私は、駅前の小さな書店で働いている。
本が好きだから、というほど立派な理由ではない。
人と長く話すのが苦手で、本なら黙って棚に並んでくれるから、少し安心だった。
それだけのことだ。
本はいい。
読まれる日まで、じっと待っている。
急かさない。
責めない。
途中で閉じられても、しおりさえ挟んでおけば、また同じ場所から始められる。
人間もそうならよかったのに、と私は時々思う。
父は、本を読まない人だった。
少なくとも私は、そう思っていた。
家には古い雑誌と新聞くらいしかなく、父が小説を開いている姿など、一度も見た記憶がない。
けれど父は、私が子どもの頃、よく図書館へ連れて行ってくれた。
日曜日の午後。
母が仕事の日。
父は何も言わずに車を出し、町外れの古い図書館へ向かった。
図書館には、少し湿った紙の匂いがした。
私はその匂いが好きだった。
父は入口近くの椅子に座り、腕を組んで目を閉じていた。
寝ているように見えた。
だから私は、父は私に付き合っているだけで、本には興味がないのだと思っていた。
私は児童書の棚へ走り、好きな本を何冊も抱えた。
父はいつも、
「一冊にしろ」
と言った。
私はその言葉が嫌いだった。
もっと読みたいのに。
もっと選びたいのに。
父はいつも私の楽しみを小さく切る人だと思っていた。
ある日、私は厚い物語の本を選んだ。
青い表紙で、旅をする女の子の話だった。
背表紙には金色の星が描かれていて、私はそれを見た瞬間、どうしても借りたくなった。
父はそれを見て、
「そんな難しい本、読めんやろ」
と言った。
私は腹が立った。
「読める」
「途中で投げるなよ」
父はそう言って、貸出カウンターへ向かった。
私はその日のことを、長く覚えていた。
父は私を信じていなかった。
私が最後まで本を読める子だと思っていなかった。
その記憶は、いつの間にか小さな棘になって、胸の奥に残った。
その本を読み終えた日のことも、私は覚えている。
図書館の窓際だった。
雨が降っていて、窓ガラスに水滴が細く流れていた。
最後のページを閉じた私は、父に向かって言った。
「読めた」
父は新聞から目を上げて、
「ふうん」
と言った。
たったそれだけだった。
私はその「ふうん」を、褒めてもらえなかった記憶として、大事に傷ついた。
大人になって、私は書店員になった。
父はそれを聞いても、特に喜ばなかった。
「本屋か」
「うん」
「食っていけるんか」
それだけだった。
私は笑って、
「相変わらずだね」
と言った。
本当は、少しだけ褒めてほしかった。
子どもの頃、図書館で厚い本を読み終えたときのように。
でも父は、褒める言葉をどこかに置き忘れてきた人だった。
書店では、しおりを配っていた。
出版社から届くものもあれば、店で作ったものもあった。
季節ごとに柄が変わる。
春は桜。
夏は水色の波。
秋は銀杏。
冬は雪。
私はよく、子どもにしおりを一枚渡した。
「続きから読めるようにね」
そう言うたび、なぜか父の顔が浮かんだ。
一冊にしろ。
読めんやろ。
途中で投げるなよ。
私は父の言葉を、ずっと本の間に挟んだまま生きていた。
数年後、父が病気で入院した。
病室の父は、見慣れないほど小さかった。
大きかった背中も、怒っているように見えた眉も、病院の白い光の中では少し薄くなっていた。
私は仕事帰りに、書店で売れ残った文庫本を一冊持って行った。
「読む?」
父は目だけを動かした。
「読まん」
「だよね」
私は苦笑した。
父は少し間を置いて言った。
「お前が読め」
「私?」
「声に出して」
その頼みが意外で、私は少し戸惑った。
けれど断る理由もなく、ベッド脇の椅子に座り、文庫を開いた。
父は目を閉じて聞いていた。
眠っているのかと思うと、時々、
「そこ、もう一回」
と言った。
私は笑いそうになった。
父は、ちゃんと聞いていた。
それから数日、私は病室で本を読んだ。
仕事で疲れていても、少しだけ読んだ。
一章全部は読めない日もあった。
二ページだけの日もあった。
父は相変わらず感想を言わなかった。
ただ、私が帰ろうとすると、
「しおり、挟んどけ」
と言った。
私は売り場でもらった紙のしおりを挟んだ。
青い花の絵がついた、安いしおりだった。
「このしおり、きれいやろ」
私が言うと、父は短く言った。
「目立つ」
それだけだった。
でもその日、父はそのしおりを指で少し撫でた。
私は見ないふりをした。
見てしまうと、父の中にあったかもしれないやさしさを認めなければならない気がしたからだ。
ある夜、私は忙しさに負けて、病院へ行けなかった。
棚卸しの日だった。
閉店後の書店で、私は何百冊もの本を数えていた。
父から着信があった。
一度。
私は手を止めた。
でも、あとでかけ直せばいいと思った。
本を数える仕事より、父の電話のほうが大事だと、そのときの私は知っていた。
知っていたのに、知らないふりをした。
かけ直したのは、夜遅くだった。
父は出なかった。
翌朝、病院から電話があった。
父の容体が急に悪くなった、と。
私が病室に着いたとき、父はもう話せなかった。
枕元には、読みかけの文庫本が置かれていた。
青い花のしおりが、途中のページに挟まっていた。
父はその夜、静かに息を引き取った。
最後に何を言いたかったのか、私は聞けなかった。
葬儀のあと、私は父の荷物を整理した。
病院の紙袋の中に、下着、眼鏡、古い財布、そして小さな日記帳が入っていた。
父が日記を書いていたことを、私は知らなかった。
表紙は黒く、角が擦れていた。
開くと、短い字が並んでいた。
「娘、書店員になった」
最初にその一文が目に入った。
「本の仕事。あの子らしい。図書館で目を輝かせていた頃と同じ目をしていた」
私は息を止めた。
次のページには、もっと古い記憶が書かれていた。
「日曜、図書館。娘、青い本を選ぶ。厚い本だった。読めんやろと言ってしまった。本当は、読めたらすごいと思っていた」
涙が、紙に落ちた。
「一冊にしろと言ったのは、意地悪ではない。全部持たせてやりたかったが、あの子は小さくて、帰りに必ず眠る。一冊なら私が片手で抱え、片手で本を持てる」
私は日記を持つ手が震えた。
記憶が、音を立てて裏返った。
父は私の楽しみを小さくしたのではなかった。
私が眠った帰り道まで、考えていたのだ。
さらにページをめくると、あの日のことが書いてあった。
「娘、青い本を読み終える。窓際で得意そうに言った。読めた、と。私は、よく読んだと言えなかった。ふうん、と言った。馬鹿な父親だ」
私は声を出して泣いた。
あの「ふうん」は、無関心ではなかった。
父の中で言葉になれなかった拍手だったのかもしれない。
でも、そんなもの、子どもに伝わるはずがない。
伝わらなかった愛情は、時々、愛情ではなく傷として残る。
父も、それを分かっていたのだ。
ページをめくると、病室の日付があった。
「娘、本を読んでくれる。子どもの頃、図書館で読んでやれなかった分を、今聞いているようだ」
「声が少し疲れている。仕事帰りだろう。もう来なくていいと言いたいが、言えば本当に来なくなる。だから言わない」
「青いしおり。あの子は花が好きだっただろうか。いや、本が好きだった。私はそれを知っていたのに、知らないふりをしていた」
最後のページには、震えた字でこう書かれていた。
「電話した。出なかった。忙しいのだろう。言いたかったことは、たいしたことではない」
私は息を止めた。
続きがあった。
「次のページまで読んだ。字が少しぼやけたが、読めた。娘に、ここまで読んだと言いたかった。続きを、また読んでほしいと言いたかった」
私は文庫本を探した。
青い花のしおりは、私が最後に読んだページより少し先に挟まっていた。
父が、自分で読んだページだった。
読まんと言った父が。
本を読まないと思っていた父が。
ひとりで、続きを読んでいた。
日記の最後の一文は、かすれていた。
「もしこの本をあの子が読むなら、伝えたい。途中で投げるなと言ったのは、最後まで読める子だと信じたかったからだ。いや、違う。信じていた。言い方を間違えた」
私はその場で泣いた。
父の言葉は、いつも間違って届いた。
けれど、私もまた、間違ったまま大事に持ち続けていた。
読めんやろ。
ふうん。
食っていけるんか。
その全部を、冷たい言葉として保存していた。
私は、父の愛情をいちばん冷たい形で覚えていたのだ。
私は文庫本を開いた。
青い花のしおりが挟まっていたページから、声に出して続きを読んだ。
誰もいない部屋で。
父に届くわけもないのに。
それでも、読んだ。
最後まで。
読み終えたあと、私はしおりを最後のページに挟んだ。
終わった印ではなく、忘れないために。
人は、死んだ人との関係さえ、あとから読み直すことがある。
あのときの言葉。
あのときの沈黙。
あのときの背中。
ページを戻せば、別の意味が見つかることがある。
それは都合のいい思い出の改ざんではない。
受け取り直しだ。
痛かった記憶を、なかったことにするのではなく、別の光の下で、もう一度見ることだ。
今、私は書店のレジ横に、青い花のしおりを置いている。
無料です、と小さく書いて。
本を買った子どもが、迷いながら一枚取っていく。
そのたびに私は、言いそうになる。
一冊でいいよ。
最後まで読めなくてもいいよ。
でも、どこまで読んだか忘れないように、しおりを挟んでおくといいよ。
言葉にはしない。
ただ、本と一緒に袋へ入れる。
父の記憶を、私は受け取り直した。
冷たい言葉としてではなく、下手な見守りとして。
読みかけだった父との時間に、ようやくしおりを挟み直したのだと思う。
店を閉める夜、レジ横に残った青いしおりを一枚、私は自分の手帳にはさむ。
明日また、続きから読めるように。
そして、父の「ふうん」という短すぎる拍手を、今度は聞き落とさないように。
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