放課後の小学校には、昼間とは別の顔がある。
子どもたちの声が消えた廊下には、上履きの白い跡だけが残っている。
夕陽は窓ガラスを斜めに抜け、誰もいない教室の机を、少し寂しそうに赤く染める。
私はその廊下を、鍵束を腰に下げて歩いている。
学校用務員。
そう呼ばれる仕事を始めて、もう七年になる。
壊れた椅子を直し、花壇に水をやり、体育館の窓を閉める。
雨の日には昇降口の泥を拭き、運動場に落ちた小石を拾う。
人に胸を張って言える仕事だと、今なら思う。
けれど、父が生きていた頃の私は、そう思えなかった。
父は、この小学校の用務員だった。
私が六年生だった頃、父は毎朝、誰よりも早く学校に来て、校門の鍵を開けていた。
冬の日など、まだ空が暗いうちから、白い息を吐いて門の前に立っていた。
私はそれが嫌だった。
父が嫌いだったのではない。
ただ、友達に見られるのが嫌だった。
「お前のお父さん、学校の雑用してるんだろ」
そう言われたことがある。
相手に悪気はなかったのかもしれない。
けれど私は、その言葉を胸の奥にしまい、勝手に腐らせた。
それから私は、学校で父を見かけても知らないふりをした。
父が廊下の蛍光灯を替えていても、運動場の石を拾っていても、私は目をそらした。
父も、私に声をかけなかった。
それがまた、私には腹立たしかった。
なぜ怒らないのか。
なぜ「父さんだ」と言わないのか。
今思えば、父は私を守っていたのだ。
けれどその頃の私は、守られていることさえ恥だと思うような、つまらない子どもだった。
一度だけ、父に助けられたことがある。
六年生の秋、飼育小屋のウサギが逃げ出した。
私の当番の日だった。
鍵を閉め忘れたのは、私だった。
先生に叱られると思い、私は泣きそうになりながら校庭を走り回った。
その時、父が何も言わずに現れた。
父は泥だらけになりながら植え込みの奥に手を伸ばし、白いウサギを抱えて戻ってきた。
「先生には、金網がゆるんどったと言っておく」
父はそれだけ言った。
私は礼を言わなかった。
助かったと思った。
けれど、助けられたことを知られたのが、たまらなく恥ずかしかった。
あの時の私は、ありがとうより先に、恥を選んだのである。
卒業式の前日、私は父にひどいことを言った。
「明日、学校に来ないで」
父は玄関で、靴についた泥を落としていた。
少しだけ手を止めた。
「卒業式か」
「そう」
「母さんは行くと言っとる」
「父さんは来ないで」
私は、父の顔を見なかった。
見たら言えなくなると思ったからだ。
父はしばらく黙っていた。
それから、鍵束を腰から外し、いつもの釘に掛けた。
「分かった」
それだけだった。
その短さに、私は救われたつもりになった。
本当は、その短さで父を傷つけたのに。
父は卒業式に来なかった。
私はほっとした。
なんという息子だろう。
式の最中も、私は父がいないことに安心していた。
母が少しだけ目を赤くしていた理由を、私は考えもしなかった。
卒業文集が配られたのは、その日だった。
私は家に帰ると、自分の作文だけを読んで、文集を本棚の奥に押し込んだ。
父がそれを読んだかどうかも知らない。
知らないまま、大人になった。
高校を出て、いくつか仕事を替えた。
どの仕事も長く続かなかった。
人に使われるのが嫌だと言いながら、人に必要とされないことにも傷ついた。
我ながら、面倒な男である。
父が亡くなったのは、私が三十を少し過ぎた年だった。
葬儀のあと、母が父の鍵束を私に渡した。
「お父さん、これだけは捨てないでくれって」
鍵束は、思っていたより重かった。
校門、職員玄関、理科室、体育館、用具倉庫。
小さな鍵、大きな鍵、角の丸い鍵。
その中に一本だけ、何の鍵か分からない古い鍵があった。
真鍮色で、持ち手に小さな傷がある。
私は母に聞いた。
「これは何の鍵?」
母は首を振った。
「お父さん、秘密だって笑ってたよ」
父が秘密を持つ人だとは思わなかった。
父は、黙っているだけの人だと思っていた。
その違いに気づくまで、私はずいぶん時間がかかった。
やがて縁があり、私は父と同じ小学校で用務員として働くことになった。
最初は、逃げ場のない冗談のように思えた。
父を恥じた息子が、父と同じ鍵を持っている。
人生というものは、ときどき意地が悪い。
けれど、誰もいない朝の校舎を歩いた時、古い木の床の匂いがして、なぜか帰ってきたような気がした。
父が毎日歩いていた廊下だった。
それから私は、父の鍵束を使うようになった。
ただ、あの古い鍵だけは、どこの錠にも合わなかった。
何年も、私はその鍵を外せずにいた。
外してしまえば、父との最後の細い糸まで切れる気がした。
ある春の終わり、古い資料室を片づけることになった。
校舎の北側にある、ほとんど使われていない部屋だった。
窓は固く、棚には昔の運動会の旗や、壊れたトロフィーが並んでいた。
奥の床に、小さな木箱があった。
埃を払うと、錆びた鍵穴が見えた。
私は胸が妙に騒いだ。
あの古い鍵を差し込むと、かちり、と音がした。
たったそれだけの音で、私は子どもの頃に戻った。
木箱の中には、古い卒業文集が何冊も入っていた。
いちばん上に、私たちの年の文集があった。
表紙の端は黄ばみ、私の名前が小さく鉛筆で書かれていた。
父の字だった。
私は震える手でページをめくった。
自分の作文には、ところどころ薄い線が引いてあった。
題名は「将来の夢」。
私はそこに、こう書いていた。
人を助ける仕事がしたい。
父さんみたいに、誰かの役に立つ人になりたい。
その一文を見た瞬間、膝から力が抜けた。
覚えていなかった。
そんなことを書いたことを、私は忘れていた。
父を恥じていた私は、父のようになりたいと書いていたのだ。
ページの間に、一枚の紙が挟まっていた。
父の字だった。
達也へ。
卒業おめでとう。
式には来るなと言われたので、父さんは客席には座らなかった。
でも、朝だけ体育館に入った。
椅子を並べて、紅白幕を直して、壇上の花に水をやった。
お前が歩く場所を、少しだけ整えておきたかった。
父親らしいことは、あまりしてやれなかった。
学校で声をかけなかったのは、お前が嫌がると思ったからだ。
それが正しかったのかは分からない。
たぶん、違っていたのかもしれん。
けれど父さんは毎朝、門を開けるたびに思っていた。
今日も、お前が無事にここへ来ますように。
今日も、お前が誰にも傷つけられずに帰れますように。
お前が父さんを恥ずかしく思っていたことは、知っていた。
少し寂しかった。
でも、子どもにはそういう時期がある。
父さんにもあった。
だから怒らなかった。
ただ、この文集を読んで、うれしかった。
父さんみたいに、と書いてあった。
その一行だけで、父さんは何年でも働けると思った。
ありがとう。
いつかお前が、自分の仕事を小さく思う日が来たら、この鍵を開けなさい。
人に見えない場所を整える仕事は、人の明日を開ける仕事だ。
父さんは、そう思っていた。
私は、文集を抱えたまま、資料室の床に座り込んだ。
泣くな、と思った。
いい大人だ。
学校の用務員だ。
泣いてどうする。
けれど涙は、勝手に落ちた。
父は、卒業式に来なかったのではなかった。
私に見えない場所で、私のために働いていた。
私が恥じたその手で、私の歩く床を拭き、椅子を並べ、花に水をやっていた。
私は、遅すぎる感謝を、誰にも渡せずにいた。
「父さん」
声にすると、古い棚が少し鳴った。
「ありがとう」
返事はなかった。
けれど、錆びた窓から春の風が入り、文集のページを一枚だけめくった。
そこには、同級生のたどたどしい字で、こう書いてあった。
用務員さんが、いつも学校をきれいにしてくれてうれしいです。
名前はなかった。
誰の言葉か分からない。
それでも私は、父がそのページも読んでいた気がした。
その年の卒業式の前日、私は一人で体育館に入った。
椅子を一脚ずつ並べ、曲がっていないか何度も確かめた。
紅白幕のしわを直し、壇上の花に水をやった。
床を拭いていると、雑巾に夕陽が映った。
ふいに、父の背中がそこに重なった。
私はその場で、しばらく動けなかった。
翌朝、卒業生たちは胸を張って体育館に入ってきた。
その中に、少し俯いた男の子がいた。
父親らしい人が後ろから小さく手を振っていたが、その子は気づかないふりをしていた。
私は胸が痛くなった。
昔の私だった。
式が終わったあと、その子が昇降口で靴箱の前に立ち尽くしていた。
靴ひもが切れていた。
私は何も聞かず、用務員室から新しいひもを持ってきた。
「これ、使うか」
男の子は黙って受け取った。
少しして、小さな声で言った。
「ありがとう」
その声を聞いた時、私は父に言えなかった言葉を、少しだけ受け取った気がした。
今も私は、朝いちばんに校門の鍵を開ける。
子どもたちが来る前の学校は、少しだけ眠っている。
私は門を押し開け、花壇に水をやり、昇降口の砂を掃く。
やがて、ランドセルの揺れる音が近づいてくる。
「おはようございます」
子どもたちが走ってくる。
私は鍵束を腰で鳴らしながら、できるだけ普通の声で返す。
「おはよう。気をつけてな」
父も、こう言いたかったのだろうか。
言えないまま、毎朝、鍵を開けていたのだろうか。
あの古い鍵は、今も私の鍵束にある。
もう開ける箱はない。
けれど私は外さない。
それは父が残した、たった一つの秘密の鍵であり、私の遅い感謝を開けてくれた鍵だからだ。
夕方、誰もいなくなった教室を見回る時、私は黒板の前で足を止める。
チョークの粉が、夕陽の中で静かに舞っている。
机の列は、明日を待つように並んでいる。
私は窓の鍵を閉め、心の中で父に言う。
父さん。
今日も、門を開けました。
今日も、子どもたちは無事に帰りました。
ありがとうを言うには、あまりにも遅かった。
それでも、遅すぎる感謝にも、居場所はあるのだと思いたい。
鍵束が、小さく鳴る。
その音はもう、何ひとつ守れなかった男の音ではない。
誰かの明日を、そっと開ける音だった。




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