【泣ける短編小説】理容師と同級生、山頂で果たした30年ぶりの再会

雲海を望む静かな観測所 泣ける話

「吉野さん、小さな大会なんですが、出ていただけませんか」

写真館の主人は、そう言って壁の時計を見た。

理容組合が開く写真技術大会で、店外で働く理容師の腕を一枚の写真で競う。小さく、逃げ口上の立たない大会だった。

今日の午後、山頂の気象観測所で撮影するはずだった理容師が、急に来られなくなったという。

「予約は四時までです。そのあとは七五三の家族が来ます」

秒針が、乾いた音を立てていた。

私は断るつもりだった。新しい鋏を買うにも三年かかり、店の椅子を五センチ動かされただけで落ち着かない。大会には、負けても生活を変えずに済む人間が出るべきだと思っていた。

だが、モデルの名を聞いて、返事が喉に引っかかった。

坂井だった。

「観測所から、代わりは吉野理容に頼んでほしいと指定がありまして」

なぜ私なのかとは聞かなかった。昔の失敗を人前へ引っぱり出されるような気がして、聞けなかったのである。

中学を卒業してから、三十年近く会っていない。

坂井は父と同じ気象の仕事に就き、数年前この山へ戻っていた。それさえ私は初めて聞いた。

十五の夏、私は坂井の髪を、同じ観測所の物置で切った。

坂井の父親は観測員で、夏休みだけ山頂の職員宿舎にいた。私は町へ下りる最終バスの前に、よく彼を訪ねた。雲を上から見ると、自分たちだけが町から許されたように思えた。

同級生にガムをつけられ、自分で切った髪が無残な段になっていた。いじめられたと言えば父親が学校へ来る。だから誰にも言うな、と坂井は言った。私は父の店から鋏を持ち出し、雨の匂いがこもる物置で、震える指を動かした。

鋏の革ケースには、〈吉野理容〉という薄れた名札が縫いつけてあった。留め金が外れ、坂井が観測機械の修理に使う細い銅線で応急処置をした。

「きちんと直して、見送りの日に返す」

坂井の父親は、その週の終わりに別の気象台へ移ることになっていた。

翌日、髪を褒められた坂井は、私の前で笑った。

「誰に切ってもらったって、同じだよ」

私たちは秘密を守った。

守ったまま、坂井は転校した。

私は見送りに行かなかった。革ケースより、たった一言のほうを惜しんだのである。いま思えば、ずいぶん安物の誇りだった。

私は父の店を継いだ。けれど、あの言葉だけは、切った髪のように床へ落ちてはくれなかった。坂井は理容師を恥ずかしい仕事だと思っている。そう決めてしまえば、会いに行かない理由には困らなかった。

山頂は八月なのに冷えていた。

観測所の廊下には、時計が三つあった。どれも秒針の音が少しずつずれ、急かされているのか、待たれているのか分からない。

坂井は観測室の窓際に立っていた。昔より髪が薄くなり、私より少しだけ立派に老けていた。

「時間がないので、先に準備を」と写真館の主人が言った。

私は挨拶をしなかった。坂井もしなかった。

白い布を首に巻き、櫛を入れる。耳の上に鋏を走らせると、坂井は昔と同じように、切られる側のくせに肩へ力を入れた。

秒針が鳴っていた。

髪が白い布を滑り落ちた。

窓の向こうでは、雲の切れ間から町が見えた。私は、あの景色を坂井と黙って見たいと思った。その程度の願いさえ、三十年も持ち歩いた自分が少し可笑しかった。

撮影の照明を用意する間、若い観測員が古い棚を開けた。

「これも一緒に写しますか。坂井さんが大事にしているんです」

差し出された革ケースには、名前の薄れた名札があった。

〈吉野理容〉。

留め金には、十五の坂井が巻いた銅線。その上から、赤い糸、釣り糸、細い針金が重なっていた。壊れるたび、誰かが直したのだろう。革は手の脂で黒く光っていた。

「この鋏の話、ここでは有名なんですよ」

若い観測員は、私の顔を知らないまま続けた。

「昔、ひどい頭をした子どもを、外へ出られる頭にしてくれた床屋がいたって。坂井さん、新人が失敗するたびに話すんです。人の仕事は、恥を消すんじゃなくて、顔を上げさせるものだって。ただ、床屋の名前だけは言わないんです」

赤い糸は、予報を外して眠れなくなった新人が縫ったもの。釣り糸は、けがから復帰した技師が結んだものだという。

名札の文字は消えかけているのに、私の知らない人たちが、その名札を直しながら仕事へ戻っていた。

三つの時計の秒針が、ばらばらに鳴った。

私は坂井を見た。

彼は窓の外を見ていた。

問いただすことはいくらでもできた。なぜ会いに来なかった。なぜあの日、誰に切られても同じだと言った。なぜ名前を隠した。

尋ねれば、たぶん何かは解決しただろう。

だが私は、感謝を取り立てるために山を登ったのではない。そう思えるまでに三十年かかったのだから、ずいぶん勘定の遅い男である。

写真館の主人が「あと一分です」と言った。

私は坂井の襟についた短い髪を払い、布を外した。

それから、ただ言った。

「久しぶりだな」

坂井は一度だけうなずいた。

「ああ。ずいぶん待った」

何を待ったのか、私は聞かなかった。

シャッターが切られる直前、雲がほどけ、窓いっぱいに町の屋根が光った。私たちは鏡越しに、同じ景色を黙って見た。

大会の結果は、まだ来ていない。

翌朝、私はいつもの時刻に店を開けた。時計の秒針は相変わらず、せっかちな音を立てている。

革ケースは観測所に置いてきた。名前が薄れたままでも、あれはあそこで何度でも直されるのだろう。

最初の客が戸を開けた。

私は白い布を広げ、いつもどおり椅子を引いた。

「おはようございます。今日は、どうなさいますか」

「いつもと同じで頼むよ」

客は安心したように腰を下ろした。

その重みで椅子がわずかに鳴った。

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