ADなどと横文字にすれば多少は聞こえがいいですが、要するにただの使い走りであり、見栄えのしない雑用係です。
午前二時四十五分。
地方キー局の第3スタジオの副調整室(サブ)には、徹夜明けのスタッフたちのひどい体臭と、何時間も前に淹れられてすっかり酸化したブラックコーヒーの、泥のような匂いが充満しています。
私は這いつくばるようにして床に這う何本もの黒いケーブルを捌きながら、分厚い防音ガラスの向こう側で滑らかに原稿を読み上げるパーソナリティの横顔を、どこか薄ら寒い思いで見つめていました。
私は昔から、どうしようもなく自意識ばかりが肥大した、卑屈な男でした。
何者かになりたいと熱烈に焦るくせに、何者でもない空っぽの自分を直視する勇気がないのです。
誰かに少しでも期待されると、その裏にあるかもしれない失望を勝手に想像しては、怯えて逃げ出してしまう。
だから、他人からの純粋な好意や期待というものが、時としてひどく重たく、疎ましいのです。
高校の放送部で顧問だった藤堂先生は、そんな私のひねくれた自意識の奥底にある、どろどろとした熱のようなものを、どういうわけか見抜いてくれた唯一の大人でした。
「お前は不器用だが、お前の選ぶ言葉や音には、他人の孤独に触れる体温がある」
「だから、ラジオをやりなさい」
卒業の日、チョークの粉にまみれた手で先生がそう言って私に持たせてくれた、傷だらけのソニーのポケットラジオ。
それは今でも、私の四畳半の狭いアパートの枕元に、まるで信仰を失った神棚の飾りのように、埃を被って置かれています。
それなのに、私はその唯一の恩師を裏切りました。
一年半前。
ADとしての過酷な日々に神経をすり減らし、思い描いていた夢と、ロケ弁の買い出しばかりさせられる現実の落差にひどく絶望していた私のスマートフォンに、先生から短いメッセージが届いたのです。
『最近どうだ。お前の局の深夜番組、毎週聴いているよ。今度、こちらに帰ってきたら、ゆっくり酒でも飲もう』
私は、その液晶画面を見た途端、ひどい羞恥と、身勝手な苛立ちに襲われました。
今の惨めな自分を、先生にどう説明すればいいというのでしょう。
自分の企画一つ通せず、先輩ディレクターに怒鳴られてばかりの、無能でちっぽけな自分を。
今はダメだ。
ディレクターとして独り立ちして、自分の番組のエンディング・クレジットに名前が載るようになったら、その時こそ胸を張って会おう。
気の利いた返信は、その時まで取っておこう。
そうやって、私は薄汚い見栄とプライドのために、先生からの好意を「既読」のまま放置しました。
忙しかったからではありません。
ただ、現実の自分に直面するのを恐れていたのです。
その八ヶ月後、先生は急性心不全で呆気なくこの世を去りました。
あとに残されたのは、永遠に返信できなくなったトーク画面と、取り返しのつかない重たい後悔だけ。
葬儀の夜でさえ、私は特番の生放送の準備で局を離れられず、トイレの個室で声を殺して泣くことしかできませんでした。
私は自分の底知れぬ浅ましさに吐き気を催しながら、それでも毎晩、逃げるようにこの光の届かないサブへ通い続けていました。
あれから、さらに月日は流れました。
「さて、次は少し変わったお便りです。ペンネーム、白墨とアンテナさん」
パーソナリティの落ち着いた低音が、スタジオの冷たい空気を震わせました。
私はハッとして、手元で丸めていた進行表に目を落としました。
そんなペンネームのハガキは、私が事前にチェックした束の中にはありません。
不思議に思ってチーフディレクターを振り返ると、彼は私と目を合わせず、ただ黙って顎でコンソールパネルをしゃくりました。
『パーソナリティの結城さん、こんばんは。私は地方で高校教師をしている、初老の男です』
『今日は、そちらの局で働いているはずの、私の教え子に向けて手紙を書きました』
『名前は出せませんが、彼は今、きっとそのスタジオの片隅で、息を潜めてこの放送を聴いているはずです』
私は、心臓が氷の手で鷲掴みにされたような感覚に陥りました。
全身の毛穴が粟立ち、嫌な汗がどっと噴き出すのが分かりました。
なぜ、亡くなったはずの先生からの手紙が、今になって読まれているのか。
混乱する私の耳に、パーソナリティの静かな声が続きます。
「この手紙は、実は彼の奥様から、当番組へ送られてきたものです」
「書斎の机の引き出しから、切手の貼られていないこの封筒が見つかったそうです」
「彼が倒れる直前に書かれたであろう、教え子へのメッセージ。ご家族の希望により、今夜、代読させていただきます」
私は息を呑みました。
『彼にメールを送ったのですが、もう半年以上、返信がありません』
『昔から、不器用で、プライドが高くて、それゆえに一人で勝手に傷ついてしまうような、真面目すぎる生徒でした』
『返信がないということは、彼が今、気の利いた文面を考える余裕もないほど、暗闇の中で必死に足掻いている証拠なのです』
私は、自分の愚かさに打ちのめされていました。
『私は毎晩、このラジオを聴いています』
『もちろん、彼がマイクの前に座って喋っているわけではない』
『けれど、パーソナリティの声を際立たせるための絶妙なBGMのタイミングや、リスナーの孤独に寄り添うような深夜の選曲』
『そこには確かに、彼のひたむきな体温が宿っている』
『私は、ラジオというこの小さな箱を通して、彼からの雄弁な「返信」を毎晩、確かに受け取っているのです』
『どうか、そのままで』
『焦らなくていい』
『あなたの信じる音を、これからも電波に乗せてください』
『私はずっと、受信し続けますから』
気がつくと、私はサブの薄暗い床に這いつくばるようにして膝をつき、声を上げて嗚咽していました。
自分がどれほど愚かで、そして、どれほど深く愛されていたか。
返信をしなかった私の身勝手な沈黙すらも、先生は「暗闇での足掻き」として、ラジオの電波越しにとっくに受け取り、許してくれていたのです。
なんてことだ。
私は彼に何も返せなかったと絶望していたのに、彼は私がミリ単位で操作するフェーダーの向こう側に、私の体温を読み取ってくれていた。
涙が、ボロボロと止めどなくコンソールパネルの縁にこぼれ落ちました。
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、私は熱を持った自分の両手で、顔を強く覆いました。
痛いほどの、どうしようもない熱でした。
雨の匂いがした。
窓ガラスを打つ水滴が、街灯の光を乱反射している。
キューランプが点滅している。
パーソナリティが静かにマイクを切り、エンディングの静謐なピアノ曲が流れ始めた。
防音扉の向こう、窓の外の街は、すでに白み始めている。
私はゆっくりと立ち上がり、粗いシャツの袖口で乱暴に涙を拭った。
鼻の奥がツンと痛み、視界はまだひどくぼやけている。
もう、逃げるように下を向くのはこれで終わりにしよう。
赤く光る『ON AIR』のサインランプだけが、ただ静かに、何事もなかったかのように私を見下ろしていた。




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