【感動する泣ける話】葬儀社スタッフの私が、祖母の遺品の封筒で知った祈り

雨の小道と灯り 泣ける話

雨の匂いというものは、どうしてああ、人を昔へ引きずり戻すのだろう。

濡れたアスファルトの冷たい匂い。

古い塀にしみこんだ苔の青臭さ。

排水溝にたまった花びらが、泥にまじって少し甘く腐っていく気配。

そういうものを吸いこむたび、私は決まって、祖母の家へ続く細い路地を思い出す。

町はずれの、車もろくに入れないような、曲がりくねった古い道だった。

雨の日に二人で歩くには少し狭く、私が大きくなってからは、祖母がいつも半歩だけ前を歩いた。

振り返って、
「ほら、こっち。水たまりあるから」
と、明るい声で言う。

その声が妙に呑気だったものだから、私は長いこと、祖母は寂しさや老いと無縁の人だと思っていた。

今にして思えば、明るい人ほど、ひとりでいる時間の長さを人に見せない。

見せないだけで、消しているわけではないのだ。

私は葬儀社で働いている。

遺影の位置を直し、会葬者の椅子を並べ、骨壺を包む白布の皺を伸ばし、泣き崩れる家族に湯のみを差し出す。

仕事柄、人の死に慣れているでしょう、と言われることがある。

そんなもの、慣れるはずがない。

ただ、驚いた顔をしなくなるだけだ。

死はいつだって、その家だけの形をしている。

棺に入れる服で兄弟が言い争う家もあれば、喪主挨拶の途中で急に笑ってしまう娘さんもいる。

笑うしかない悲しみというものが、この世にはたしかにあるのだと、この仕事は教えてくれる。

私はそのことを、少しありがたく思っている。

立派な慰めなど言えなくても、椅子を一脚多く出すことや、冷えたお茶を新しく替えることならできる。

大した人間でないからこそ、手先で役に立てることがある。

そういう、卑小で静かな実感に、私はずいぶん救われてきた。

祖母が亡くなったのは、去年の六月だった。

梅雨のさなかで、朝から細い雨が切れ目なく降っていた。

私はその日、別の通夜の準備に入っていて、電話に出られなかった。

祭壇の花の高さを合わせている最中で、ポケットの携帯が何度か震えたのを覚えている。

こういうとき、嫌な予感というものは、たいてい当たる。

けれど当たってほしくないから、人はすぐには折り返さない。

私は五分だけ、いや十分だけと、自分の中で先延ばしにした。

それから結局、折り返したときにはもう遅かった。

母は泣きながら、祖母は眠るようだったと言った。

そういう言い方は、たいてい残された者のための言い方で、本当に眠るようだったかどうかは、本人にしかわからない。

私は会社を早退して、祖母の家へ向かった。

あの雨の路地は、昔よりさらに細く、暗く見えた。

塀の漆喰はところどころ剥がれ、紫陽花だけが妙に元気に色づいていた。

玄関先には、見慣れた花柄の傘が立てかけてあった。

もう使う人のいない傘というのは、ひどく胸に悪い。

黙って立っているくせに、こちらの不在や遅れを責めてくる。

祖母は、小柄で、よく喋る人だった。

煮物の味が少し濃くて、テレビの音が大きくて、私が帰るたびに同じ菓子を出した。

「これ好きだったでしょう」

そう言って出してくるのだが、正直に言えば、私はそれがあまり好きではなかった。

粉っぽい落雁で、口の中の水分を遠慮なく奪っていく。

けれど祖母は、私が子どものころ一度だけ「おいしい」と言ったのを、ずっと覚えていたのだろう。

そういう記憶の仕方をする人だった。

人が忘れた小さな好みや、小さな失言を、ひどく長く抱えている。

私は高校を出て地元を離れてから、祖母にあまり会わなくなった。

会えば会ったで、ちゃんと食べているか、顔色が悪い、結婚はまだか、仕事はしんどくないか、と矢継ぎ早に訊かれるのが少し面倒だった。

心配されるのが、鬱陶しかったのだ。

若い人間は、自分の不機嫌にはいちいち深い理由があると思い込みがちだが、たいていは単なる甘えである。

私もその例にもれなかった。

祖母から届く手紙も、最初のうちは返していたが、そのうち間が空くようになった。

淡い花柄の便箋いっぱいに、丸い字で近況が書いてある。

今日は紫陽花が咲いた。

向かいの奥さんが転んだ。

あんたの好きだったコロッケを久しぶりに作った。

近所の子が背を抜かした。

どれも、どうということのない話ばかりだった。

だが私は、そのどうということのない話に息苦しくなった。

私の知らないうちに老いていく人の時間が、封筒の中にぎゅうぎゅう詰めにされている気がしたからだ。

私は忙しかった。

たしかに忙しかった。

だが、それを言い訳にするのは少し卑怯だろう。

本当は私は、祖母の時間に触れるたび、自分が遅れているような気がして嫌だったのだ。

きちんと生きていない自分を、あの丸い字が静かに照らしている気がした。

あるとき、祖母の手紙に、こんな一文があった。

「こちらはもう、いつどうなってもいいようにしています」

私はその一文を読んで、ひどく腹が立った。

何を弱気なことを言っているのだろう、と思った。

いや、違う。

弱気な言葉を受け止めるだけの余裕が、私にそのときなかったのだ。

重い。

面倒だ。

そんなふうに感じてしまった自分を認めたくなくて、私は祖母の言葉のせいにした。

返事を書く気にもなれず、その手紙を机の引き出しにしまった。

それきり二か月ほど、連絡をしなかった。

そのあと電話をかけたとき、祖母はいつも通り明るい声で出た。

「忙しいのにありがとね」

それだけだった。

私は妙にばつが悪くなって、あの手紙のことには触れなかった。

祖母も何も言わなかった。

たぶん、それが最後のまともな会話だった。

葬儀は、勤め先とは別の会社に頼んだ。

自分の会社ではやりづらい、という、いかにも職業人らしい理屈を私は口にしたが、本当は、祖母の死を仕事の段取りの中に置きたくなかっただけだ。

私は喪主でもなく、ただ手伝いをする親族の一人として式場を行き来した。

祭壇の花の向きが少し気になり、受付の筆記具の並べ方が気になり、僧侶の控室のお茶の温度まで気になった。

そうして気になるたび、私は自分が嫌になった。

祖母が死んでいるのに、私はまだ職業病のほうを先に働かせている。

人は案外、肝心な場面でも変われない。

通夜が終わり、親戚もだいぶ帰ったあと、母と二人で遺品を少し整理していた。

仏間の箪笥の引き出しから、古い封筒が何通か出てきた。

輪ゴムでまとめられていて、表に私の名前が書いてあるものもあった。

母が「明日にしたら」と言ったが、私はその場で一通だけ抜き取った。

見覚えのある便箋だった。

あの、私を腹立たせた手紙と同じ、淡い水色の花柄の便箋。

何となく嫌な予感がした。

死んでからまで、こちらを責めるようなことが書いてあったらどうしよう、と、情けないことを考えた。

けれど封を開けてみると、中には手紙ではなく、小さな茶封筒が入っていた。

表に祖母の字で、
「もし先に死んだら、これだけは読んでください」
とある。

私は一瞬、笑いそうになった。

ずいぶん芝居がかったことをする人だと思ったのである。

だが、その茶封筒の中の便箋を読んだとたん、私は息を止めた。

「前の手紙の、いつどうなってもいいように、というのは、身辺整理のことです」

最初の一文が、それだった。

たったそれだけで、胸のあたりが鈍く痛んだ。

続きは、こうだった。

「あんたに、もう迷惑をかけないようにと思って、通帳や印鑑や、保険のことをまとめています。死にたいとか、そういう意味ではありません。びっくりさせたならごめんね」

私は仏間の畳の上で、その便箋を持ったまま動けなくなった。

勘違いだったのだ。

祖母は弱気になっていたわけでも、私に当てつけていたわけでもなかった。

ただ、老いた自分にできる最後の片づけを、きちんとやっておこうとしていただけだった。

それを私は、勝手に「重い」と決めつけて、返事をしなかった。

便箋はまだ続いていた。

「あんたは仕事でたくさんのお別れを見ているから、かえって身内のことは嫌かもしれないね」

「でも私は、あんたが人の悲しいときにそばにいられる仕事をしているのを、えらいと思っています」

「小さいころ、雨の日に路地で転んだ子を、あんただけが最後まで待っていたでしょう。あのとき、この子は人を急がせない子だと思いました」

そこで私は、とうとう駄目になった。

記憶の底に、古い場面が浮かんだからだ。

小学生のころ、祖母の家の前の路地で、近所の女の子が雨に滑って転んだことがあった。

ランドセルを濡らして泣いていたその子を、みんなは先に屋根のあるところへ走って置いていった。

私はなぜかその子の傘を拾って、立ち上がるのを待っていた。

たったそれだけのことだ。

私はとっくに忘れていた。

そんなつまらないことを、祖母は覚えていたのである。

「あんたはやさしい子です。愛想がないだけで」

その一文に、私は泣き笑いした。

ひどい褒め方だと思った。

だが、いかにも祖母らしかった。

大げさな言葉で持ち上げるのでなく、少し笑える形でしか本気を言えない人だったのだ。

便箋の最後には、こうあった。

「返事が来ないときも、嫌われたとは思いませんでした。ただ忙しいのだろうと思っていました」

「でも、できれば一度、あの路地をまた一緒に歩きたかったです」

「叶わないことは祈るしかないので、私は祈ります。あんたが、あんたを嫌いになりすぎませんように」

読み終えたとき、外ではまだ雨が降っていた。

軒先から落ちる雫の音が、妙に律儀に聞こえた。

私は便箋を両手で持ったまま、しばらく泣いた。

祖母の死そのものに対して、というより、自分の勘違いの浅ましさに泣いた。

人の言葉の半分も受け取らず、自分が傷つかないことばかり考えていた、その狭さに。

通夜のあとの家というのは、静かすぎて少し残酷だ。

さっきまで人の気配で埋まっていた部屋が、急に本来の空虚を取り戻す。

私は立ち上がり、祖母の家の玄関へ行った。

あの花柄の傘を借りて、ひとりで外に出た。

雨の路地は細く濡れて、街灯の光を鈍く映していた。

塀の向こうでは紫陽花が濃く咲いていた。

私はその道を、駅へ向かうでもなく、ただ祖母と歩いた記憶の速さで歩いた。

半歩前を行く祖母はいない。

振り返って、
「ほら、こっち」
と言う声もない。

そのくせ、曲がり角のたびに、そこにいそうな気がした。

人が死ぬというのは、いなくなることではなく、いないまま居続けることなのかもしれない。

厄介な話だ。

私たちは忘れたふりをしても、匂いや道の濡れ方ひとつで、簡単に呼び戻されてしまう。

路地の途中で、私は立ち止まった。

そして、傘を持つ手とは反対の手で、便箋の入った封筒を胸に押し当てた。

祈る、ということを、私はこれまであまり信じてこなかった。

願っても叶わないことが多すぎるからだ。

だが、その夜ばかりは、祈りというのは叶えるためのものではなく、失ったあとで壊れきらないための姿勢なのかもしれないと思った。

祖母はもういない。

一緒に路地を歩くこともできない。

謝るのも遅い。

ありがとうを言うのも遅い。

それでも、遅いまま胸に持って歩くことはできる。

それが祈りにいちばん近いのではないか、と、私は濡れた道の上で思った。

翌日、出棺の前に、私は祖母の棺へ一枚の便箋を入れた。

短い手紙だった。

「勘違いして、ごめん」

「返事をしなくて、ごめん」

「私はたぶん、あなたが思うより、あなたに大事にされていました」

そこまで書いて、最後だけ少し迷った。

けれど結局、こう書いた。

「今度は急がせないように生きます」

棺のふたが閉まる前、白い花のあいだにその便箋が見えた。

祖母なら、字が汚いと笑うかもしれない。

それでもいいと思った。

雨は、火葬場へ向かうころには少し弱くなっていた。

窓の外の路地が、洗い直されたみたいに光っていた。

私は膝の上で封筒を撫でながら、目を閉じた。

祈るしかないことは、たしかにある。

けれど、祈るしかないことがあるから、人はもう少しだけ人にやさしくなれるのかもしれない。

祖母の祈りが、私にそうしたように。

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