山あいの町の朝は、平地より少し遅れて明るくなる。
谷の底へ光が落ちてくるまでに、いくつもの屋根と木々の影をくぐるからだろう。
そのせいか、町全体が目を覚ますのにも、少し時間がかかる。
味噌屋の煙突から白い湯気がのぼり、郵便局の前に赤いバイクが出て、川沿いの道にだけ先に日が差す。
冬の朝などは、日陰に残った霜がしばらく白く光って、バスのフロントガラスにも、夜の冷えがうっすら残っている。
私はそのゆっくりした明るさが、嫌いではない。
若いころは、こういう町が息苦しかった。
何もかもが遅くて、狭くて、誰が何をしているかすぐ知れてしまう。
駅前の喫茶店へ入っただけで、夕方には母の耳へ入るような町だった。
だから私は一度、ここを出た。
出たくせに、結局は戻ってきて、いまは町営バスの運転士をしている。
戻ってきた、と言うと聞こえはいい。
ほんとうは、遠くまで行ける人間ではなかっただけかもしれない。
人はときどき、故郷への愛着と、行き場のなさを、ずいぶん都合よく言い換える。
私も、そのへんはだいぶ怪しい。
四十一になった。
朝一番の便に乗ると、小学生が二人、病院へ行くおばあさんが一人、それから駅まで出る高校生が三人くらい、だいたい同じ顔ぶれが座る。
車内は静かだ。
山道を上るエンジン音と、定期券を機械に通す小さな音だけが、規則正しく重なる。
小学生は眠そうな顔で窓に頭を預け、高校生はイヤホンを耳へ差し込み、おばあさんは膝の上の鞄を両手で抱く。
私はバックミラー越しにそれを見ながら、今日もこの人たちを、それぞれの一日へ運ぶのだと思う。
私はこの仕事を、向いていると思ったことは一度もない。
ただ、好きとも嫌いとも言い切れないまま長く続いた仕事は、たぶん、人生のどこかに合っているのだろう。
毎日同じ道を走る。
同じ停留所で客を待ち、同じカーブで少しだけ減速し、終点へ着けば、また折り返す。
そういう繰り返しのなかでしか、保てない気持ちもある。
私がこの仕事に就いたのは、恩師の影響だった。
高校の担任だった桐島先生である。
国語教師だった。
背の高い人で、冬でも少し薄い上着を着て、鞄の中にはいつも手帳を入れていた。
説教くさい熱血教師ではなかった。
むしろ、感情の出し方が少し下手で、褒める時ほどぶっきらぼうになるような人だった。
授業中も、作品の感想を語るかわりに、黒板の隅へ短く単語を書いて終わることが多かった。
余白を残す先生だった。
当時の私は、そういうところが少し苦手だった。
もっとわかりやすく言ってくれればいいのに、とよく思った。
ただ、進路に迷っていた私にだけ、一度こう言った。
「おまえは、人を前へ運ぶ仕事が向いている」
当時の私は、それを妙に馬鹿にされた気がした。
前へ運ぶ、とは何だろう。
教師なら教師らしく、夢を持てとか、もっと大きなことを言えばいいではないか。
その頃の私は、都会へ出て何者かになりたい、などという、曖昧なくせに妙に気取った焦りを抱えていた。
だから先生の言葉を、地方へ残る人間への慰めくらいにしか受け取れなかった。
ひどく若かったのだろう。
若さというものは、時々、やさしい言葉まで侮辱に聞こえる。
卒業式の日、先生は私に一冊の小さな手帳をくれた。
黒い表紙の、どこにでもある安い手帳だった。
「約束は書いておけ」
と先生は言った。
「忘れるからな」
私はその時、笑ってしまった。
冗談めかしていたつもりだが、たぶんずいぶん失礼な笑い方だったと思う。
「そんなに忘れませんよ」
と言った。
先生は少し眉を上げて、
「忘れるよ」
とだけ言った。
そのあと私は町を出て、専門学校へ行き、都会で職を転々とし、うまくいかず、父の病気をきっかけに戻ってきた。
戻った時には先生はもう定年が近く、私はなんとなく会いに行きづらかった。
都会で立派になってから顔を出すつもりだった、と言えば聞こえはいいが、実際は、立派になれなかった自分を見せるのが嫌だっただけである。
そうこうしているうちに父が亡くなり、私は町営バスの求人に滑りこんだ。
研修を受け、路線を覚え、毎朝ハンドルを握るようになった。
すると不思議なことに、あの頃、少し馬鹿にしていた先生の言葉が、じわじわ効いてきた。
確かに私は、人を前へ運んでいた。
大げさな意味ではない。
通学へ、通院へ、買い物へ、駅へ。
人生を変えるほどではないが、その日の一歩を確実に運ぶ仕事だった。
雪の日には通学の靴を濡らさないように少し停車位置を寄せ、杖の老人が乗る日は扉を閉めるタイミングを一拍遅らせる。
誰も気づかないような小さな配慮が、その人の今日を少しだけ楽にする。
そういうことの積み重ねで、この仕事はできていた。
そう思いはじめたころ、一度だけ先生がバスに乗った。
定年後で、髪は白くなっていたが、手帳だけは相変わらず持っていた。
午後の空いた便だった。
乗客は二、三人で、車内の窓に西日の薄い色が差していた。
私は運転席から会釈した。
先生は定期券を出しながら、
「続いてるな」
と言った。
それだけだった。
私は嬉しかった。
だが嬉しいときほど、人は妙なことを言う。
「先生の言う通りになっちゃいましたよ」
私は少し笑いながら言った。
「前へ運ぶ仕事、でしたっけ。結局、地元です」
冗談のつもりだった。
だが先生は少し黙ってから、
「結局、ではないだろう」
とだけ言った。
その声が思ったより硬くて、私は急にむきになった。
「いや、まあ、そういう意味じゃなくて」
「意味は、言い方に出る」
先生は前を見たまま言った。
そこで私も、つまらない意地を張ってしまった。
忙しい時間帯だったし、後ろには高校生が立っていたし、何より、図星を刺された時の私は昔から妙に子どもっぽい。
「先生は昔から、言い方がまわりくどいんですよ」
そう言った。
先生は、それきり黙った。
終点で降りる時も、こちらを見ずに軽く手を上げただけだった。
あとになって、ずいぶんまずいことを言ったと思った。
だが、人は大人になるほど謝るのが下手になる。
若いころなら勢いで言えたことが、年をとると、体裁や沈黙に邪魔されて言えなくなる。
私はそのまま、先生に会いに行かなかった。
忙しかったのもある。
朝が早く、夜は疲れて、休みの日には母の買い物につき合い、車検だ税金だと、生活は細かく人を削る。
だが忙しさというものは、だいたい卑怯者の味方である。
本当に会おうと思えば、会えたはずなのだ。
それなのに私は、いつでも会えるような気でいた。
先生は町にいる。
バスに乗れば、また会う。
そう思っていた。
思っていたくせに、ある日、停留所の脇で花を持って立っている元同級生を見て、私はようやく知った。
桐島先生は、先月亡くなっていたのである。
心筋梗塞だったらしい。
私はその日の運転を終えてから、車庫でしばらく動けなかった。
ハンドルから手を放したあとも、指だけがまだ握る形のまま残っていた。
驚いたというより、自分の中の何かが、妙に間の抜けた壊れ方をした感じだった。
いつでも会える、などと思っていた相手は、だいたい先にいなくなる。
そういう当たり前のことを、私は四十を過ぎてもまだ、自分の痛みとしては知らなかったのだ。
数日後、学校から連絡があり、先生の遺品の整理で、卒業生宛のものが少し出てきたと言われた。
私は仕事のあと、職員室へ行った。
机も椅子も変わっていたが、夕方の匂いだけは昔と同じだった。
古い書類棚の匂い、ワックスの薄い光り方、遠くで鳴る部活の声。
そこで渡されたのは、見覚えのある黒い手帳だった。
卒業式の日に先生が私へくれたのと、同じ型のものだった。
けれど、これは先生自身の手帳だった。
最初のページに、私の名前があった。
日付は、あの日、先生が私のバスに乗った日だった。
私は震える手で、そのページを開いた。
そこには、短くこう書かれていた。
山崎のバスに乗る。
その下に、少し字を足したように、
約束を思い出させる。
とあった。
約束。
私はその言葉がすぐにはわからなかった。
だが、次のページに移って、息が止まった。
数年前の日付のところに、
卒業のとき、山崎と約束。町に戻ったら一度、川向こうの終点まで一緒に乗る。
と書かれていたのである。
私は、その約束をまったく覚えていなかった。
卒業の日、たしかにそんなことを言ったのかもしれない。
町を出る前に、先生が冗談みたいに、「おまえが運転士になったら乗ってやる」と言って、私は「じゃあ終点まで案内しますよ」と笑ったのかもしれない。
だが私は忘れていた。
きれいさっぱり忘れて、先生に「結局、地元です」などと言ったのだ。
手帳のその先には、もっと小さな字でこうあった。
あいつは忘れていた。忙しいのだろう。
さらにその下に、
忘れるのは悪いことではない。思い出したときに、間に合えばいい。
私はそこで読めなくなった。
間に合わなかったからである。
先生は最後まで、私を責める書き方をしなかった。
忘れていた、と認めて、それでも、間に合えばいい、と書く。
あの人らしかった。
やさしいことほど、まっすぐには言わない。
でも、残すべきことだけは、ちゃんと残していく。
手帳の最後の見返しには、切符が一枚挟まっていた。
私の路線の、終点までの回数券だった。
使わないまま、きれいに残っていた。
それを見た瞬間、私はたまらなくなった。
先生は本当に、乗るつもりだったのだ。
忘れていたのは私だけだった。
私は職員室の隅で、手帳を閉じたまま泣いた。
夕方のチャイムが鳴っていた。
外では、部活帰りの生徒が笑っている。
そのありふれた音の中で、もう会えない人から、ようやく本当の言葉を受け取るというのは、どうにも間が抜けていて、どうにも痛かった。
その翌週、私は非番の日に、自分の担当ではない始発便へ乗った。
運転は後輩に任せ、いちばん前の席に座った。
川向こうの終点まで、先生と行くはずだった路線である。
山道を上り、杉林を抜け、最後の集落を過ぎると、車窓の景色が少しずつ開けていく。
秋の田んぼはもう刈られていて、川面だけが朝の光を薄く返していた。
私はそのあいだ、ずっと手帳を膝にのせていた。
終点に着くと、秋の風が少し冷たかった。
小さな待合所と、自販機と、色の薄くなった時刻表しかない場所だった。
私はそこで、先生の手帳に新しく一行書いた。
終点まで来ました。遅くなりました。
それから、もう一行。
次は忘れません。
もちろん、それを誰かが読むわけではない。
けれど約束というものは、相手がいなくなってからでも、こちらの中では続くのかもしれない。
それ以来、私は車内に忘れ物がないか、前より丁寧に見るようになった。
定期券を落とした高校生がいれば、次の便まで預かる。
病院帰りのおばあさんが降りる時には、手帳を座席に忘れていないか一度だけ目をやる。
停留所で待つ小学生が濡れていれば、扉の脇で少しだけタオルを渡す。
そういう小さな確認をするたび、私は先生の言った「前へ運ぶ」の意味を、少しずつ受け取り直している気がする。
人を前へ運ぶとは、ただ目的地へ着かせることではない。
その人の今日を、なるべく欠けずに次へ渡すことなのだろう。
山あいの町は、今日も少し遅れて明るくなる。
私は始発のエンジンをかけ、バックミラーを合わせる。
定期券を通す音がして、小さな足音が乗りこむ。
その一つひとつを、今は昔より、少しだけ大事に思う。
先生に会うことは、もうできない。
けれど、あの手帳の中で、忘れた約束はようやく動き出した。
私はギアを入れて、静かにバスを発車させる。
終点までのあいだには、まだ運べるものが、いくらでも残っている。



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