【泣ける短編】母の手帳に残された本音|見間違いから始まった美容師親子の和解

夢幻的な町並みの夜 泣ける話

母が私の店に来なくなって、七年が過ぎていた。

商店街の端にある美容室「すみれ」は、母が三十年守ってきた店だった。

色褪せた看板、赤い回転椅子、冬になると唸る石油ストーブ。

私はそれらを古臭いと嫌い、向かいの空き店舗に、白い壁と大きな硝子窓の店を出した。

若いころの私は、古いものを捨てることを、前へ進むことだと思っていた。

     *

七年前の秋、私は東京の美容室を辞め、この町へ戻った。

店長候補から外されたことは、母に言わなかった。

大きな鞄を引きずり、「すみれ」の扉を開けた。

母は新しい眼鏡をかけ、常連客の髪を巻いていた。

私を見ると目を細め、

「ご予約の方ですか」

と言った。

冗談だと思った。

だが母は、本当に私だと分かっていなかった。

「私だよ」

母は慌てて眼鏡を押し上げた。

「ああ……あんたか」

「東京を辞めた。こっちで美容師を続ける」

母は客の髪へ視線を戻した。

「帰ってこなくてもよかったのに」

その一言で、私は深く傷ついた。

失敗して帰った娘を、母は恥じているのだと思った。

     *

数日後、店の外から母を見た。

母は私と似た背格好の若い女性に笑い、その頬へ手を伸ばしていた。

娘には気づかなかったくせに、他人にはあんな顔ができるのか。

私は店へ入り、作業台に鋏を置いた。

「母さんの店は継がない」

「急に何の話?」

「あの人を娘と見間違えたんでしょう。私の顔は分からなかったのに」

母は黙った。

その沈黙を、私は図星だからだと思った。

「向かいに自分の店を出す」

「そう。好きにしなさい」

母の言葉はいつも短すぎた。

そして私は、その空いたところへ悪意ばかりを書き込んだ。

店を出してから、母とは商店街ですれ違っても頭を下げるだけになった。

母は何度か店の前まで来た。

私は予約表を見るふりをした。

忙しい人間は冷たいのではない。

冷たくする理由を、忙しさの中へ隠すのが上手いだけだ。

     *

冬の朝、母が「すみれ」の前で倒れた。

病院の枕元には、あの眼鏡が置かれていた。

右のレンズに細い傷が走っている。

医師は、母の視力が何年も前から落ちていたと言った。

白内障だけでなく網膜にも病気があり、人の顔を見分けるのも難しかったはずだという。

「治療を先延ばしにしていたようです」

私は眼鏡を手に取った。

見えていなかったのは、母だけではなかった。

     *

退院に備えて店を片づけていると、引き出しから手帳が出てきた。

予約の横に、客のことが細かく書かれていた。

「佐伯さん、息子の結婚式。短くしすぎない」

「春江さん、耳を出すと寒がる」

七年前の秋のページだけ、広い余白が残されていた。

そこには、こうあった。

「今日、あの子が帰ってきた。

顔が見えず、お客さんと間違えた。

傷つけた。

帰ってこなくてもよかった、ではない。

私のために夢を諦めて、帰ってこなくてよかったのに、と言いたかった。

また言葉を間違えた」

その下には、書いては消した跡が続いていた。

「帰ってきてくれて、うれしい」

「本当は一緒に店をやりたい」

「でも、私の古い店に縛りたくない」

さらに下には、

「あの子に、ほんとうは――」

とだけあり、言葉は途切れていた。

ページのいちばん下に、小さく書かれていた。

「顔が見えなくなっても、あの子の手は分かる。小さいころから、人の髪に触れる手がやさしかった」

私は手帳を閉じた。

それでも余白だけが目の前に残った。

母が言えなかったこと。

私が聞こうとしなかったこと。

七年分の沈黙が、その白いところに詰まっていた。

母が店の前まで来ていたのは、硝子越しに私の手を見るためだったのかもしれない。

見えにくい目で、それでも娘を見失わないために。

私は床に座り込み、母の眼鏡を握った。

傷のあるレンズ越しに見る店内は歪んでいた。

けれど、歪んでいるからこそ見えるものもあった。

     *

母が退院する日、私は病室で髪を切った。

「床を汚すよ」

母は相変わらず、先に余計なことを言った。

「新聞を敷いたから平気」

白い髪へ鋏を入れるたび、七年間が音もなく床へ落ちた。

「母さん。あの日、私を見間違えたこと、ずっと怒ってた」

母の肩が動いた。

「でも私も、母さんの気持ちを見間違えてた」

しばらくして、母が言った。

「おかえりって、言えばよかった」

私は鋏を止めた。

七年遅れの言葉に、涙が落ちた。

「ただいま」

母は鏡の中で笑った。

謝る言葉は、もっと立派でなければならないと思っていた。

だが私たちには、その二言で十分だった。

     *

春、私は二つの店の間の壁を抜いた。

新しい店名の下に、小さく「すみれ」と残した。

母はもう鋏を持たない。

それでも窓辺に座り、客の声を聞いている。

ある日、母が手帳を差し出した。

「細かい字は、もう書けないから」

私は最後のページを開いた。

白い余白が残っていた。

「何て書く?」

「今日から、二人の店」

私はその下に一行足した。

「見間違えても、また見ればいい」

母は読めないはずなのに、うなずいた。

商店街の古いアーケードに、春の光が差していた。

私は母の眼鏡を外し、曇ったレンズを拭いた。

傷は消えなかった。

それでよかった。

親子は、最後まで相手を正しく見ることなどできないのかもしれない。

それでも、何度でも眼鏡をかけ直すことはできる。

母は私の手を握った。

その手だけは、見えなくても分かると言うように。

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