉を買った、よくあるレシートだった。
その裏に、祖母の字があった。
小さく、少し震えた字で、こう書かれていた。
お昼に食べられなかったら、夜でもいい。
あんたは、がまんすると黙るから。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。
明日も働くんだから。
それだけだった。
それだけなのに、私は声を出して泣いた。
遺書というほど立派なものではない。
説教でもない。
ただの、食べそこねた弁当についてくる一言である。
けれど、それが祖母らしかった。
この人は最後まで、私に生きろと大げさには言わなかった。
がんばれとも、後悔するなとも、立派になれとも言わない。
ただ、食べて、寝て、明日も働け、と書く。
暮らしというものを、泣き言の逃げ場にしない人だった。
私はその晩、冷蔵庫の中の古いごはんを温めた。
祖母の弁当箱の中身は、もう食べられなかった。
食べてしまうには時間が経ちすぎていたし、その判断だけは、大人としてまだ残っていた。
その代わり、卵を焼いて、梅干しを出して、味の薄い味噌汁をつくった。
鶏肉はなかったから、冷凍してあった小さな鮭を焼いた。
ひどくありふれた夜食だった。
けれど、その湯気を見ていると、私は初めて、祖母がいなくなったあとの生活を、自分が続けていかなければならないのだと思った。
悲しむことと、生きることは別ではない。
むしろ人は、悲しいまま米を研ぎ、味噌を溶き、朝になれば仕事へ行く。
そうやってしか、救われないのかもしれない。
翌朝、私は少し早く起きた。
弁当屋へ行く前に、自分のぶんの小さな弁当を詰めた。
白い弁当箱ではない。
けれど似たような大きさの、安い保存容器に、卵焼きとごはんを入れた。
梅干しも一つ。
それだけで十分だった。
店へ持っていくと、昼のいちばん忙しい時間のあと、私はほんの五分だけ裏口に座ってそれを食べた。
配達用のバイクの音が遠くで止まり、換気扇の唸りが壁越しに聞こえていた。
味は、大したことがなかった。
祖母ほど上手くないのだから当然である。
卵焼きは少し焦げ、塩もわずかに足りなかった。
だが、食べながら私は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
うまく言えないが、祖母は死んでしまったのに、いなくなったわけではない気がした。
あのレシートの裏の字が、弁当箱の蓋を開けるたび、湯気の向こうから静かにこちらを見ている。
そういう感じだった。
私は今でも、忙しいとすぐ食事を後回しにする。
人間というものは、少し泣いたくらいでは、根本の癖までは直らない。
それでも、前ほどひどくはない。
昼に食べられなければ、夜でも食べる。
ちゃんと寝る。
明日も働く。
そういう、祖母なら当たり前すぎて口にも出さなかったことを、私はレシートの裏書きに教わった。
春になって、団地の桜はまた、くたびれた植え込みの上で勝手に咲いた。
店では新しいパートさんが入り、私は少しだけ早く帰れる日が増えた。
帰り道、商店棟の前で総菜の匂いが流れてくると、私は時々、祖母に何か買って帰らなくていいことに、ふっと足を止める。
そこで少し寂しくなり、それから、だからこそ自分のぶんを買って帰る。
そういうふうに、生活は続いていく。
派手に立ち直るのではない。
小さな惣菜を買い、米を炊き、弁当箱を洗う。
その繰り返しの中で、ようやく少しずつ、息ができるようになる。
団地の夜は、相変わらず生活に近い。
どこかの部屋で鍋の蓋が鳴り、風呂の湯を抜く音がして、遅く帰った誰かの足音が階段を上がる。
私は部屋の台所で、小さな弁当箱を洗う。
水の音の向こうに、祖母の声が聞こえる気がする。
ちゃんと食べたの。
私は蛇口を閉めて、小さく答える。
「今日は、食べたよ」
今度は、嘘ではない。




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