恩師のことを、私は長いあいだ嫌いだと思っていた。
そう言ってしまうと、いかにも恩知らずで、実際かなり恩知らずなのだが、それでも若いころの私は、あの人の厳しさを愛情として受け取ることができなかった。
いや、受け取らなかった、と言うべきかもしれない。
人は自分が欲しい形で渡されないものを、ときどき平気で愛情ではないと決めつける。
私もそういう、ずいぶん身勝手な生徒だった。
雪国の冬は、音を食べる。
朝、カーテンを開けると、町じゅうが白い息を止めているみたいに静かで、車の走る音も、人の話し声も、ひとつ厚い布の向こうへ押しやられてしまう。
雪の朝にピアノを鳴らすと、音だけが部屋の中に残って、外の白さへは届かないような気がする。
私はその町で、小さな音楽教室を開いている。
ピアノ講師になって七年になる。
商店街から少し外れた古い木造の家を借りて、子どもたちにバイエルを教え、ときどき発表会の伴奏をし、保護者には、
「家では怒らないでくださいね」
と笑って言う。
怒らないでください、なんて、自分が言える立場かと、ときどき思う。
私は昔、ピアノの前でずいぶん怒られてきたからだ。
恩師は、町のはずれの音楽院で教えていた。
七十を過ぎても背筋のまっすぐな人で、細い指にだけ異様な力があった。
冬でも薄いブラウスに濃い色のカーディガンを羽織り、譜面台の横に立つだけで部屋の空気が少し張るような人だった。
レッスン室はいつも少し寒く、黒いグランドピアノの艶が窓の雪明かりを吸っていた。
壁の時計は小さく、刻む音だけが妙に厳しかった。
先生は私の音をよく止めた。
「違う」
とか、
「浅い」
とか、
「弾いているふりをしない」
とか。
いつもそんな言い方だった。
良かったところを先に言う先生ではなかった。
子どものころの私は、レッスンが近づくたびにお腹が痛くなった。
うまく弾けないからではない。
弾いても弾いても、欲しい言葉がもらえないからだ。
私は褒められたかった。
それも、分かりやすく。
よくできた、とか。
いい音だった、とか。
たったそれだけでよかったのに、先生はどうしてもそれをくれなかった。
高校生のころ、コンクールで県大会まで進んだときも、先生は賞状を見て、
「だから何」
と言った。
私はそのとき、本気でこの人は人の心がないのだと思った。
いや、そう思いたかったのだろう。
認めてもらえない悔しさを、その一言のせいにしたかったのだ。
家に帰って賞状を机に放り、私は一晩泣いた。
母はそのとき、珍しく私の部屋へ来て、
「あの先生、あんたのこと好きなんだと思うよ」
と、ずいぶん乱暴な慰め方をした。
私はふてくされて、
「好きな人に、あんな言い方する?」
と返した。
母は少し笑って、
「する人はするのよ。不器用だもの」
と言った。
私はそのときも納得しなかった。
不器用という便利な言葉で、他人を許せと言われるのが嫌だったのだ。
私は音大へは進まず、地元の短大を出て、結局は子どもに教える側になった。
先生はその進路を聞いたときも、
「あなたにはそのほうが向いている」
と言った。
私はそれを見下されたのだと思った。
演奏家になれないから講師でいい、そういう意味だと。
その日、雪の降る帰り道で、私は手袋の中で爪を立てたのを覚えている。
向いている。
あの言葉は、長く胸に刺さった。
進路を決めたばかりの若い人間にとって、向いている、という言葉は、ときに諦めの宣告に聞こえる。
私はずっと、先生にそう見限られたのだと思っていた。
だからそのあと何年も、その一言にひそかに傷つき続けた。
やがて私は先生のもとを離れ、年賀状だけの付き合いになった。
それすら、ここ数年は返していなかった。
忙しかったのもある。
発表会の準備、保護者対応、体験レッスン、町内会の役まで回ってきて、日々は案外みっしりしていた。
冬になれば雪かきまで加わる。
朝いちばんに玄関前を掻き、指先をしびれさせたままレッスン室の暖房を入れる。
そんな生活の中で、昔の先生に返事を書く気力なんてない、と思っていた。
でも本当は、忙しさに隠れていただけだ。
先生の字を見ると、昔の悔しさまで蘇る気がして嫌だった。
だから見ないことにした。
見ないことにした相手ほど、心の中では消えてくれない。
レッスン中、生徒に強い言葉を言ってしまったあとで、ふいに先生の顔を思い出すことがあった。
こんなふうに言われる痛さを知っているくせに、と、自分が嫌になる夜もあった。
去年の十二月、先生が倒れたと聞いた。
脳の病気だったらしい。
命は助かったが、もう以前のようには話せないと、人づてに聞いた。
私は一度だけ病院へ行こうとして、やめた。
駅前の花屋で小さな白い花を買いかけて、やめた。
行って何を言えばいいのか分からなかったからだ。
先生を前にしたら、私はまた生徒の顔に戻ってしまう気がした。
劣等感というのは、歳月の上にきれいに雪が積もっても、その下でちゃんと凍っている。
年が明けて、先生は自宅療養に移った。
二月のある日、音楽院を手伝っていた古い先輩から電話があった。
「先生の家、片づけるの手伝ってくれない」
私は断りかけた。
けれど先輩が、少し笑って、
「あなたのこと、最後まで気にしてたよ」
と言ったので、断れなくなった。
先生の家は、川沿いの古い洋館だった。
雪に半分埋もれた門を抜けると、庭木の枝が白く重たげに垂れていた。
子どものころ、発表会の前に一度だけこの家に呼ばれたことがある。
緊張しすぎて紅茶のカップをうまく持てず、ソーサーを鳴らしてしまった。
そのとき先生は、叱る代わりに何も言わなかった。
私はあの沈黙まで責められている気がして、帰り道で泣いたのだった。
家の中は静かで、薬と古い紙の匂いがした。
先生は二階の寝室で眠っていて、私は顔を見なかった。
見る勇気がなかった。
もし痩せていたら、もし目を開けて私に気づいたら、私はどんな顔をすればいいのか分からなかった。
先輩と私は一階の書斎を片づけた。
楽譜、録音テープ、古いプログラム、山ほどの書類。
ショパン、ドビュッシー、バッハのスコアのあいだに、生徒たちの発表会の写真が挟まっていた。
私の写真もあった。
中学生のころ、白いドレスで硬い顔をしている。
いま見ると、あまりに必死な表情で、少し気の毒だった。
そして文机の引き出しから、革張りの小さな手帳がいくつも出てきた。
先生の字で、年ごとに生徒の名前が書かれていた。
月謝や曲目の記録だろうと思って開いた私は、すぐに手を止めた。
そこには、単なる記録以上のものが書かれていたからだ。
『一月十二日。由佳、ショパン。指は不安定だが、雪の日の音を知っている』
私の名前だった。
私は息を呑んだ。
次の頁にも、次の年にも、私の名前があった。
『六月三日。怒るとすぐ音を硬くする。泣きたいのを隠すために強く弾く癖』
『十月二十一日。右手は走るが、左手が人を待てる。そこがこの子の良さ』
『十一月九日。褒めると安心してしまう。まだ褒めない』
私はそこで、思わず頁を閉じた。
あまりに勝手だと思った。
褒めない理由を、そんなふうに勝手に決めていたのかと。
私の欲しかった言葉を、先生は教育の都合で出し渋っていたのかと、理不尽に腹が立った。
だが同時に、先生が見ていたものの細かさに、胸がざわついた。
私はそんなふうに見られていたのか。
ただ厳しく切り捨てられていたのではなく、そんな小さな癖まで。
手帳の最後のほうに、もっと新しい記述があった。
私が音大へ行かないと決めた年だ。
『三月二十七日。本人は敗北だと思っている。違う。あの子は人に弾かせる力がある』
頁が少し歪んでいた。
何度も開かれたのかもしれない。
『自分で光るより、他人の中の光を見つけて置ける子だ。教えるほうが向いている』
私は椅子に座ったまま、しばらく動けなくなった。
向いている、というあの言葉は、見下しではなかったのだ。
先生なりの、精一杯の見立てだったのだ。
けれど、あの人はその渡し方を間違えた。
いや、間違えたというより、もともと優しく渡す術を持っていなかったのだろう。
昔の先生にとって、言葉は励ますためのものではなく、研ぐためのものだったのかもしれない。
でも、研がれる側は、ときに血が出る。
先輩が、私の手元をのぞきこんで言った。
「ね。あの先生、そういう人なのよ」
私は返事ができなかった。
そういう人。
そのひと言で片づけるには、私はあまりに長く、先生を誤解したままだった。
手帳のあいだに、メモ用紙が一枚挟まっていた。
先輩がそれを見て、ああ、と言った。
「それ、たぶんあなたに」
メモには、震えた字でこうあった。
『机の右の棚、青い箱』
私は言われるまま、書斎の棚を探した。
古い録画用ディスクが何枚か入った青い箱が出てきた。
そのうち一枚に、私の名前が書いてあった。
胸が変なふうに鳴った。
先輩が、小さな再生機器をつないでくれた。
画面に先生が映ったのは、まだ倒れる前の秋だった。
部屋はあのレッスン室で、窓の外には初雪がちらついていた。
先生は椅子に座り、まっすぐこちらを見た。
録画だと分かっているのに、その視線だけで背筋が伸びた。
「由佳さん」
久しぶりに聞く声は、思ったよりやわらかかった。
「こういうものを残すのは好きではないのだけれど、たぶん話せなくなる気がするので、先に言います」
私はそこで、もう駄目だった。
先生は少し咳払いをして続けた。
「あなたは昔、褒めてもらいたがっていましたね」
ひどい言い方だと思った。
最後まで、こんな言い方なのかと。
けれど画面の中の先生は、少し困ったように笑った。
その笑い方を、私は初めて見た気がした。
「私は、褒め方が分からなかった。下手だった」
その一言で、長い年月の何かが崩れた。
先生はゆっくり、言葉を選ぶように続けた。
「あなたの音には、人をひとりにしない温度がありました。それは演奏家として派手な強さではなく、隣で聴いている者を置いていかない力です」
窓の外で、雪が細かく降っていた。
レッスン室の中だけ、時間が少し遅く流れているみたいだった。
「私はそれを、若いころのあなたにうまく伝えられなかった。自分の言葉が古すぎて、硬すぎて、傷つけるほうへ先に行ってしまった」
先生はそこで少し目を伏せた。
「あなたが去ったあと、私は何度か手紙を書こうとしてやめました。説明することは、言い訳になる気がしたからです」
私はそこで唇を噛んだ。
先生もまた、沈黙を誠実さだと勘違いしていたのだろう。
そういう大人だった。
「教えることは、弾くことより難しい。あなたはそれに向いています。向いている、というのは、諦めの言葉ではありません。受け継ぐ力がある、という意味です」
私は声を殺して泣いた。
先輩は黙って席を外してくれた。
画面の中の先生は、最後にこう言った。
「生徒を褒めてあげてください。私はそれができなかったから」
それから、少しだけいつもの厳しい目になって、
「ただし、安くは褒めないこと。見たうえで、言葉を置きなさい」
そこで録画は終わった。
画面が暗くなっても、私はしばらく動けなかった。
手帳は膝の上であたたかくなっていた。
雪国の午後の光は、どこか青い。
その青さの中で、私はようやく、先生の言葉の本当の意味に触れた気がした。
褒めてもらえなかったのではない。
あの人なりの不器用な仕方で、ずっと見られていたのだ。
帰り際、私は寝室の扉の前に立った。
開けることはしなかった。
けれど障子越しに、小さく言った。
「先生、遅くてすみません」
それから少し考えて、もうひとつ言った。
「向いている、って、やっと分かりました」
返事はなかった。
でも、その沈黙は昔ほど冷たくなかった。
むしろ、長いレッスンの最後に置かれる休符みたいだった。
春になって、教室の発表会があった。
小学校三年の生徒が、途中で指を止めた。
舞台の上で真っ白になり、客席を見て、泣きそうな顔になった。
会場の空気が、あの昔のレッスン室みたいに張りつめた。
前の私なら、終わってからまず注意点を言っただろう。
どこで止まったのか。
なぜ飛んだのか。
家でどう練習するべきか。
でもその日、私は袖でその子を迎えて、最初に言った。
「最後まで戻ってこられたね」
その子は堰を切ったように泣いた。
私はその小さな肩をさすりながら、先生の録画の最後の一言を思い出していた。
見たうえで、言葉を置きなさい。
よくできたと安く褒めるのではなく、その子が本当に越えたものを見て、そこに言葉を置く。
先生はそれを教えたかったのだろう。
不器用すぎるやり方で。
夜、教室に戻ってから、私は新しい手帳を開いた。
そこに生徒の名前を書き、今日のことを記した。
『真琴。途中で止まる。けれど、自分で戻った。泣きながらでも最後まで弾ける子』
少し迷って、私はもう一行足した。
『褒める言葉を急がず、でも惜しまないこと』
書き終えて、私は少しだけ笑った。
先生の真似をしているようで、可笑しかった。
でも、継承というのは、案外こういう小さな癖から始まるのかもしれない。
厳しさそのものではなく、誰かをきちんと見て、言葉を惜しまないこと。
先生ができなかったところまで、少しだけ先へ行くこと。
雪はまだ残っている。
夜になると、窓の外の道路が淡く白く光る。
私は教室の最後の明かりを消し、ピアノの蓋を閉じる。
その黒い艶に、自分の顔がかすかに映る。
昔より、少しだけやわらかい顔をしていた。
先生はもう、前のようには話せない。
けれど、あの録画の中の声は、これから先も私の中で生きるのだろう。
古くて、不器用で、でも嘘のない声。
私は明日もまた、生徒の指を見て、ためらいを見て、言葉を選ぶ。
叱るにしても、褒めるにしても、その子の音をちゃんと聴いたうえで言う。
そういう当たり前のことを、たぶん先生は一生かけて私に残した。
そしてときどき、自分にも言ってやりたいと思う。
向いている、は、見捨てる言葉ではない。
託すための言葉でもあるのだと。
雪の音が消えるまで、私はそのことを、静かに教え続けていく。
先生から受け取った、不格好で、けれど確かな灯りとして。




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