父が毎日見ていた名札に、私はようやく救われた

秋の午後の暖かな部屋 泣ける話

老人ホームの朝は、いつも名前から始まる。

おはようございます、と言うより先に、私は名札へ手をやる。

胸もとに小さく揺れる、自分の名前。

黒い文字で、真鍋 恒一とある。

入職して八年、その名札を毎朝つけるたび、私は少しだけ姿勢を正す。

名前を名乗るというのは、相手の忘れていくものの前に、こちらが先に立つことなのだと、この仕事に就いてから知った。

老人ホームでは、同じことを何度も聞かれる。

あなた誰だっけ。

今は朝かい。

うちの人は迎えに来るかね。

そのたび私は、名札に触れながら答える。

真鍋です、介護士です、大丈夫ですよ、と。

そうしているうちに、ときどき、自分のほうが救われている気がすることがある。

忘れられないことだけが、愛情ではない。

何度忘れられても、何度でも名乗ることにも、たぶん別のかたちの情がある。

私は昔、自分の名前を父に呼ばれるのが苦手だった。

呼ばれると、たいてい叱られる前触れだったからだ。

父は口数の少ない人で、機嫌のいい顔というものをめったに見せなかった。

建設現場で働いていて、帰ってくるころにはいつも泥と疲れをまとっていた。

仕事靴を脱ぐ音まで、どこか苛立って聞こえた。

「遅い」

「だらしない」

「男なんだからしゃんとしろ」

父の言葉は、たいてい命令か叱責の形をしていた。

子どものころの私は、それをそのまま受け取った。

自分は父に、出来の悪い息子として見られているのだと思っていた。

褒められた記憶はほとんどない。

通信簿を見せても、「ここが足りない」と言われた。

部活の試合に勝っても、「次があるだろ」で終わった。

運動会の日も、卒業式の日も、父は腕組みをしたまま、何か一言足りない顔で立っていた。

私はその「足りなさ」ばかりを見て育った。

けれど今にして思えば、父は人を喜ばせる言い方を知らなかっただけなのかもしれない。

子どものころ、台風の日には、私の自転車だけが屋根のある場所へ移されていた。

冬になると、私の制服の上着だけが先にストーブの前へかけられていた。

朝寝坊して弁当を忘れた日、昼休みに学校へ届けに来たのは母ではなく父だったこともある。

ただ、そのとき父は教室の前で「ほら」とだけ言って、すぐ帰ってしまった。

私は恥ずかしさのほうが先に立って、ありがたさを受け取れなかった。

人は欲しかった言葉をもらえないと、別の形で差し出されていたものまで、ずいぶん長く見落とす。

だから高校を出るころには、早く家を出たいとしか思わなかった。

介護の仕事を選んだときも、父は渋い顔をした。

「下の世話までして、大変な仕事だな」

私はその言い方に傷ついた。

大変だな、ではなく、よくやるな、とでも言ってくれれば違ったのに、と思った。

けれど父は続けなかった。

そこで黙って煙草に火をつけた。

私は、その沈黙を軽蔑だと思った。

結局この人は、私の選んだものを一度もまっすぐ認めてくれないのだと、また勝手に絶望した。

それから私は、実家との距離を少しずつ覚えた。

帰省の回数を減らし、電話も短くし、父とは母を挟んでしか話さなくなった。

言いたいことがないわけではなかった。

ただ、言えばどうせ傷つくと思っていた。

傷つく前に黙るのは、私の悪い癖だった。

父が入所してきたのは、その父自身だった。

去年の秋、脳梗塞のあと足腰が弱り、自宅での生活が難しくなった。

母は数年前に亡くなっていたし、私は最初、勤め先とは別の施設を探して父を預けるつもりでいた。

身内の介護は、仕事とは別の泥を含む。

感情が混じると、手つきが鈍ることを私は知っていたからだ。

けれど空きがなく、上司から「身内だからこそ悩むだろうが、うちで受けることもできる」と言われ、私は断れなかった。

父は車椅子で施設に来た日、ひどく不機嫌だった。

不機嫌というより、恥じているように見えた。

けれど私には、その顔すら昔の父の延長にしか思えなかった。

ありがとうも言わない。

頼むも言わない。

ただ、黙って眉間に皺を寄せる。

私は仕事として父に接した。

食事介助は他の職員に回してもらい、入浴の日はできるだけシフトを外した。

それでも廊下ですれ違えば、父は私の名札を見るようになった。

いや、見ているというより、じっとそこへ目を置くのだ。

最初は認知のせいかと思った。

名前が読めなくなりかけた老人が、近くの文字へ目を留めているだけなのだと。

けれど違った。

父は私の顔より先に、名札を見た。

毎回、そうだった。

私はそれが気味悪かった。

名前を呼ばれるより、黙って見られるほうがつらいこともある。

ある晩、夜勤の巡回で父の部屋へ入った。

消灯後で、廊下の灯りだけが薄く差していた。

父は眠っているふりをしていたが、呼吸の浅さですぐ分かった。

私は布団のずれを直し、加湿器の水量を確かめ、コップの位置を手元へ寄せ、黙って出ていこうとした。

そのとき父が、かすれた声で言った。

「おまえ、その名札、よう見えるな」

私は振り返った。

「は?」

「真鍋……恒一、ってな」

それだけ言って、父はまた黙った。

私は妙に腹が立った。

そんなことを言うために呼び止めたのか、と。

名前くらい、当たり前だろう。

私は「仕事ですから」とだけ言って部屋を出た。

けれど、その夜は眠れなかった。

仕事ですから、なんて、ずいぶん冷たい言い方だと思った。

思ったが、もっと冷たい言葉を昔たくさん飲み込まされたのはこっちだ、とも思った。

親子というのは、どうしてこう勘定が細かいのだろう。

それから数日後、父が転倒しかけた。

食堂から部屋へ戻る途中、足がもつれて、壁に肩を打ちつけたのだ。

大事には至らなかったが、私は反射的に強い声を出した。

「危ないって言ったでしょう!」

父は一瞬、子どもみたいに目を見開いた。

その顔を見た瞬間、私は自分の声の響きに気づいた。

父そっくりだった。

心配は、たいてい乱暴な姿で出てくる。

嫌っていたはずなのに、人はそういうものまで受け継ぐ。

叱りたかったのではない。

怖かったのだ。

もしここで父に何かあったら、と。

けれど私の口から出たのは、やさしさではなく責める調子だった。

その日の夜、父の部屋へ謝りに行くつもりだった。

けれど行けなかった。

謝るより先に、責めたい気持ちがまだ残っていたからだ。

自分でも呆れる。

四十を過ぎても、私は父の前では子どものままだった。

数日後、父の引き出しの中から、一枚のメモが見つかった。

洗濯物の整理をしていた職員が見つけて、私にそっと渡してきた。

「お父さんの字みたいです」と言われ、私はすぐには開けられなかった。

薄いメモ用紙だった。

何度か折りたたまれ、角が柔らかくなっていた。

父の字は昔から不器用で、無理にまっすぐ書こうとするぶん、かえって少し傾く。

その字で、こう書いてあった。

――恒一へ

やはり私は、自分の名前から逃げられないらしい。

続きを読んだ。

――言うと怒る顔をするから、書く。

そこで、少しだけ笑ってしまった。

父らしいと思った。

最後まで、へたくそなのだ。

――おまえの名札を毎日見ている。

――ちゃんと働いている名前だと思う。

――人に世話をされるようになって、初めて分かった。

――ああいう仕事は、やさしいだけではできん。

――おまえは、昔から人の顔色を見すぎるところがあったが、今はそれが役に立っているんだろう。

――立派だと思っている。

そこで私は、読めなくなった。

字が滲んだからだ。

立派だと思っている。

そんな言葉を、父が持っていたなんて知らなかった。

もっと早く言えばよかったじゃないか、と、まず思った。

それからすぐ、そういうことを言える人なら、こんなふうには拗れなかっただろう、とも思った。

父は一生、不器用なままの人なのだ。

たぶん私も。

メモの最後には、さらに二行あった。

――あの日、介護の仕事をすると言ったとき、下の世話までして大変だなと言ったのは、

――やめろという意味ではない。自分にはできんと思っただけだ。

私は椅子に座り込んでしまった。

あれは軽蔑ではなかったのか。

ただ、自分にはできないことを、おまえはやるのか、と驚いていただけなのか。

思い返せば、あのとき父はそのあと何か言いかけて、結局黙ったのだった。

私はその沈黙の先を、勝手に悪い意味で埋めてしまった。

人は、自分がいちばん傷つく解釈を、ずいぶん長く握りしめるものだ。

そのメモを胸ポケットに入れたまま、私はしばらく動けなかった。

夕方、父の部屋へ行くと、父は窓の外を見ていた。

中庭の木が少しだけ色づきはじめていた。

西日がベッド柵に細い影を落としていた。

私は名札をつけたまま、ベッドのそばに立った。

父は私を見て、それから例のように名札へ目をやった。

私はたまらず言った。

「そんなに名札ばかり見なくても、俺だって分かるでしょう」

父は少し黙ってから、言った。

「分かるから見てるんだ」

私は、その短い言葉でまた駄目になりそうになった。

泣くまいとして、変な顔になったのだと思う。

父は視線を外して、小さく咳払いをした。

「……メモ、読んだか」

私は頷いた。

「読んだ」

「なら、いい」

よくない、と思った。

それだけで済ませるな、とも思った。

けれど責める気にはもうなれなかった。

私はベッド脇の椅子に座った。

「父さん」

声が少し震えた。

「俺、ずっと……認められてないと思ってた」

父は何も言わなかった。

ただ布団の上の手が、かすかに動いた。

私はその手を初めてちゃんと見た。

節くれ立って、爪の形も悪くて、乾いた傷がいくつも残っている。

たくさん働いた手だった。

私を抱き上げたり、弁当を届けたり、自転車を屋根の下へ移したりした手でもあったのだと、そのときようやく思い至った。

その手で、うまく言えないまま育てられたのだと思った。

「ごめん」

と言ったのは、どちらが先だったか分からない。

たぶん、ほとんど同時だった。

私は笑ってしまった。

泣きながら笑うなんて、ずいぶんみっともない。

父も、少しだけ笑った気がした。

それは私が生まれて初めて見た、父の降参みたいな顔だった。

その夜の巡回で、私はいつもより丁寧に父の布団を直した。

名札が胸で小さく揺れた。

父は目を閉じたまま、「恒一」と一度だけ言った。

叱る声ではなかった。

呼んだ、というだけの声だった。

それだけで、四十年ぶんくらいのつかえが、少しだけほどけた気がした。

和解というのは、抱き合って泣くような派手なものではないのだろう。

たぶん、こういうものだ。

遅すぎる言葉が、ようやく小さな紙切れに乗って届くこと。

名札の名前を、他人のためだけではなく、父が確かめるように見ていたと知ること。

それだけで、人は少し救われる。

翌朝も、私はいつものように名札をつけた。

鏡の中の自分は、昨日までと同じ顔をしていた。

けれど、名前だけが少し違って見えた。

誰にも認められないまま働いていると思っていたその名前を、ちゃんと見ていた人がいたのだと、今は分かるからだ。

老人ホームの朝は、今日も名前から始まる。

私は胸もとの名札に触れ、小さく姿勢を正した。

そして父の部屋の前で一度だけ深呼吸をしてから、扉を開けた。

「おはようございます、真鍋です」

そう言うと、父は薄く目を開けて、かすれた声で答えた。

「知ってる」

そのぶっきらぼうな一言が、朝の光より少しだけあたたかかった。

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