白い布の乾くころ

クリーニング店の内窓 泣ける話

別れた人の名前は、口に出さないほうが長持ちする。

そう思って、私は三年も黙っていた。

名前にしてしまうと、その人がまたこちらへ歩いてきそうで嫌だったのだ。

クリーニング店で働いて八年になる。

商店街の端にある、ガラス戸の古い店だ。

ワイシャツの糊の匂い。

蒸気の熱。

濡れた布が乾いていく途中の、あの少しだけ甘い匂い。

私はそういうものに囲まれて暮らしている。

汚れを落とし、皺をのばし、また着られる形へ戻す。

人の暮らしというのは、案外そういう地味な仕事に支えられているのだと、この歳になるとわかる。

けれど、心にできた折り目は、そう簡単には戻らない。

元恋人のことを、私は長いこと怒っていた。

怒っていた、というより、怒っていることで自分を保っていたのかもしれない。

怒りは便利だ。

悲しいより先に、少しだけ胸を固くしてくれる。

彼は、返事の遅い人だった。

付き合っていたころからそうだった。

朝に送ったメッセージの返事が夜になることは珍しくなく、ひどいと翌日になった。

私はそのたびに不安になり、腹が立ち、でも重たいと思われたくなくて、平気なふりをした。

平気なふりというのは、だいたい平気でない人間がする。

彼は会えば優しかった。

話もよく聞いたし、笑うと目尻に皺が寄った。

私が何でもない愚痴をこぼしても、途中で遮らずに聞いた。

商店街を歩くときは、荷物を自然に持つ人だった。

でも文字になると、急に遠くなる人だった。

画面の向こうへ行ったとたん、こちらの体温を見失うみたいに、返事が遅くなった。

それでも好きだったから、私は待った。

待ちながら、だんだん擦り減った。

待つという行為は、じつはかなり傲慢だ。

相手もまた生きていると分かっているくせに、自分の不安の尺度で時間を測ってしまう。

けれど恋人というものは、ときどきそうやって身勝手に傷つく。

最後のきっかけは、ほんの小さなことだった。

母が入院した夜、私は閉店後の店で一人、伝票をまとめながら彼に連絡した。

大した病気ではないらしいが、検査の結果が出るまで不安で、少しだけ声を聞きたかった。

その日は、朝から雨だった。

店の軒先から落ちる雫を見ながら、私はスマートフォンに、

『今日は話せる?』

とだけ送った。

本当は、もっと書きたかった。

怖い、とか。

いま一人でいるのが嫌だ、とか。

でもそういう言葉は、恋人相手ほど書きにくいことがある。

既読はついた。

返事は来なかった。

深夜になっても来なかった。

私は病院の待合室で、ずっと携帯を握っていた。

ガラス越しの朝日が白くて、看護師の靴音だけがやけに明るく響いた。

自販機の缶コーヒーはぬるく、椅子のビニールは妙に冷たかった。

母は検査に呼ばれ、私は何もできず、ただ通知音を待った。

結局、返事が来たのは二日後だった。

『ごめん、ばたばたしてた』

それだけだった。

私はその短い文で、何かがぷつりと切れる音を聞いた。

ばたばた。

人ひとりの不安や夜を、その五文字で済ませるのかと思った。

私は『もういい』と返した。

彼からはすぐに『ちゃんと話したい』と来たが、私は読んで閉じた。

そうして、そのまま終わった。

あとで共通の知人づてに、彼の父親も同じ頃に倒れていたと聞いた。

だから返せなかったのだろう、と頭では理解した。

けれど、理解したからといって傷が消えるわけではない。

私は私で、待たされた事実だけを抱えていたし、彼は彼で、事情をきちんと説明しないまま黙った。

それだけのことで、人は案外、きれいに別れられてしまう。

いや、きれいではないな。

雑に切れた糸のように、ほつれたまま離れてしまうのだ。

それから三年、私は彼を思い出さないように暮らした。

商店街は狭いから、偶然見かけることもあった。

向こうもこちらに気づいたようだったが、会釈もしなかった。

あるいは、したのに私が見ないふりをしたのかもしれない。

そういう曖昧さに、人の意地はよく隠れる。

母はその後たいしたこともなく退院した。

だからこそ、私は自分の怒りをなおさら手放せなかったのかもしれない。

もし取り返しのつかない結果になっていたら、私は彼をもっとはっきり憎めただろう。

でも母は助かった。

彼の事情もあとから知った。

そのせいで怒りは中途半端になり、行き場のないまま長く残った。

春の終わりの雨の日だった。

昼すぎ、店のベルが鳴って、私はカウンターから顔を上げた。

彼だった。

三年ぶりだった。

少し痩せたように見えた。

髪は短く、以前より静かな顔をしていた。

私は一瞬、胸の奥がひっくり返るのを感じたが、店員の声で、

「いらっしゃいませ」

と言った。

彼はスーツの上着を出し、それから少し迷って、ポケットから白いハンカチを取り出した。

端に薄い灰色の刺繍がある、見覚えのあるものだった。

私が昔、誕生日に贈ったやつだ。

社会人になったばかりのころ、背伸びして少しいいものを買った。

包装紙まで覚えている。

私は気づかないふりをした。

「染み抜き、できますか」

「状態によります」

自分でも驚くほど事務的な声が出た。

ハンカチには、茶色い小さな染みがひとつあった。

古い血にも見えたし、錆にも見えた。

私は受取票を書きながら、名前を聞いた。

彼は少し苦く笑って、名前を言った。

そんなこと、忘れるわけがないのに。

受取予定日を告げると、彼は「そのとき、これも」と言って、封筒をカウンターに置いた。

「読まなくてもいい。でも、捨ててもいいから」

それだけ言って、帰っていった。

私はその封筒を、すぐには開けられなかった。

カウンターの下にしまい、見ないようにした。

けれど、布というものは不思議だ。

受け取った品物を仕分けしているあいだも、あの白いハンカチだけが、やけに目に入った。

白というのは、いちばん何でも映してしまう色なのだろう。

閉店後、アイロン台の横の椅子に座って、ようやく封を切った。

中には便箋が二枚入っていた。

彼の字は、付き合っていた頃と変わらず、少し右上がりだった。

『三年前、返事が遅れたことを、ずっと謝りたかった』

最初の一行で、私はもう息が浅くなった。

『あの夜、父が倒れた。救急車に乗って、そのまま集中治療室の前にいた。君のメッセージは見た。でも、何を返しても足りない気がして、ちゃんとした言葉を探しているうちに、返せなくなった』

私は便箋を持つ指に力を入れた。

あの人は昔から、言葉を出す前に考えすぎるところがあった。

付き合っていた頃も、私が怒ると、すぐ謝らずに黙ることがあった。

そのたび私は、どうしてすぐに一言ごめんと言えないのだろうと思った。

でも彼の中では、軽く言うことのほうが怖かったのかもしれない。

『二日後に送った“ばたばたしてた”は、自分でも最低だと思う。恥ずかしかった。遅れたことも、事情を言い訳みたいに書くことも』

そこまで読んで、私は目を閉じた。

待たされた側は、その二日をずっと覚えている。

けれど返せなかった側もまた、その二日から動けなくなることがあるのだと、そのとき初めて思った。

手紙は続いていた。

『君のお母さんのことも、あとで知った。本当は会いに行きたかった。でも、もう遅かったし、自分が連絡しても君をまた困らせるだけだと思った』

『だから黙った。黙って、君にもらったハンカチだけ、ずっと持っていた』

私はそこで初めて、あの染みが何なのかを考えた。

彼は書いていた。

『父が亡くなった朝、病院の水道で顔を洗ったとき、ポケットに入っていたそのハンカチを使った。たぶんあの染みは、そのときのものです』

私は便箋の上に一滴、涙を落とした。

すぐ拭ったが、少しにじんだ。

あのハンカチは、私の贈り物である前に、彼の喪の時間を吸った布になっていたのだ。

『君に会いに来たのは、やり直したいからじゃない』

その一文に、少しだけ救われ、少しだけ傷ついた。

『君が三年前に手放したものを、いまさら返してほしいとは思わない。でも、黙ったままだと、あのときの君の夜が、ただ見捨てられた夜のまま残ってしまう気がした。そうじゃなかったと、遅すぎても伝えたかった』

遅すぎる。

本当にそうだ、と思った。

けれど、遅すぎる言葉にだって、届き方というものはある。

最後に、こうあった。

『ハンカチ、きれいになるなら、それでいい。ならなくても、それでいい。もう持っていてもいいし、処分してくれてもかまわない。君が決めてください』

私は長いこと、便箋を膝の上に置いたまま動けなかった。

店の奥では乾燥機の音が小さく唸っていた。

回り続ける布の音は、遠い海みたいに聞こえることがある。

私はその晩、ひどく泣いた。

彼をまだ好きだから泣いたのではない。

たぶん、三年前の自分がようやく報われた気がして泣いたのだ。

見捨てられたのではなく、向こうもまた、ひどく下手に傷ついていたのだと知ってしまったから。

私は待合室の自分を思い出した。

返事を待ちながら、もう大事にされていないのだと思い込んだ、あの夜の自分を。

あの子を、ようやく抱きしめ直せる気がした。

翌日、私はそのハンカチを丁寧に洗った。

白い布をぬるま湯にひたし、染みの部分をそっと押さえる。

布は思ったより傷んでいて、強く擦ればすぐ毛羽立ちそうだった。

まるで人の記憶みたいだと思った。

無理にきれいにしようとすると、かえって繊維が壊れる。

染み抜きの液をほんの少しだけ置いて、時間を待つ。

待ちながら私は、昔彼が、このハンカチをきれいに折って胸ポケットに入れていたのを思い出した。

夏祭りの日、汗を拭くのに使って、

「もったいないな」

と私が言うと、

「使うためにもらったんでしょ」

と笑った。

あの何でもない会話の温度まで、布の目から戻ってくる気がした。

染みは、完全には消えなかった。

うっすらと影が残った。

私はそれでいいと思った。

何もかも真っ白になるほうが、たぶん嘘だ。

受け取りの日、彼は約束の時間ぴったりに来た。

昔なら少し遅れてきただろうに、と、そんなことを思ってしまった自分が可笑しかった。

私はハンカチをたたんで渡した。

「完全には取れませんでした」

彼はそれを受け取って、小さく頷いた。

「ありがとう」

少し沈黙があった。

私はカウンターの木目を見た。

彼はたぶん、何か言うべきか迷っていた。

けれど今度は、先に私が言った。

「手紙、読みました」

彼は顔を上げた。

「……ごめん」

「うん」

私はそれ以上を待たなかった。

「でも、もう大丈夫です」

その言葉は、思ったより静かに出た。

本当に大丈夫なのか、自分でも分からなかった。

でも少なくとも、もうあの夜のままではなかった。

彼はしばらく私を見ていたが、やがて、

「よかった」

とだけ言った。

その“よかった”は、昔より少しだけちゃんと届いた。

彼が店を出たあと、私はしばらくガラス戸の向こうを見ていた。

追いかけたい気持ちは、不思議と起きなかった。

やり直すには、私たちは少し違う季節まで来てしまったのだろう。

でも、だからこそ、手放せるものもある。

手放すというのは、忘れることではない。

なかったことにするのでも、傷が消えることでもない。

布に薄い影が残るみたいに、少しの痛みを引き受けたまま、それでももう握りしめないと決めることだ。

夜、店じまいをして、私は売り場の隅に置いてある自分のハンカチを手に取った。

白地に細い青の縁取り。

ありふれたものだ。

けれど、指先で布をたたむと、なぜか胸の奥が少しだけ整う。

商店街のシャッターが一枚ずつ閉まっていく音がした。

八百屋の呼び声も止み、揚げ物の匂いだけが少し残っている。

私は店の明かりを落とし、最後にガラスへ映る自分を見た。

前より少し、やわらかい顔をしていた。

あの人の返事は遅かった。

遅すぎたくらいだ。

でも、届かなかったわけではなかった。

だから私は、明日もまた店に立つ。

誰かの大事なシャツや、子どもの制服や、弔いの黒い服を受け取って、汚れを落とし、皺をのばす。

戻らないものはある。

戻さなくていいものもある。

それでも人は、ときどき布を洗うみたいに、自分の過去にそっと水を通さなければならないのだろう。

白いハンカチが乾くころ、私はようやく、あの恋を静かに手放していた。

そして手放したあとにも、布のやわらかさだけは、ちゃんと掌に残っていた。

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