母が死んだ翌朝、私は駅の落とし物保管庫で、自分の名前が書かれた荷札を見つけた。
《拾得物――帰りの切符》
《持ち主――私の息子》
母の字だった。
切符の日付は、二十四年前。
私が故郷を捨てた日である。
もっとも、故郷を捨てたなどと言えば、いくらか勇ましく聞こえる。
本当は、故郷のほうから捨てられたと思い込み、逃げただけなのだ。
私は雪国の小さな駅で、駅員をしている。
冬になると線路は一晩で雪に埋まり、始発前には膝まで雪に浸かってポイントを掘り出す。
都会へ向かう列車は一日に六本。
降りる人より、出ていく人のほうが多い駅だった。
私も十八歳の冬、この駅から東京へ出た。
小説家になるつもりだった。
父を早くに亡くし、母は駅前食堂で働きながら私を育てた。
上京の日、母は窓口で買った切符を一枚、私に差し出した。
「帰りの切符は」
私が尋ねると、母は私の襟についた雪を払いながら言った。
「いらないよ。帰ってこなくていいから」
母は笑っていた。
だから、なおさら残酷に思えた。
私は返事をせず、列車に乗った。
窓の外に母の姿が見えたが、一度も手を振らなかった。
東京では、小説家になれなかった。
原稿は戻され、仕事は続かず、結婚にも失敗した。
夢に破れたというほど、立派に夢を追ったわけでもない。
うまくいかないことを母のあの一言のせいにして、私は自分を慰めていただけだった。
四十を過ぎて故郷へ戻った。
母は玄関で「お帰り」と言った。
私は「しばらくいるだけだ」と答え、母の家ではなく駅員宿舎に住んだ。
帰ってきたことを認めれば、負けたことまで認める気がしたのである。
すでに負けて帰った男が、何を守っていたのだろう。
人間の見栄ほど、置き場所に困る荷物はない。
母は月に二度ほど駅へ来た。
待合室に座り、改札に立つ私を眺めていた。
「何か用か」
「お前に返さなきゃならないものがあってね」
そう言って、母は古い財布に手を入れた。
「金ならいらない」
「お金じゃないよ」
「仕事中なんだ。今度にしてくれ」
母は困ったように笑い、財布を閉じた。
あとで知ったことだが、母は県立病院へ通っていた。
膵臓に病気があることを、私には隠していた。
駅へ来たのも私を見張るためではなく、通院に列車を使っていたからだった。
それでも帰りには一本遅い列車を選び、私が改札に立つ時間まで待っていたらしい。
私はその時間を、母のお節介だと思っていた。
最後に母を見たのは、十二月の夕方だった。
吹雪で列車が遅れ、駅には運休の問い合わせが相次いでいた。
母は雪をかぶったまま窓口に現れ、古い財布を差し出した。
「これを、落とし物として預かってくれないかね」
「今は忙しいんだ」
「持ち主は、お前なんだけどね」
その一言に腹が立った。
母は、私が夢も家庭も落として帰ってきたと言いたいのだと思った。
「僕は何も落としていない」
私は母の顔を見ずに言った。
しばらくして、母の声がした。
「そうかい。なら、見つかったときでいいよ」
母は待合室の隅で、落とし物タグに何かを書いていた。
けれど私は、最後まで迎えに行かなかった。
三日後、母は病院で亡くなった。
夜中に容体が急変したのだという。
私は最期に間に合わなかった。
母が病気を隠したせいだ、と一度だけ思った。
そう思わなければ、自分を許せなかった。
葬儀の翌朝、私は逃げるように出勤した。
悲しむより働くほうが楽だった。
改札を拭き、時刻表を確認し、誰もいないホームの雪を払った。
そんなことをしていれば、母の死まで雪の下へ埋められる気がした。
昼前、若い同僚が保管庫から封筒を持ってきた。
「お母さんから預かりました。あなたが受け取らなければ、落とし物にしておいてほしいと」
封筒の中には、古い切符が一枚入っていた。
東京から故郷へ戻るための切符。
私が上京した日、母が買った往復切符の帰りの一枚だった。
結ばれた荷札には、こう書かれていた。
《拾得場所――三番線ホーム》
《拾得物――帰りの切符》
《持ち主――私の息子》
裏側にも、母の字が続いていた。
《あの日、本当は往復の切符を買いました》
《あの子が何度も振り返るので、帰ることを考えていたら、遠くへ行けないと思いました》
《だから帰りの切符を隠し、「帰ってこなくていい」と言いました》
《帰ってくるな、という意味ではありません》
《私のことを心配せず、行けるところまで行っておいで、という意味でした》
《帰りたくなったら、切符がなくても帰っておいで》
最後の一行だけ、文字が大きく震えていた。
《私は、ずっとここにいます》
私は保管庫の床にしゃがみ込んだ。
母に捨てられたと思っていた二十四年は、母が私の帰り道を預かっていた二十四年だった。
期限の切れた切符を胸に押し当て、声を殺して泣いた。
謝っても、もう遅かった。
母の名を呼んでも、返事はなかった。
窓の向こうでは、雪が線路とホームの境目を消していた。
それでも、やがて始発列車の灯りが、白い闇の奥から現れた。
今も私は、この駅で働いている。
母の切符は、制服の胸ポケットに入れている。
もう列車には乗れない紙切れである。
けれど最終列車を見送るたび、私はそれに触れ、声に出さず祈る。
今日、この駅から去った人が、いつか無事に帰れますように。
言い方を間違えた愛が、憎しみのまま残りませんように。
そして、帰る場所を見失った誰かのために、どこかの駅で一つの灯りが、消えずに待っていますように。




コメント