父が倒れる前日の夕方、私は一枚の白いハンカチを、処分箱へ投げ入れた。
商店街の外れにある「白川クリーニング」は、父が四十年守ってきた店だった。
今は私が受付に立っている。
継いだ、というほど立派な話ではない。
東京の会社を辞め、行く場所をなくして戻っただけだ。
敗走にも暖簾があれば、家業に見える。
そのハンカチは、一週間前に父が持ち込んだものだった。
角に青い糸で、小さな花が刺繍されている。
母が生前、いつも鞄に入れていたものだ。
中央には、古い茶色の染みがあった。
父が来たとき、私は配達に出ていた。
店番をしていた佐藤さんによれば、父は乾燥機の音に負けないよう、何度も伝言を繰り返したらしい。
戻ると、受付台にメモが置かれていた。
「お父さんより。
ハンカチの染みが落ちなければ処分。
店のことも、もう無理しなくていい」
私は笑った。
父らしいと思った。
駄目になったものは捨てろ。
店も母の形見も、お前には扱えない。
そう言われた気がした。
その夜、父へ電話をしなかった。
*
父とは、母の葬儀以来、まともに話していなかった。
母が入院したころ、私は東京で働いていた。
父からの電話は、いつも短かった。
「大丈夫だ」
「忙しいなら帰らなくていい」
私は、その言葉を信じた。
いや、信じたことにした。
母が亡くなったあと、父は私に言った。
「お前は来なくてよかった」
私はその一言を、七年間、胸の中で磨き続けた。
冷たい言葉は、磨くほどよく切れる。
会社を辞めて戻った私を、父は黙って店へ入れた。
教え方は不親切だった。
「襟を見ろ」
「ポケットを確かめろ」
「染みだけ見るな。着る人を見ろ」
褒められたことはない。
それでも、私が初めて一人で仕上げた背広を、父が誰もいない店で何度も撫でていたことを、私は知っていた。
知っていて、見なかったことにした。
*
翌朝、父が商店街の路地で倒れた。
病院へ駆けつけると、父は酸素の管をつけて眠っていた。
脳梗塞だった。
命は助かったが、言葉が出にくくなるかもしれない、と医師は言った。
父の上着を畳んでいると、胸ポケットから小さな伝票帳が落ちた。
最後のページに、昨日の伝言の下書きが残っていた。
父は言葉を間違えないよう、話す前に書いていたらしい。
「ハンカチの染みは、落ちなくても処分しないでくれ」
その下に、
「あれは母さんが最後に俺へ貸してくれたものだ」
とあった。
母が亡くなる前夜、父は病室で一人泣いたのだろう。
茶色の染みは、涙ではなく、父がこぼした缶コーヒーの跡だと、以前母が笑っていたことを思い出した。
余白には、さらに小さな字が続いていた。
「店のことも、もう一人で無理しなくていい。
日曜、二人で棚を直そう。
お前が帰ってきてから、店の灯りが前より明るい」
最後の一行だけ、何度もなぞられていた。
「来なくてよかった、ではない。
間に合わなくてよかった。
母さんの苦しむ顔を、お前に見せずにすんでよかった」
私は病室の床に座り込んだ。
七年間、私は父の言葉を聞き間違えていた。
いや、父の言葉はいつも少し足りなかった。
そして私は、その足りないところへ、いちばん残酷な意味を入れてきた。
*
店へ戻り、佐藤さんに下書きを見せると、彼女は青ざめた。
「乾燥機の音で、『処分しないで』の『しないで』と、『一人で』を聞き落としたんだと思います」
私は彼女を責められなかった。
たった数文字が抜けただけで、いたわりは見放す言葉へ変わる。
私たち親子も、同じだった。
言わなかった言葉と、聞かなかった言葉の間で、七年も立ち尽くしていた。
私は処分箱をひっくり返した。
包装紙、取れたボタン、破れた裏地。
いちばん底に、白いハンカチがあった。
洗浄台に広げ、私は染みへ薬剤を置いた。
完全には落とさなかった。
汚れだけを薄くし、記憶までは奪わないように。
人の心ひとつ洗えなかった男が、ずいぶん器用なことを考えたものだ。
*
父が目を覚ましたのは、三日後だった。
声は出なかった。
私が仕上げたハンカチを見せると、父の目がわずかに動いた。
「捨ててないよ」
父はゆっくり瞬きをした。
「店も、捨てない」
もう一度、瞬きをした。
私は父の手を握った。
洗剤で荒れ、節の太くなった手だった。
「日曜、棚を直そう」
父の唇が動いた。
声にはならなかった。
けれど今度は、勝手に悲しい意味を足さなかった。
*
春、父は杖をついて店へ戻った。
以前のようには働けない。
客の名前も、ときどき思い出せない。
それでも入口の椅子に座り、仕上がった服を眺めている。
私は受付台の伝言用紙を新しくし、いちばん上に大きく書いた。
「伝言は、省略しないこと」
その下へ、父が震える手で一文字ずつ書いた。
「た だ い ま」
私は、その隣に書いた。
「お か え り」
商店街のシャッターは、今日も半分ほど閉まっている。
店がいつまで続くかも、父がどこまで回復するかも分からない。
それでも夕方になると、私は看板の灯りをつける。
白いハンカチは、受付の奥に飾った。
染みは少し残っている。
父はそれを見るたび、目を細める。
消えなかったものがあるから、人は明日を信じられるのかもしれない。
古い硝子戸に、小さな灯りが映っている。
それだけで、今は十分だった。



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