つぎの停留所

バス停で手紙を読んでいる人 泣ける話

母が死んだと聞かされたとき、私はハンドルを握っていた。

正確に言えば、「危ないかもしれない」と聞かされたのだが、人はそういうとき、耳に入った言葉を勝手にいちばん悪い形へ変える。

私はその瞬間、もう母を失った気でいた。

終点まで、あと七つ停留所があった。

私はバスを止めるわけにいかなかった。

乗客は十一人。

買い物帰りの老夫婦。

制服の高校生。

病院へ向かうらしい痩せた男。

赤い毛糸の帽子をかぶった女の子。

みな、私の事情とは無関係に、それぞれの行き先を持って座っていた。

それが少しだけ、有難かった。

誰かを乗せているあいだは、自分の人生を考えずに済む。

そういう種類の仕事だ。

地方の路線バス運転士になって十五年になる。

町は小さい。

海も山も近いくせに、人の気持ちだけは妙に遠い。

いや、遠かったのは、たぶん私のほうだ。

決められた道を、決められた時刻に走ることばかり覚えて、肝心なところで立ち止まる術を、いつのまにか失っていた。

母とは、三年前からろくに口をきいていなかった。

喧嘩らしい喧嘩ではない。

もっと、たちの悪いものだった。

誤解である。

しかも、いま振り返れば、ずいぶん情けない誤解だった。

父が亡くなって半年ほど経った頃、私は会社の都合で早朝便と夜便ばかり任されていた。

朝はまだ暗いうちに家を出て、夜は町の灯りがまばらになるころに戻る。

家へ帰っても、風呂に入って、飯をかき込み、寝るだけだった。

母は一人で、昔からの小さな惣菜屋を続けていた。

父が生きていたころから二人で切り盛りしていた店だが、父がいなくなってからは、母ひとりで鍋を回していた。

私は手伝うこともできず、たまに顔を出しても、売れ残りの煮物を黙って持たされるだけだった。

「食べんと倒れるよ」

母はいつもそう言った。

優しい言葉を言ったつもりなのだろうが、口調がきついので、私は命令されたようにしか聞こえなかった。

私も私で、素直に受け取れない年齢になっていた。

ある晩、営業所で点呼を終えたあと、同僚の沢村が缶コーヒーを片手に言った。

「おまえのお母さん、この前バス停で怒っとったぞ」

私は時刻表の確認をしながら、「へえ」とだけ返した。

沢村は、悪気のない顔で続けた。

「あんたは親のことなんか、もうどうでもいいんやろってさ」

私はそのとき、手にしていた運行表を少し強く握った。

だが、詳しく聞かなかった。

聞けばよかったのに、聞かなかった。

疲れていたのだと思う。

いや、疲れのせいにするのは卑怯だ。

本当は、確かめるのが怖かったのだ。

母なら言いそうだ、と、どこかで思っていた。

昔から口のきつい人だった。

寂しい、会いたい、心配している。

そういうことを、そのまま言えない人だった。

愛情のある人間ほど、どうしてああも言葉の運転が下手なのだろう。

私もまた、似たようなものだった。

その晩、私は実家へ寄らなかった。

寄って、何か言われるのが面倒だったからだ。

たったそれだけのことが、長い空白のはじまりになった。

それから私は、帰る回数を少しずつ減らした。

母から営業所に何度か電話があったらしい。

だが、事務員は決まって「走行中です」と伝えるばかりで、私は折り返さなかった。

休みの日に実家の前を通っても、店先まで行かずに引き返したこともある。

子どもじみている。

いま思えば、呆れるほど子どもじみている。

けれど、拗ねるというのは、年齢に関係なくみっともないものらしい。

やがて町の誰かが言った。

「お母さん、最近ようバス停に座っとるよ。あんたのバス、見てるみたいや」

私は笑ってしまった。

見ているだけなら、好きにすればいい。

そう思った。

そう思ってしまった自分を、私はいまでも許していない。

母がよく座っていたのは、店から歩いて五分ほどの「浜寺前」という小さなバス停だった。

屋根の色は褪せ、ベンチのペンキはところどころ剥げていた。

海からの風が強い日は、広告板の端がぱたぱた鳴る。

子どものころ、私はそのバス停で母を待ったことがある。

遠足の日、熱を出して行けなくなった私を、母は店を閉めることもできず、近所の人に頼んで病院へ連れて行かせた。

診察を終えて帰るとき、私は泣きながら、バス停のベンチで母を待った。

夕方、買い物袋を提げた母が走って来て、私の額に触れた。

「ごめんねえ」と言いながら、すぐあとで、「でも、泣くほどの熱でもないやろ」と続けた。

その順番が、いかにも母だった。

優しさが来て、そのすぐあとに照れ隠しの棘が来る。

私は当時から、その棘ばかり覚えて、最初のぬくもりを忘れがちだった。

その日、連絡が入ったのは午後二時十七分だった。

終点ひとつ手前の「桜橋北」停留所を出た直後、営業所から無線が入った。

「高坂さん、落ち着いて聞いてください。ご実家のお母さまが店先で倒れたそうです。いま病院へ搬送中です」

私は返事をした。

したはずだが、何を言ったのか覚えていない。

覚えているのは、フロントガラスの向こうの道路が、急に芝居の書き割りみたいに薄っぺらく見えたことだけだ。

信号も、横断歩道も、歩道の植え込みも、全部が紙でできているみたいだった。

それでも私は、いつも通りウインカーを出し、停留所に寄せ、ドアを開けた。

赤い毛糸の帽子の女の子が降りるとき、運賃箱に小銭を一枚落としてから、こちらを見上げた。

「運転手さん、だいじょうぶ?」

子どもは、ときどき嫌なくらい人の顔を見ている。

私は「ありがとう」とだけ言った。

声が少しかすれた。

終点に着くまでの数分が、ひどく長かった。

それでもバスは走る。

機械だからではない。

運転士が泣こうが、家族が倒れようが、乗せた人を先に降ろさなければならないからだ。

それが仕事であり、ときに残酷な誇りでもある。

私は車庫へ戻ると、交代要員に鍵と運行表を渡した。

「大丈夫か」と聞かれたが、頷くことしかできなかった。

営業所の壁時計の秒針だけが、妙に大きな音を立てていた。

病院へ向かう途中、私はタクシーの窓から、自分の走っていた路線を見た。

いつもなら何でもない信号待ちが、その日は罪の時間に思えた。

あと一分早ければ。

あの停留所を少し急げば。

そういう馬鹿な仮定ばかりが頭に浮かんだ。

けれど、間に合わなかった。

母はもう意識がなかった。

いや、医師は「最後に一度だけ目を開けました」と言ったかもしれない。

看護師は「何か言おうとされていました」とも言った。

そういう曖昧な慰めを、人は死の前後にたくさん受け取る。

だが受け取ったところで、肝心の声は戻らない。

病室の棚に、母の鞄と、使い古した財布と、店の売上帳が置かれていた。

その横に、小さな紙切れが一枚あった。

病院のものではない。

古い回数券の台紙を切って作ったような、薄く、ざらついた紙だった。

表に、私の名前が書いてあった。

母の字だった。

私はその場で読めなかった。

読んだら、もう本当に終わってしまう気がした。

葬儀は、ひどく静かだった。

母は町内でもそれなりに知られた人だったから、もっと人が来るかと思ったが、平日の昼で、しかも雨だった。

来てくれたのは近所の人と、店の常連が何人かだけだった。

祭壇の写真の母は、不機嫌そうにも見える顔で笑っていた。

ああ、この人はきっと、最後まで愛想のいい人にはなれなかったのだろうなと、少しおかしくなった。

おかしいのに、涙は止まらなかった。

焼香のあと、乾物屋の芳江さんが私に近づいてきた。

「ごめんねえ」

開口一番、そう言った。

私は黙っていた。

芳江さんは両手をもみ合わせながら、目を伏せた。

「あたし、あの人にことづけ頼まれてたのに、言い方、間違えたみたいで」

その瞬間、胸のどこかで、長いあいだ錆びついていた歯車が、いやな音を立てて動いた。

火葬を終え、家に戻ってから、私はようやくあの紙切れを開いた。

そこには、たった数行だけ書かれていた。

『この前、芳江さんにことづけを頼んだら、あんたが怒っとると聞いた』

私はそこで息を止めた。

やはり、あの伝言のことだった。

母は続けて書いていた。

『私は、「あの子、ちゃんと寝とるやろか。親のことなんか気にせんでええから、体だけは大事にしなさい」と伝えてと言った』

私は畳の上で、しばらく動けなかった。

あまりに、馬鹿みたいだった。

『あの人、どう言ったんやろね。だいたい察しはつくけど』

そこだけ、少し字が乱れていた。

怒っているようにも、笑っているようにも見えた。

『あんたは昔から、言われた言葉のうしろを読まん。父親そっくりや』

こんなときまで、と思った。

こんなときまで、きつい。

けれど、その次の一行で、私は完全に崩れた。

『バス停に座っとったのは、文句を言うためやない。あんたのバスが時間どおり来るのを見ると、今日はちゃんと生きとるなと思えて、安心したからや』

私は声を出して泣いた。

情けない声だった。

どうして人は、いちばん知りたかったことを、こういう形でしか受け取れないのだろう。

『この前、切符を一枚ひろった』

文は続いていた。

『子どものころ、あんたが「これでどこでも行ける」と言って、紙の切符を握りしめてたのを思い出した』

私はその記憶を、かすかに覚えていた。

まだ整理券ではなく、駅みたいな小さな紙切符を使っていたころだ。

私はそれを宝物みたいに握って、「東京にも行ける」と本気で言った。

母は笑いながら、「その前に宿題しなさい」と言った。

夢の腰を折るようなことを平気で言うくせに、その夜、私の布団の横に、路線図の載った古い時刻表を置いていた。

そういう人だった。

『ほんとはね、母さんは、あんたがどこへ行ってもええと思ってた。ただ、帰ってくる場所のつもりでおっただけや』

その文が、胸に深く刺さった。

帰ってくる場所。

私はその場所に、自分から背を向けていたのだ。

便箋ではない。

伝言メモに書くには、あまりに柔らかい言葉だった。

なのに、母の字は最後までいつもの母の字で、角ばっていて、少し急いでいて、照れを隠すみたいに雑だった。

『切符、台所の引き出しに入れとく』

『次に会えたら、惣菜、少し薄味にしてやる』

『会えたら、やけど』

最後の一言に、母らしい可笑しみがあって、私はますます泣いた。

台所の引き出しを開けると、輪ゴムや古い箸袋に混じって、小さなバスの切符が一枚入っていた。

いまでは使われていない、昔の紙の乗車券だった。

端が少し擦れて、真ん中に小さな折り目がある。

私はそれを掌にのせた。

母はたぶん、これを拾って、本当に私を思い出したのだろう。

それから、あの芳江さんに伝言を頼み、見事にねじ曲げられたのだ。

馬鹿みたいだった。

母も、私も、芳江さんも、少しずつ馬鹿だった。

だが、その少しずつの馬鹿のせいで、三年が空いた。

人間の一生は、案外そういう瑣末なすれ違いで削られていくのかもしれない。

それからしばらくして、私は元の路線に戻った。

季節は春に変わっていた。

母がよく座っていた「浜寺前」のベンチは、前より少し傾いて見えた。

そこを通るたび、私は自然と視線を向ける。

当然、母はいない。

いないのだが、ときどき見間違いのように誰かが座っている。

買い物袋を膝にのせた老婆だったり、杖をついた老人だったり、母親を待つ小学生だったりする。

そのたび私は、胸のどこかが静かに立ち上がるのを感じる。

ある雨の日、終点近くの停留所で、一人の老女が乗ってきた。

小柄で、濡れた髪をきちんと撫でつけていた。

運賃を払おうとして小銭を落とし、困った顔をしたので、私は咄嗟に言った。

「大丈夫ですよ。ゆっくりで」

老女は顔を上げた。

その目元が、一瞬だけ母に似て見えた。

席に座ったあと、その人は前方を見ながら言った。

「この路線の運転手さんは、みんな優しいねえ」

私は少し笑った。

「今日は、たまたまです」

すると老女は首を振った。

「たまたまじゃないよ。待ってくれる人は、いつも待ってくれる」

その言葉が胸に残った。

終点で、その人が降りるとき、振り向いて言った。

「また乗るからね」

私は反射のように答えていた。

「はい。お待ちしています」

それを言った瞬間、なぜか、母に返事をしたような気がした。

再会というのは、死者が戻ってくることではないのだろう。

もう会えない人の気持ちに、やっと追いつくこと。

あるいは、その人から受け取ったものを、別の誰かへ手渡せるようになること。

そういう形の再会も、たしかにある。

いま、私の財布には、あの古い切符が入っている。

改札も通れない、どこにも行けない紙切れだ。

けれど、私が道を見失いそうになるたび、それは妙に確かな重みを持つ。

母が待っていたバス停。

母が拾った切符。

母が書き残した、伝言になり損ねたメモ。

その全部が、いまでは私を元の道へ戻してくれる。

今日も私はハンドルを握る。

停留所に寄せ、ドアを開け、誰かを乗せ、誰かを降ろす。

もう取り返せない時間はある。

けれど、間に合う優しさも、たぶんまだある。

母のいないバス停を通り過ぎるたび、私は心の中で小さく言う。

ただいま。

すると返事の代わりに、春の風が、使われなくなった時刻表をかすかに揺らす。

その揺れ方が、ときどき母の手招きに見える。

降りる人はいないのに、私は少しだけ速度をゆるめる。

つぎの停留所へ向かうために。

そして、いつか誰かが乗り遅れそうな顔をして立っていたら、前よりほんの少しだけ、長く待てる人間でありたいと思う。

それがたぶん、ようやく母と再会した私にできる、いちばん小さな返事なのだ。

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