恩師が亡くなったと知った朝、私は三号室の鍵を海へ投げようとしていた。
民宿の裏手には、断崖へ続く細い道がある。
冬の海は鉛色で、波が岩へぶつかるたび、戸を叩くような音を立てた。
真鍮の鍵は、手の中で冷たかった。
昨夜、先生が泊まった部屋の鍵だった。
そしてもう、先生が取りに戻ることのない鍵だった。
*
私は二十五年前、この離島の中学校で先生に国語を教わった。
父は漁師、母は四部屋だけの民宿を営んでいた。
私は島が嫌いだった。
船が欠航すれば世界から切り離され、進学したいと言えば、親を捨てるのかと訊かれる。
十五歳の私には、島じゅうが檻に見えた。
先生だけが言った。
「外へ出なさい。ただし、帰る場所まで嫌いになる必要はありません」
その日、私は民宿の掃除を手伝ったあと、三号室の鍵を制服のポケットに入れたままだった。
先生は鍵を指さした。
「鍵は閉じ込めるためだけにあるんじゃない。帰ってきた人のために、戸を開けるものでもあります」
「もう戻りませんよ」
「では、私がいつか泊まりに行きます。海がいちばん見える部屋を空けておいてください」
私は返事をしなかった。
若い人間は、守る気のない約束ほど簡単に聞き流す。
*
卒業後、私は本土へ出た。
ホテルに勤め、結婚し、離婚し、仕事も辞めた。
四十を過ぎたころ母が倒れ、島へ戻った。
母の死後も民宿を続けた。
継ぎたかったからではない。買い手がつかなかったからである。
雨漏りする廊下。塩で曇る窓。空室ばかりの宿帳。
私は帰りたいという顔で、誰かの帰る場所を掃除していた。
先生からは年に一度、葉書が届いた。
「三号室は、まだありますか」
私は一度も返事を書かなかった。
会えば、島を出た末に何者にもなれず戻った自分を見られる。
それが怖かった。
*
昨年の秋、先生から電話が来た。
「春まで待てそうにないので、冬に伺ってもいいですか」
声は細く、何度も息を継いだ。
「三号室は、まだあります」
「よかった。約束を忘れたのかと思いました」
私は冗談めかした。
「先生でも宿代は取りますよ」
本当は、ずっと待っていました、と言いたかった。
けれど言葉は、長く使わない鍵のように錆びていた。
先生が来た日は海が荒れ、最終便は二時間遅れた。
先生は杖をついて船から降りた。頬は痩せ、指先まで白かった。
病気なのかと訊きたかったが、先生が笑ったので、私も気づかないふりをした。
夕食後、先生は宿帳をめくった。
「よく灯りを消さずにいましたね」
「消す勇気がなかっただけです」
「それでも、灯っていました」
私は腹を立てた。褒められるほどの人生ではないと思っていたからだ。
「先生に言われて島を出ました。でも結局、何にもなれませんでした」
先生は窓の向こうの海を見た。
「何かになるために、外へ出なさいと言ったのではありません」
「では、何のためですか」
「自分の足で、戻る場所を選ぶためです」
私は黙った。
会えてうれしかった。葉書を全部残していた。背中を押してくれたことを感謝していた。
そう言えば泣きそうで、私は三号室の鍵だけを渡した。
*
翌朝、先生は始発船で島を出ていた。
布団は畳まれ、机に鍵と伝言メモが置かれていた。
昼前、先生の娘さんから電話が来た。
先生は本土の港に着いた直後に倒れ、亡くなったという。
末期の病気で、医師には旅行を止められていた。
それでも最後に果たしたい約束がある、と島へ来たらしい。
「病気のことは言わないでくれと。教え子ではなく、客として泊まりたいから、と」
私は三号室へ戻り、メモを開いた。
「言葉にすると、あなたが困った顔をするので、ここに残します。
あなたは何者にもなれなかったのではありません。
疲れた旅人に飯を出し、濡れた靴を乾かし、船が止まれば部屋を開ける。
帰れなくなった人に、一晩の帰る場所を作っている。
私は教師でしたが、教え子の帰る場所までは作れませんでした。
あなたは、私にできなかった仕事をしています」
文字は途中から震えていた。
「昔、鍵を持っておきなさいと言いました。
あれは、あなたのためだけではありません。
私も迷ったとき、この宿の灯りを目印に帰りたかったのです。
昨夜、約束を果たしてもらいました。
ありがとう。
三号室は、次に帰ってくる人のために開けておいてください」
最後に、小さく書かれていた。
「あなたが戻ったことを、私はずっと誇りに思っていました」
私は鍵を握ったまま、床に座り込んだ。
ありがとう。
会いたかった。
帰ってきてくれて、うれしかった。
言えなかった言葉を、部屋で何度も口にした。
*
私は崖の上で腕を振り上げた。
だが、鍵を投げることはできなかった。
だからこそ、戸を開けておかなければならない気がした。
春から、三号室を「帰り部屋」と呼ぶことにした。
船が欠航した人。久しぶりに島へ戻った人。家族とけんかをして行き場をなくした人。
事情は訊かず、空いていれば鍵を渡す。
ある夜、島を出たいという高校生が来た。
「こんな島、二度と戻りたくない」
昔の私と同じ顔をしていた。
私は三号室の鍵を差し出した。
「外へ出てもいい。ただ、この鍵の場所だけは覚えておきなさい」
翌朝、少年は照れながら鍵を返した。
夕暮れになると、私は玄関灯をつける。
小さな灯りである。
先生。
約束どおり、三号室は今日も開いています。
鍵はここにあります。
帰ってくる人のために、私が預かっています。




コメント