【感動・泣ける短編小説】『インクの匂う指で』自己嫌悪の青年を救った母の手紙と家族の絆

幻想的な風景 泣ける話

インクの匂いというのは、一度爪の間に染み込むと、どんなに石鹸で洗っても落ちない。

僕は印刷工場の輪転機が吐き出す大量の紙屑と、重油と、独特の青臭いインクの匂いに塗れながら、毎月微々たる給料をもらって生きている。

世間から見れば、どこにでもいる冴えない二十代のしがない作業員だ。

自分でもそう思う。

情けないことに、僕には人に誇れるような才能も、立派な志も何一つなかった。

学生時代の同級生が真新しいスーツを着て駅前を歩いているのを遠くから見かけた時、僕は思わず、黒く汚れた自分の両手をポケットの奥深くへ突っ込んで隠した。

僕はそんな、取るに足らない惨めな男なのだ。

母さんが死んだのは、僕が夜勤のシフトに入っていた、ひどく冷える秋の夜だった。

「ごめんね、仕事中に」

病室のベッドで小さくなっていた母さんは、僕が顔を出すたび、決まって申し訳なさそうにそう言った。

すい臓のガンだった。

見つかった時にはもう手遅れで、余命は数ヶ月と告げられていた。

僕は母さんの見舞いに行くのが、本当は少し怖かった。

痩せ細っていく母さんを見るのが辛かったのではない。

いや、それもあるけれど、何より「僕はあなたの期待通りの立派な息子になれませんでした」という自覚が、僕の胸をじくじくと苛んでいたからだ。

父さんは僕が幼い頃に家を出て行き、母さんは女手一つで僕を育ててくれた。

近所の惣菜屋でパートを掛け持ちし、夜遅くに帰ってきては、僕に温かい夕飯を作ってくれた。

そんな母さんの苦労を見て育ったのだから、僕はもっといい大学に出て、いい企業に就職して、母さんを安心させてあげるべきだったのだ。

それなのに、今の僕ときたら、毎晩作業着を真っ黒にして、紙の端で指を切っているような男だ。

申し訳なさと、自分の不甲斐なさ。

それが僕の心を捻曲げていた。

「仕事、忙しいんだろ? 無理しなくていいからね」

病院で母さんが気遣うようにそう言うたび、僕は「ああ、忙しいから」と冷たく短く返して、逃げるように病室をあとにした。

本当はそこまで忙しくなんてなかった。

ただ、母さんの温かい目の前にいると、自分の惨めさが際立って耐えられなかったのだ。

結局、僕は最期のみとりの瞬間にも間に合わなかった。

急変の連絡を受けて病院に駆けつけた時には、母さんはもう、冷たい呼吸の残骸になっていた。

葬式が終わり、四十九日も過ぎた。

僕は母さんのアパートを引き払い、遺品を整理したけれど、大したものは残っていなかった。

古びたタンスと、数着の服。

そして、母さんが使っていた、画面の割れた古い携帯電話が一台。

そして今日。

僕は印刷工場のいつもの休憩室にいる。

パイプ椅子と、薄汚れた自動販売機があるだけの無機質な空間だ。

昼休憩のチャイムが鳴り、他の作業員たちが煙草を吸いに外へ出て行ったあと、僕は一人でパイプ椅子に深々と腰掛けた。

胸のポケットから、一通の封筒を取り出す。

それは遺品を整理していた時、母さんの布団の下から見つかった便箋だった。

宛名には、僕の名前が歪な文字で書かれていた。

母さんは生前、僕に手紙なんて書いたことがなかった。

僕は爪に残ったインクの染みを無意識に指で擦りながら、封を切った。

『たかしへ。』

『この手紙を読む頃には、お母さんはもういないと思います。』

『入院してから、ずっとあなたに言わなければいけないことがありました。』

『でも、口にするとどうしても涙が出てしまいそうだから、こうして手紙に残します。』

『お母さんには、ずっとあなたに隠していた秘密がありました。』

『あなたが高校を卒業して、今の印刷工場で働き始めたときのことです。』

『本当はね、お母さんは少しだけ寂しかったの。』

『もっと勉強して、どこか遠くの綺麗なオフィスで働くあなたの姿を、勝手に夢見ていた時期もありました。』

『ダメな母親ですね。』

『でもね、ある日の夕方、あなたが初めてお給料をもらった日。』

『あなたが仕事着のまま買ってきてくれた安いシュークリームを覚えていますか?』

『あのとき、あなたの手を見たんです。』

『爪の間まで黒くインクが染み込んでいて、指先には小さな切り傷がたくさんありました。』

『それを見たとき、お母さんは胸がギュッと痛くなって、それから……心から誇らしくなりました。』

『この子は、自分の手を使って、誰かの言葉や思いを紙に刷る仕事をしているんだ。』

『泥臭くても、一生懸命に働いて、自分の足で立っているんだって。』

『あなたが印刷した本やチラシが、世の中の誰かに届いている。』

『それはなんて素晴らしくて、尊いことでしょう。』

『あなたは病院に来るたび、「仕事が忙しい」と言ってすぐに帰ってしまいましたね。』

『お母さんは分かっていましたよ。』

『あなたが不器用で、自分を責めていて、私の前にいるのが辛かったんだということくらい。』

『でもね、たかし。』

『お母さんはあなたに謝ってほしくなんてなかった。』

『立派な人になんてならなくてよかった。』

『あなたが毎朝ちゃんと起きて、あの工場へ行って、インクの匂いをさせて帰ってくる。』

『それだけで、お母さんの人生は百点満点だったのですよ。』

『あなたの働く姿が、お母さんの誇りでした。』

『生きていてくれて、私の息子でいてくれて、本当にありがとう。』

便箋を持つ手が、ガタガタと震えていた。

視界が急速に歪んでいく。

目の前が涙で激しく滲み、文字がぐにゃりと崩れた。

僕は、勘違いしていたのだ。

僕が勝手に抱いていた「理想の息子になれなかった」という引け目。

自分の惨めさから逃げるために作った「忙しさ」という壁。

それらすべてを、母さんは最初から包み込むように知っていた。

あの日、初任給で買った少し潰れたシュークリームを、母さんは泣きそうな顔で「美味しい」と食べてくれた。

僕はその時も、自分の汚れた手が恥ずかしくて、そそくさと手を洗いに席を立ってしまったのだ。

母さんは、僕の泥まみれの爪を、傷だらけの指を、僕自身よりも深く愛してくれていた。

「……なんだよ、それ……」

喉の奥から、惨めで、情けない掠れ声が漏れた。

僕は手紙を胸に抱きしめ、誰もいない休憩室で、一人声を殺して泣いた。

ボロボロと溢れ出る涙が、作業着の膝に黒い染みを作っていく。

母さんに伝えたかった。

「ごめんね」じゃない。

「ありがとう」だったのだ。

自分の情けなさを恥じる前に、もっと母さんの手を握りしめればよかったのだ。

涙を拭おうとポケットから取り出したのは、母さんの遺品である古い携帯だった。

何気なく画面を開き、フォルダを辿る。

そこには、送信されなかったメールの草稿——「未送信メール」が一通だけ残されていた。

日付は、母さんが亡くなる前日の夜。

モルヒネで意識が混濁し、言葉も発せず、指先すら満足に動かせなかったはずの夜だ。

『件名:なし』

『本文:たかし、明日の夜シフトが終わったら、気をつけて帰ってきてね。あなたの好きだった甘い卵焼き、また作ってあげられなくてごめんね。お仕事、がんばってね。』

それは、どこにも届くことのなかった、母さんからの最期のメッセージだった。

薄暗い病室のベッドで、動かなくなった指を必死に震わせて、僕のために打ち込んでくれた文字。

僕は携帯を静かに閉じた。

胸の奥で、冷たく凝り固まっていた重いものが、温かい涙とともにゆっくりと溶け出していくのを感じていた。

僕は救われたのだ。

僕がどれほど自分の生を軽蔑しようとも、あの人は僕のこの誇り高き「泥臭さ」を、全肯定してくれていたのだから。

午後の作業開始を告げる、甲高いチャイムが工場の敷地に響き渡った。

僕は立ち上がり、袖で顔を乱暴に拭った。

便箋を丁寧に折りたたみ、胸のポケットにしまう。

携帯電話をその隣に収めた。

休憩室のドアを開けると、あの重油と、紙屑と、独特のインクの匂いが僕の鼻腔を突いた。

自分の手を見る。

爪の間にこびりついた、落ちない黒いインク。

小さな無数の切り傷。

工場長が僕の名前を呼ぶ声がした。

僕はもう、その手を隠さなかった。

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