父は、私を一度も褒めなかった。
いや、正しく言えば、褒められたことに私が気づかなかったのかもしれない。
けれど少なくとも、若いころの私は、息子というものはもっと分かりやすく認められるべきだと思っていた。
肩を叩くとか、でかしたと笑うとか、せめて一言、ようやったと言うとか。
そういう形があるものだと、勝手に信じていたのだ。
漁師になって十二年になる。
港町の朝は早い。
というより、朝というものが来る前から、海のそばの人間は働き始める。
午前三時、まだ空の色が夜に近いうちに起きて、合羽を着て、冷たい水で顔を洗い、船へ向かう。
漁港にはいつも、古い鉄の匂いと、潮と、魚の生臭さと、誰かの煙草の残り香が混じっている。
その匂いの中に立つと、眠気より先に身体が漁師の形へ戻っていく。
父は、その匂いの中で生きてきた人だった。
背の高い、骨ばった人で、笑うと目尻に深い皺が寄るくせに、家ではほとんど笑わなかった。
船の上ではよく喋るのに、家へ帰ると黙る。
そういう男だった。
私は子どものころ、その沈黙が苦手だった。
母が味噌汁をよそい、私が学校の話をしても、父は「そうか」とか「ふん」とか、それだけで終わる。
通知表を見せても、「字が汚い」としか言わない。
初めて一人で鯵を三枚におろしたときも、「骨が残っとる」と言った。
小学生の私は、そのたびに思った。
この人は、私のどこを見ているのだろう、と。
母はよく、「あんたのお父さんは言い方が損なの」と笑っていたが、子どもにとっては言い方がすべてだ。
損な言い方でしか渡されない愛情は、しばしば愛情に見えない。
高校を出て、会社勤めではなく漁師になると決めたときも、父は反対こそしなかったが、喜びもしなかった。
「好きにせい」
そう言っただけだった。
その言い方が、長いこと胸に引っかかっていた。
好きにせい。
突き放されたような、どうでもいいような、そんな響きに聞こえたのだ。
実際のところ、父は私が船に乗るようになっても、自分の船名を継がせなかった。
親子で同じ船団にいても、持ち場はきっちり分けた。
漁の指示も、必要最低限しか出さない。
私が網を引く手を少しでももたつかせれば、「遅い」とだけ言う。
魚の選り分けが甘ければ、「目ぇ見とるか」と吐き捨てる。
周りの漁師仲間が「親父さん、厳しいな」と笑うたび、私は苦笑いを返しながら、内心ではかなり傷ついていた。
父は私を一人前だと思っていない。
たぶんそうだろうと、勝手に結論づけていた。
海の上で生きる男は、案外、思い込みだけで深く拗ねられるものだ。
一度そう思ってしまうと、そのあとの言葉は何でも冷たく聞こえる。
たとえば父が、
「波の音、今日は変だ」
と言えば、ただの経験ではなく、若いおまえには分からんだろう、という自慢に聞こえたし、
「無理して出るな」
と言えば、どうせおまえには無理だ、という見下しに聞こえた。
いま思えば、ずいぶん自意識の強い息子だった。
だが当時は、それが若さというものだと思っていた。
三年前、父は船の上で倒れた。
脳の病気だった。
命は助かったが、足が少し不自由になり、もう沖へは出られなくなった。
海の男にとって、それは半分死んだのと同じだ、と、父自身が昔よく言っていた。
だから私は、父がもっと荒れるかと思っていた。
酒を飲んで怒鳴るとか、家にいることに耐えられず苛立つとか、そういう分かりやすい壊れ方をするのではないかと思っていた。
けれど父は、意外なくらい静かだった。
漁協へ行っても長居はせず、昼には戻り、居間の隅でラジオを聞いていた。
古びた携帯ラジオだった。
銀色の塗装が剥げ、アンテナが少し曲がっている。
もともと船に持ち込んで、天気と波の情報を聞くためのものだったが、父はいつからか、昼の投稿番組を聞くようになっていた。
私はそのことを、少し軽蔑していた。
海へ出られなくなった男が、家でラジオに耳を寄せて笑っている。
それがどうにも、惨めに見えたのだ。
実際には、惨めだったのは父ではなく、そんな見方しかできなかった私のほうだったのだが、そのころの私は気づかなかった。
父はラジオを聞きながら、ときどき小さく笑った。
口の端だけで笑うような、あまり見たことのない顔だった。
「何がおかしいの」
私が聞いても、
「別に」
としか言わない。
母は台所で、呆れたように言ったものだ。
「このごろ、あの人、毎週みたいに投書しとるよ」
「投書?」
「ほら、あの昼の番組。読まれたらタオルがもらえるとかいう」
私は思わず鼻で笑った。
父がそんなことをしているとは思わなかった。
いや、思いたくなかったのかもしれない。
あの父が、はがきやメモに何か書いて、知らない相手に送る。
そんな姿は、私の中の父親像にまるで合わなかった。
「暇なんじゃない」
そう言った私に、母は少し嫌な顔をした。
「暇、ねえ」
その言い方の意味を、そのときの私は考えもしなかった。
暇なのではなく、やれることが急に減ってしまった人間の、余った時間だったのだ。
沖へ出られず、網にも触れず、波の具合を身体で確かめることもできない男が、それでもどこかに気持ちを向けようとしていた、その行き先がラジオだったのかもしれない。
でも私は、そんなふうに想像してやる優しさを持たなかった。
父は父で、弱ったところを見せない人だった。
足を引きずることが増えても、「年だ」としか言わず、病院から戻っても薬の説明をろくにしなかった。
夕方、港のほうを眺める時間が長くなったことも、私は見て見ぬふりをした。
見れば、何か話さねばならなくなるからだ。
去年の冬、父はあっけなく死んだ。
夜中に咳き込んだあと、そのまま息を引き取った。
大きな最期ではなかった。
波にさらわれたわけでも、船ごと沈んだわけでもない。
家の布団の上で、ひどく静かに死んだ。
漁師のくせに、と思った。
海で生きてきた人間が、こんなふうに陸で終わるのかと、少しだけ理不尽な気持ちにもなった。
そしてその理不尽さを、なぜか父に向けていた。
父のほうが、よほど不本意だったろうに。
葬儀は漁協の人たちが手伝ってくれて、思っていたより多くの人が来た。
皆、父のことを「よく面倒を見る人だった」とか、「口は悪いけど根はやさしい」とか、似たようなことを言った。
「若い衆が船酔いしたら、あの人だけは黙って背中さすってくれた」
「時化の日、ひとんちの船まで見に行くような人だった」
「息子さんのことも、よう見とったぞ」
最後の一言に、私は思わず顔を上げた。
だが、相手はすぐ別の話を始めた。
私は棺の前で、喪服の袖の中に拳を握ったまま、その言葉の意味を考えないようにした。
見とったぞ、だなんて、葬儀の場でよくある慰めだろうと思ったのだ。
私はそのときまで、父のことを、まだ正しく受け取る気がなかった。
四十九日を過ぎたころ、父の遺品を片づけることになった。
漁具や長靴や古い手帳や、もう使わない工具類を整理していたとき、居間の棚の奥から、あのラジオが出てきた。
父の手の油が染みついたような、少しざらつく感触だった。
電池はまだ入っていた。
なんとなくスイッチをひねると、ざらついた雑音のあとに、人の笑い声が流れた。
昼の投稿番組だった。
私はすぐ消そうとして、手を止めた。
ちょうど葉書の紹介が始まるところだった。
軽い調子の女性パーソナリティが、明るい声で読み上げた。
「それでは次のお便りです。ラジオネーム、夜明けの網しばりさん」
私はそこで、妙な胸騒ぎを覚えた。
夜明けの網しばり。
そんな呼び名をするのは、このあたりでは父くらいだった。
網をしばる夜明け前の手つきのことを、父はそう呼んでいた。
私は畳の上に座り込んだまま、ラジオに耳を寄せた。
「うちの息子は、朝が早くても文句を言わんで船に乗ります。若いくせに愛想はないし、家ではろくに喋らん。たぶん親に似ました」
スタジオが少し笑った。
私は息を止めた。
「この前、時化の日に、港へ戻ってから一番先に隣の船の綱を取りに走っていました。ああいうのを見てると、ちゃんと漁師になっとるんだなと思います。でも本人にはよう言いません。言うと調子に乗りそうだから」
そこで、パーソナリティが笑いながら言った。
「お父さんですねえ。これはもう、立派な自慢話ですよ」
私はその先を、ちゃんと聞けなかった。
耳鳴りみたいに血の音がして、目の前の畳が少し揺れた。
その投稿は、たしかに父のものだった。
名前は出ていなかったが、私のことだった。
愛想がないことも、隣の船の綱を取りに走った日のことも、そのままだった。
あの日のことを、私はよく覚えている。
風が急に変わって、港へ戻る船がみな慌ただしくなった日だ。
私は自分の船を固定したあと、隣の年寄り漁師の船の綱が外れかけているのに気づいて走った。
ただそれだけのことだと思っていた。
誰に見られているとも思わなかった。
だが父は見ていたのだ。
そして、それを他人に語るくらいには、嬉しかったのだ。
私は何度か瞬きをした。
けれど言葉は消えなかった。
父は、私のことをラジオに書いていたのだ。
本人にはよう言いません。
その一文が、胸に深く刺さった。
それから私は、棚の引き出しを片っ端から探した。
父の字はすぐに分かった。
癖のある、少し右上がりの字だ。
居間の文机の下の薄い引き出しに、郵便番号のメモ帳と、輪ゴムに束ねられた数枚の紙が入っていた。
番組宛ての投稿文の下書きだった。
大学ノートを切ったような紙に、ボールペンで短く書かれている。
どれも宛名はない。
ただ、そのまま読まれれば誰かに届くような、妙に不器用な文章だった。
『港でいちばん声がでかいのはうちの息子です。本当は家でもそれくらい喋ればいい』
『魚の目を見るようになった。最初は触るのも下手だったのに』
『若いのに、古い漁師みたいな背中をして船を洗う。ちょっと可哀想で、ちょっと頼もしい』
『息子はたぶん、自分が思ってるより人のことを見てる』
私は一枚読むたびに、顔を上げられなくなった。
父は褒めなかったのではなかった。
褒め方が分からなかったのだ。
あるいは、正面から言うのが照れくさくて、ラジオの向こうに逃がしていたのだろう。
私に直接言えばよかったのに、と思った。
そう思う一方で、ああ、この人はこれしかできなかったのだ、とも分かった。
海の男というより、ただの不器用な父親だったのだ。
束のいちばん下に、封筒に入っていない一枚があった。
たぶん最後まで出さなかった投稿文だろう。
そこだけ、字が少し震えていた。
『海へ出られんようになって、息子の船の音で朝を知るようになりました。エンジンのかかり方で、今日は急いでるとか、寝不足だとか、だいたい分かります』
私はそこで、とうとう泣いた。
父のいない居間で、ラジオを抱えるみたいに持って泣いた。
声を出すと、妙に情けない嗚咽になった。
投稿文は続いていた。
『前は自分の船のことばかり考えていたけど、このごろは息子の船が港から見えなくなるまで見ています。戻ってくると安心します。親というのはそういうもんかもしれません』
私ははっとした。
思い返せば、父が倒れてからの二年ほど、港を出るときに岸壁の端へ誰か立っているのを何度も見た。
帽子を目深にかぶり、手すりに寄りかかるようにしている影だった。
私はてっきり、他所の年寄りかと思っていた。
あるいは分かっていて、分からないふりをしていたのかもしれない。
なぜなら、もしそれが父だと認めてしまえば、私が長年拗ねてきたものが、ひどく子どもっぽく見えてしまうからだ。
最後の一行だけ、少し濃く書かれていた。
『本人には言わんけど、見守るくらいは、まだやれる』
私はその文を、何度も読み返した。
見守るくらいは、まだやれる。
それが、父の愛情の言い方だったのだ。
抱きしめもせず、褒めもせず、ただ港から船影を見ていた。
無骨で、損で、分かりにくい。
でも、たしかにそこにあった。
私は急に、子どものころの朝を思い出した。
まだ漁師になる前、小学校の遠足の日、父は何も言わずに玄関先で私の靴の泥を落としていた。
中学の修学旅行の日には、寝坊した私の枕元に黙って目覚まし時計を置き直していた。
高校の部活の試合で負けた夜には、台所の隅に私の好きな干物が焼いてあった。
どれもそのときは、母がやったことだと思っていた。
でも、もしかしたら違ったのかもしれない。
違ったと、いまの私は思う。
父は昔から、正面から言えないぶん、横や後ろから見ている人だったのだ。
その日から、私は朝、港へ出る前に父のラジオを船に持ち込むようになった。
天気予報を聞くためだけではない。
雑音の向こうに、父の気配が少しだけ残っている気がしたからだ。
ある朝、まだ空が濃い藍色のころ、港を出る前にラジオをつけた。
波の情報のあと、ちょうどあの番組の再放送が流れた。
私は舵を握りながら、父の読まれた投稿をまた聞いた。
前よりちゃんと聞けた。
自慢話ですよ、と笑うパーソナリティの声に、私はひとりで小さく笑った。
調子に乗りそうだから、言わん。
まったく、どこまで不器用なのだろう。
でも、たぶん私も似たようなものだ。
父に「ありがとう」と一度もまともに言わなかった。
倒れたあとも、「もう沖へ出るなよ」とぶっきらぼうにしか言えなかった。
見舞いの言葉すら、うまく選べなかった。
海から離れた男が何を思うのか、聞いてやることもできなかった。
だから責められない。
責める資格がない。
春先、漁協の若い衆が、新しく船に乗ることになった息子を連れて港へ来た。
まだ十代の、痩せた子だった。
合羽が大きすぎて、袖が余っていた。
父親は照れくさそうに、「こいつ、愛想ないんですよ」と笑った。
私はその子に長靴の紐の結び方を教えながら、不意に父のことを思い出した。
そして、少し迷ってから言った。
「愛想なくてもいいよ。船の上でちゃんと見て動けるなら、それで十分だ」
父親は少し驚いた顔をして、それから照れたみたいに笑った。
その子は気まずそうに俯いたが、耳だけ赤くなっていた。
たぶんあれは、昔の父が言えなかった言葉の、ほんのかすかな続きなのだろう。
私はいまでも、ときどき港に立って、自分の船が戻るのを待つ癖のある年寄りを見る。
昔は、それを暇そうだと思っていた。
いまは違う。
あれは見送りであり、祈りであり、見守るという古い愛情の形なのだ。
夕方、漁を終えて港へ戻るとき、岸壁の向こうに誰もいないこともある。
それでも私は、つい一瞬、あの背の高い影を探してしまう。
父はもういない。
けれど、港の風の中には、まだあの人の黙った視線が残っている気がする。
船をつなぎ、網を洗い、魚を降ろし、空が群青に沈んでいくころ、私はラジオの電源を切る。
そのとき、雑音の奥から、父の言わなかった言葉が聞こえる気がする。
いや、聞こえるのではない。
ようやく、私が聞けるようになっただけなのだろう。
見守るくらいは、まだやれる。
あの一行は、死んだ父から遅れて届いた手紙みたいに、いまも胸の底に残っている。
だから私は、明日も海へ出る。
夜明け前の冷たい港で、ラジオを船に積む。
それは天気を知るための道具であると同時に、父が最後まで手放さなかった、沈黙の愛情の形見でもある。
海は相変わらず厳しい。
漁は思うようにいかない日もある。
風向きひとつで、朝の目論見など簡単に崩れる。
それでも、沖から戻るたび、私は少しだけ胸を張る。
見られていたのだと知っているからだ。
そしていつか、もし私にも息子ができて、同じようにうまく言えなかったなら、そのときはせめて、港で見送る背中だけは父から受け継ごうと思う。
黙っていても、見ていることはできる。
無口でも、帰ってくるのを待つことはできる。
それくらいなら、私にも、まだやれる気がする。
たぶん父は、そういうふうにしか愛せなかった。
そして私はいま、その不器用さの中にあった、静かなあたたかさを、やっと自分のものとして受け取りはじめている。




コメント